『火粉を払う、息を吸う 23』 史絵
「そういえば、期末試験までそろそろ一か月……」
「あっ、…あー……」
そういえばそうだった。6月第四土曜日。あまり気にしないようにしていた出来事──つまりは試験という存在──にずけずけ触れてくるまくらと並び、朝から歩いている。向かうのは小さな公園だ。ジジババの集いかなんかがいつもあるみたいで、人の少ない昼からは想像できないほどに、朝に限定して沢山の人がいる。そんな場所に今日、3つの異分子が入り込むわけだ。つまり、珍しく、若い女の子3人が。
史絵の成績は中の中……の、ちょい下くらいだ。だがそれは人並みに勉強したらの話である。人並みに勉強すれば、人並みの成績になる。当然、勉強をしないとすぐさま成績は底の底へ自由落下で着陸し、かといってありったけ勉強しても天の才が発覚することもない。そんなわけで彼女は、人並みに……一般的な中学生と全く同様に、期末試験を嫌っていた。
まだ1か月ある。中学の定期試験は2週間前から勉強を始めるのが相場だ。まだ焦る時間ではない。しかし、「世界をよりよくする会」と「世界そのまま社」に関わるのは1か月では済みそうもなく、テスト勉強をする余裕があるのかどうか。教育熱心というわけではないが、父は学校で社会科の教師をしている。娘が一切の勉強をしないとなると、流石に親としても職種的にも咎めないわけにはいかない。世界の滅亡が……自分の命がかかっているかもしれないのに、そのことが史絵には心配だった。
「……」
……いや、世界の滅亡ってのはないか。滅亡というより、パッパラパー。「世界がパッパラパーになるかもしれないのに」というのが正しい。
「こんな事件に巻き込まれるの初めてだから、こういうときどうすればいいか分かんないね。物語に登場する英雄たちは、こういうとき学校の勉強をおろそかにしていたっけ?」
「ボクは平日ずっと図書室で自習時間を…確保できてる……。史絵も、そうする……?」
授業の方をサボってしまってはどうか、と。
「それもいいなあ」
実際来週からどうするかは別に、こんなときにまで勉強の心配をしているのが可笑しく思えてきた。世界がパッパラパーになるかがかかっているかもしれないのに、勉強のことで悩んでいるなんて。
「でも、ちょっと前の人たちもこんなカンジだったのかな?」
史絵は心の声が漏れたように、要領を得ないことを隣の子に尋ねた。
「ん?なにが?」
「あ、いや。……なんでも」
1999年、みんなは世界が滅亡するかもしれないと心のどこかで思いながらも、明日もある学校や会社のことで一喜一憂していたのだろう。世界がどうにかなっちゃうかもしれないっていうのに、日常のことで悩んだり、喜んだりしていたのだろう。
それでいて、「どうせそろそろで世界が滅ぶんだから学校なんてサボってしまえ」と考えていたやつもいたのかもしれない。
滅びなかった世界でかれらは今、何をしているだろうか。
……
まだ眠たい頭のまま公園に到着した。朝日は昇ったのは昇ったが、遠くの背が高めの建物に隠されてしまうほどにはまだ昇りきっていないらしく、明るい空の反対側はまだ暗い。
わいわい賑わう老人共を遠くからぼーっと眺めている、銀髪の、スラっと長身の女性がベンチに座っていた。手を左右に伸ばして一人で三人分のスペースを使っている。健脚老人共以外に人のいないこの時間帯のみ許された贅沢な使用法だ。少女二人は彼女に近づく。
「おはようございます」
史絵はあさく頭を下げた。意図的にというよりは釣られて、まくらもそうする。瞬間二人の目には芯の通った脚と靴、地面が大きく映された。次の瞬間には頭を上げ、また大人の女性の顔を映す。相手は座っているのにほとんど目線が同じだ。挨拶を返してくれた。
「おはよう。そっちは、あの日の──」
