『火粉を払う、息を吸う 24』 史絵
「2週間後に死闘がやって来る」
なぜ咲には分かるのか。
「なぜ私にそんなこと分かるのか……まあ、組織にいると分かるようなことだからだ。史絵は、月に一度ほど組織に狙われることになっている。詳しくは後で話そう」
ぱん、と手を合わせ、「防具の説明のつづきだ」と一旦を締められた。
空心菜という名を持つ黒いさすまたをバッグにしまう。入れ替わるように、ずしりと重い服が取り出される。防弾チョッキだ。見た目が登山用ジャケットのようで、そこまで重くないように見える分、実在する重量が現実以上に大きなものに感じてしまう。ああ、そうだジャケットだ。チョッキというより。防弾ジャケットと呼ぶとしっくりくる。
「4キロほどある。小学6年生のランドセルに詰められる教科書の計は平均で5,6キロだから、夏休み明けの半日授業だった日 背負っていたのを思い出して身に纏うといい。それくらいの重さ──それくらいの軽さだ」
咲の言葉を受け、とりあえず着てみることにする。「ま防弾チョッキにしては相当軽い部類だな」と前髪の向こうから聞こえるのをそのままに、腕を通す。
「どうだ?」
「わ……ちょっとだけ、重い、ような……」
「あっちまで走ってみてくれ」
公園の入り口にして出口を指している。言われるがままに、行ってみる。老人共の集会は今日も無事に終えたようで、公園は3人を除き誰もかれもいなくなっていた。だっだっだっ、砂を後方へ飛ばしながら身体を駆動させる。そこまで大きな公園ではないが、公園名の彫られた碑にタッチする頃には、気道がぜえぜえ声をあげていた。……重い!疲れる!
咲が言ったのは「あっちまで走ってみて」なので、帰りも走る必要はないはずだと解釈し、とぼとぼ歩いてベンチへ戻る。息の上がった状態では歩くだけで疲れるので休憩にならない。
「うーん厳しいか……」
「はぁ、はあっ」
「お、おつかれ……」
まくらのねぎらいの言葉に、手を膝にあてて立ったままこくりと頷く。ただでさえ沈んでいた頭がさらに下へ潜った。どのような人間でも防弾ジャケットを着たまま走った方がそうでないより疲れるだろうが、それにしたってあの短距離走で息を荒くするのは自身の運動不足を痛感する。
「じゃあこれは私が着る」
咲はそう言って手を長袖から引っ込め、服の中でもぞもぞ動かした。そのたび薄い袖がはたはたと動き、風の吹かない五月の鯉のようだった。上だけでなく、下も今の季節には暑そうなジーンズだ。僅かにダメージを演出する膝あたりの──カーテンの隙間のような──裂け穴から──カーテンの隙間から差す光のような──白い肌が見える。
この朝から蒸し暑いのに長袖なのは虫刺され対策だろうか。などと考えながら見ていると、袖からにゅっと手が生え戻ってきた。そしておもむろに、今度は首を通す部分に手を突っ込み、すぽーんと、なにかを抜きだした。射出された勢いでバサンと一度広がってみせたあと、やはり生きない鯉のようにしおれた。こちらもまた袖の長い……シャツだった。黒いシャツだ。咲は中に着ていたらしいシャツを掲げていた。
咲はそれをくるくる丸めて、わざわざ手で渡した。さすまた“空心菜”のように軽く投げられるのかと思ったので、やや不思議がりながら受け取る。
「んっ」
重い。いや、重くない……。重くないのだけど、服にしては重いというか、見た目のわりに重いというか。
「特殊な繊維で作られたシャツだ。通気性もそこまで悪くない。私も愛用していたので、なかなか中古ではあるが……着ておいてくれ。これを防具とする」
見ると咲はいつの間にか防弾ジャケットを着ていた。黒い一方で、光を弾いて白いようにも見えた。咲は史絵とまくらの目線に気づき、多少誇らしげに言った。
「私はこれでもある程度は動ける。クォーターマラソンくらいはな」
ふたりの少女の耳がもう少し更に良ければ、ふふん、という鼻から抜ける空気の音さえ聞こえていただろう。
向こうのトイレで着替えることになった。首からかぶるとき、意図したわけではなかったが、嗅いでしまった。……汗のかおりが全くしない。咲の体質か服の性質か分からないが、シャツは極めて清潔のように感じる。抵抗なく着れた。ただどうしても黒いので、生地も色も薄い今日の上着から僅かに透けて 鏡に映っていた
「どうですか?」
「よし。これから夏、制服も私服も半袖のものを着たくなるかもしれないが、毎日それを着てくれ。普通の刃物になら裂かれることはないだろう。……ただ、刺されるのには注意することだな」
空に軽く振った手刀を、咲は今度、突き刺すように動かした。やはり刺されたのは空で、そこには何もなかったが、史絵には布の向こうの肉がイメージできた。
「まくらの分も用意しよう。いるだろ?」
「ありがとう。いる……!」
咲はもうアウトドア用ジャケットにしか見えない防弾チョッキのポケットに、尖らせていた手をしまった。暑くないのだろうか。ふと、まだ外気に触れているもう片方の手を見る。白いリストバンドのようなものを巻いていた。黒いミミズのような活字が走っている。
「(何だろ……シャ キ ラ、ク、パ、ディ…?)」
意味不明な言葉だが、大学生くらいにはこういうのがファッションとして流行っているのかもしれないと考えると、なかなか史絵は、尋ねることができなかった。
「よし。2週間後の刺客について話そう」
「はっ、はい」
「金切音楽 蟲……そいつが、二週間後に私たちを襲う奴の名前だ」
「……」
姓名が漢字4文字対1文字になっているのは、「世界そのまま社」の暴力担当部門のならわしのようなものであった。咲と同門であり、このことは咲の名もまた組織で名付けられたものであることを意味していた。伊乃一番 咲の同僚にして、敵、金切音楽 蟲。
「こいつは、トイレットペーパーの芯に入れた金属片を高速で射出する。予備動作……“祈り”を実らせる手順の締めは、皿に緑の絵の具を塗る、だ」
「そいつは組織でも……そのまま社の中でも有名なの?名前もフルで覚えられてて、“祈り”も割れている……」
まくらの言葉と言葉の間の短い沈黙は、彼女が自身を落ち着けさせながら喋っていることを示していた。
「ああ有名だ。非常に悪い意味で」
咲は再びベンチに腰を下ろした。話を続ける。
「こいつは……なんでもかんでも悪いが、特に頭が悪い。愚直なんだな。やれと言われればなんでもやるし、やりすぎる。捕らえてこいと言われたら、捕らえるを越して、殺してくる。狂人だ。こいつが二週間後に、来る。一昨日の集まりで聞かされた」
「え、そのまま社にはその人の他にも沢山、実力行使担当の人がいるんですよね……」
史絵の首に流れた汗が、一閃の筋となる。彼女の声は既に、他者が聞いても分かるくらいに震えていた。
「ああ」
「なんでよりによって蟲さん……でしたっけ。特にヤバそうな方が……」
「そのまま社はよりよく会の企んでいる──とされている──世界改変を阻止したいわけだが、世界改変のトリガーとしてあたりをつけているのは“史絵”だけではない。史絵は優先度でいうと……上から6番目だ。つまり史絵というターゲットは世界を変えるかもしれない、けど、きっとこいつが世界を変えやがる と思われているターゲットが他にある。優秀な者は、より高優先度のターゲットのところへ回される」
「そ、それで」
「それで、優先度もまあ低く 少女を一人誘拐するだけの難易度も低そうなこうしたところに、余りもの……ヤバい奴がやってくるわけだな」
「最悪だ……」
どうも自分は「まあ一応こいつもチェックしとくか」程度の感覚で命を狙われているようなのだ。たまったものではない。史絵は頭を抱えた。他の同年代の少女が今みたいな状況に陥ったらきっと誰でもそうするように。
「史絵とまくらの前に姿を現すより先に 私が倒しておきたいところだが…すまない、組織内では人の目がありすぎる」
「いえ……」
ばくばく跳ねる心臓のあたりを抑え、汗をぬぐう。手が頬の上にまで達したとき、ぬぐった体液が汗ではなく涙であることに気づいた。少し恥ずかしい。恐ろしいのだ。殺されることが。
「あ、の……」
「どうした」
「できる限りのことを教えてください。そいつの……金切音楽 蟲のこと。きっと、震えず戦ってみせます。得体の知れない大きななにかの気まぐれなんかで、死なないでみせます」
「ああ、私も、史絵を死なせなんかしないよ、絶対に」
「ボ、ボクも……!」
……
咲から聞いていた通りだった。史絵以上に黒く長い髪をした、紺色の制服の女子高生。水の上から下に落ちるように重力に逆らわない、流れるような髪だ。毛先だけ僅かにオレンジが入っており、反射で金にも見える、奇妙な染色をしている。でこを広く出し、裸眼の瞳は大きく、しかし鋭く、笑っていない。ギターケースでも背負っていた方がさまになりそうなものなのに、彼女の背には不気味で長い筒が見えるばかりだった。
2013年7月第二水曜日放課後。史絵とまくらの前で、狂った蟲が腹を見せて鳴いていた。金切音楽 蟲が、少女を殺すために現れた。