咲とまくらは互いに顔を見たことがある。あのボーダー服のおばさんが襲ってきた雨の日……史絵の誘拐があった日に、僅かな時間だが。
咲は「恐らく「祈り」による力で史絵を車中に引っ張り込み、誘拐をした人間」というイメージで、まくらの認識は続いていた。警戒の現れとして、まくらは腰あたりに付けている左右ずつで計2つのペットボトルホルダーのうち、左の方をとんとんとタップした。何者にも気づかれないように。隣の史絵にも、目の前の誘拐犯にも。
「(あの日。史絵を誘拐した日、隣にいた子か。前髪が長くて目線が見えない)」
咲もいろいろ考えるが、とりあえず思考が着地したのは、
「(なぜペットボトルホルダーを2つも付けているんだ?)」
といったところだった。
モクラが入っているためである。
2つのホルダーのうち右は本来の用途で使われているが、一方で左には泥っぽいモグラ人形が詰め込まれていた。まくらの2回のタップに反応に、モクラはむくりと体を起こす。この場合体を起こすというのは、土の体の中に埋めてある折り畳み式ナイフをゆっくり垂直に整えるということを指す。つまり、臨戦態勢だ。主人から「警戒して」と命令が下っている。
「あの日、私の隣にいた子です。私が連れていかれた場所を割り出して警察を呼んだのも、この子です」
隣で史絵が口を開く。「相手を刺激しないように」以外の理由で被害者が誘拐犯に丁寧な口をきいているという、奇妙なシーン。
史絵から、咲がどういう意図で誘拐を行ったのか その事情やその後のことは聞いていた。一言にまとめると「咲は史絵の味方」である。それでもまくらには緊張があった。
「彼女はもはや無関係者ではないと思い、一連のことを説明しました。それと……彼女は、私たちについてくるようです。どうしようとも」
目を右にやると、左から目が動くのが見えて二人は目が合った。まくらは途端に、誇らしく思った。こくりと、頷きを、目の前の年上に見せてやる。
「ボクも、史絵を守りたい……」スゥと大きく息を吸い、「初めての友達だから」、と短く言った。
「史絵の置かれている状況に……関わる、覚悟ができていると言いたいわけか」
「そう」
「……私は、本当の意味で“覚悟”なんてものは存在しないと思っている。例えば祖国のために誇りをもって戦うと覚悟した──そう謳った兵士がいたとして。その時点で、戦場で撃たれる痛みは知らないわけだ。そいつが実際に戦いに赴き、銃弾が脇腹を掠めたとき、たったそれだけでそいつの覚悟は崩れ去るだろう。祖国のために戦うとかそんなことどうでもいいから、お腹が痛い、逃げ出したい、戦うとか言うんじゃなかった……などと思う。自分の“覚悟”に後悔する」
咲の意見は、史絵があの放課後に危惧していたことと同じ内容をしていた。聞いていて史絵は、自分の心に「やはり今からでもまくらを突き放せないだろうか」という考えがあることに気付く。今からでも、まくらをこれ以上巻き込まずに済む説得があるのではないかと模索している。
高尚な覚悟は、現実の苦痛を前にいとも簡単に撤回される。「愛する者のためならこの命だって差し出す」とかそういうのは、つまるところ信憑性がないのだ。これのタチが悪いところは、高尚な覚悟を公言した本人にもその瞬間に嘘はないことだ。「この命だって差し出せる」と、口にしたその瞬間は本当に本心から思っている。
まくらは返す言葉もなくて困っている……というわけではなかった。というか目が前髪で隠れているせいで一体どんな様子なのかを判断することができなかった。しかしやはり、困ってはいなかったのだと思う。僅かな沈黙を、これまた僅かな動作で破ってみせた。さっとみずからの前髪を払い、両目を見せ、そう大きくも小さくもない普通の声で言った。
「兵士の喩えはよくわからない。でも、その喩えに出てきた兵士も、お腹を打ち抜かれようが戦わざるを得ないと思う。戦場に来れたのなら、逃げ出したいとか思っても、逃げ出せないのだから」
「……後戻りできないところまで来たのなら、“逃げ出す”という選択肢は、精神的にではなく物理的に無くなると。そう言いたいのか?」
「た……多分そういうこと。今のボクは、史絵を守りたくてたまらない。その気持ちの揺らがないうちに、もう戻れないところまで、まずは……“関わる”!」
咲はベンチに大きく広げていた手をパッとはなした。太ももに肘をつき、手で抱えるように頭を乗せる。ついさっきリストラされてきたサラリーマンみたいな姿勢である。前かがみになってお腹を潰している。腸に悪そうな姿勢だがいつまで続くか、と見る者が思ってしまう前に咲はパッと顔を上げ、言った。
「分かった。彼女も……巻き込もう。この馬鹿げた戦いに」
「ええと名前は、」
「まくら」
「まくら。私は咲だ。伊乃一番 咲。呼ぶなら咲でいい。」
「咲……」
2人がいきなり殴り合いなどに発展しなくて、史絵はほっと胸をなでおろす。人差し指で眼鏡を適切な位置まで上げ、息を静かに吐いた。
「さ、史絵。これを渡しておく」
体を更に前へかがめ、咲の体はくにりと折れ曲がった。ベンチの下に置いてあったらしいベージュの手提げのバッグを取り出し、2,3回かき混ぜるように左手をがさごそ動かし、結局バッグごと渡した。何かのイベントで無料で配られているような薄い布の、エコバッグである。
「これは…」
ガワの色と安っぽさに反し、取っ手を手にした瞬間にずしりと重量が腕から骨と筋肉に伝わる。開くと、黒っぽい服が一着、がさつに畳まれた状態で入っていた。
「防弾チョッキだ。下には催涙スプレーと携帯式のコンパクトなさすまたがある」
「一旦……袋置きますね」
ぷるぷるする腕を地面まで下ろし、鞄を手から抜く。どさっと重さを感じさせる音を立て、と同時に乾燥した砂が打楽器の立てる音のように短く舞った。手をひらひらさせていたわる。なかなか重かったのだ。
黒色の服をどかし、袋の底まで手を突っ込むと、かつん、と爪がすべすべしたなにか棒状のものに当たった。ぐいっと少し無理に引っ張り出す。
「それが、さすまた だ」
史絵はそれを手に取り、じろじろ眺めてみた。自転車のハンドルもといグリップのように掴みやすい、黒色の棒だ。
「伸縮式の警棒……というか折り畳み式の傘と同じ構造をしていて、普段はこのように、この通り、まさしく折り畳み傘みたいなサイズをしている。縮こまっているのだ。そして……勢いよく振ると伸びる。マックスで四節までな」
咲が「以上のことを踏まえて、振ってみせよ」といったジェスチャーで促してくる。史絵はそれに従い、咲とまくらに当たらないように誰もいない虚に向かい、そこそこ強めに振ってみた。シャッと黒い光を放ちながら、手元から何かが抜けていった感覚がする。カッ、カッ、カッと三段階ほぼ同じ瞬間に音を立て四節の棍に伸び、伸び切ったときに先端が勢いよく開いた。先端の第一の棍はなめらかに曲がった2本に枝分かれするという奇妙な変形をし、Y……というより、Uの字になっていた。小学校の変質者を想定した訓練で度々見かけた、見覚えのあるさすまたの形になったわけだ。
「ただ、携帯性を高めるとかそういった構造の理由で、またの角度に制限がある」
咲が、伸びきった黒いさすまたを見ながら、言った。確かに学校に置いてあるようなやつに比べると、またの部分がやや小さい。丁度、それぞれ開いたときの 通常の傘に比べた折り畳み傘のようなサイズ感だ。アルミニウム原子1個と比べたテニスボールが、テニスボールと比べた地球くらいの大きさである……みたいな話だ。……いや、そういう話ではないかもしれない。ともかく、この黒きさすまたはふつうのさすまたに比べ、開いた状態でもやや小さかった。
「大男の胴体を捕らえることは難しいだろうな。胴よりも……『ダイの大冒険』シグマ戦でポップが使っていたブラックロッドのように、腕やら脚やら、四肢を狙うくらいがいいだろう」
「(ダイの大……なんだろう)」
「(ダイ……?何の話だろう?)」
少女2人は『ダイの大冒険』など知らなかった。
咲の「貸して」と言う声に、さすまたを返す。
「一度また部分が開くと、またの方に何か衝撃があっても閉じない。つまり捕らえた相手がじたばたしても大丈夫というわけだ。閉じるときは……この、グリップ部分のちょっと上らへん、軸に沿って走っているギアがあるだろ? これを捻るとまたが連動して閉じる」
じ~こ、と何かが擦れる音を立てて、咲の手によってギアが回り、先頭の棍がだんだん閉じていった。一本の黒い棒となる。
「あくまで護身向けの道具なので、この状態でも武器には向かない。丈夫だが中はほとんど空になっていて、ビシバシ叩いても打撃ダメージは入らない」
そう言って、咲は棒状態のさすまたを近くの細い木に、普通にバットを振るうようにぶつけた。こぉーん、かこーん。軽い音が短く響く。自身の説明に満足した様子で、振るのをやめて先頭の棍の頭をてのひらでぐりぐり押し、カチッカチッと鳴らしながら棍を戻してゆく。元のコンパクトな状態になったとき、史絵に向かって下投げで返した。放物線を描いて飛ぶ、卒業証書入れのようなソレを史絵はなんとかキャッチする。よたた。2歩ほど後ろに下がってしまったが。
咲はこれを空心菜と呼んでいるようだった。史絵も、そう呼ぶことにする。
「体力でも体術でも今から鍛えることは厳しい。性質ゆえ、史絵の場合“祈り”を戦いに転用することも難しいだろう。となると、道具に頼るというのは必須だ」
人差し指を立てながら咲は演説でもしているかのように力強く言った。その通りだ、と思う。しかし提案したいこともある。
「え…例えば、学校に行かずその分の時間を鍛錬にあてるみたいなことは──」
「やめた方がいい」咲の声は、返答というより遮るようだった。「“日常”を削るようなことはしない方がいい。次の戦いまでできることで一番大きなものは精神面の強化。メンタルのセットだ。これは『金色のガッシュ‼』クリア・ノート編でデュフォーも言っていたことだが、精神を鍛えるにあたり、“日常”を大切にしないと危険だ」
知らない、そして恐らくあまり関係のない固有名詞が話に唐突に登場したことにより、少女2人の脳はコミュニケーションを放棄する選択肢を見据え始めていた。「(金色のガッシュ)?(デュフォー)?」それでもなんとなくの内容をなんとか汲み取る。つまるところ咲の言いたいのは「もう念入りな備えをしている時間などない」「となるとできることは精神を強くしておくことくらい」「精神を鍛えたいのなら“日常”はおろそかにするな」「つまり学校をサボるな」といったところか。
「(つまり学校をサボるな、ってことかな……)」
メンタルを鍛えて道具に頼る。図書館に置かれてあるような「世界を救う」物語の前例たちとは、比べ物にならない恰好のつかなさだ。だが、やるしかない。
自分なりに咲の言葉を咀嚼している史絵の隣で、まくらが手を挙げる。
「その言いぶりでは、次のトラブルが起こるまで時間がないということを知っているみたいに聞こえる……“いつ”なのか、分かっているの?」
ボーダー服のおばさんがまぶたの裏に浮かぶ。あのおばさんはあれで、特に戦闘に特化した人種ではなさそうだった。次はもっと最悪の事態が発生するかもしれない。「殺傷」と呼ばれるような事態が。
「ああ、」咲は天地の理を説明するように当然の態度で言った。「次、史絵が襲われるのは7月の第二週だ」
「し……」
試験の、二週間前だ。一般的な中学生が、そろそろ定期試験の対策を始めるのがよいとされる、頃合いである。




