箱河豚の串刺し 上/志門
世界に彗星が駆けてから10年たった。ということは、当時18だった青年は、もう28歳になるということである。世界は「祈り」を覚えてから10年経ち、それだけ様々なことが起こった。個人としても10年はかなりの歳月だ。高校生だったあの青年は、もう社会に出ている。あの頃の友人とはいつの間にか疎遠になってしまっている。
ぼさぼさとした髪に冷水をぶっかけぺたりと整える。こういうのは中学で卒業してくるべきだったんだろうが、未だにやってしまう。誰か寝ぐせの直し方を教えてくれ。今日も出勤だ。いや、フリーターのそれは出勤とは言わないだろうか。
志門は昨日28歳を迎えたが、それを誰からも気づかれないでいた。志門は、このコンビニエンスストアでアルバイトをして六ヶ月になる。それまでも転々と職場を変えてきたが、やってることが変わったことはない。つまり10年間、何かしらどこかしらのコンビニバイトではあったのだ。
コンビニエンスストアでアルバイトをしていると、(志門だけかもしれないが)漫画雑誌の表紙に詳しくなる。特に週刊少年ジャンプや週刊少年マガジンなどの大手少年誌は客から見えやすい位置に飾るように陳列されているので、客より滞在時間の長いアルバイトはその表紙をよく見かけるのだ。
「(お、アレ、完結するのか。読んでなかったが、完結したのなら読んでみてもいいな)」
「(……にしても、ジャンプ、マガジン、雑誌、本……だけじゃない、プリペイドカード、タバコ、ティッシュペーパー、商品の梱包、パッケージ……というか、このコンビニという建物まで……)」
志門はあるものに執着していた。あるいは、それに気づいたときから一切の成長が止まっている、といってもよかった。
「(世界は……)」
そう。世界は、
「(四角まみれだ)」
四角があるとする。正方形でもいいが、長方形の方が好ましい。更に言うと、長方形の中でも、短い方の辺:長い方の辺=1:2、くらいの四角が好ましい。例えばこの……週刊少年ジャンプとか、だ。週刊少年ジャンプなんかは表紙の絵が派手で少し難しいかもしれないが、こういったものを、脳内で無地の四角だと認識する。
すると、こんな具合になる。
こうして、物体をシンプルな四角形という像に変換するのだ。そうしてできた四角形の、真ん中あたりに程よい直線をイメージする。そうすることで、“中”という漢字のようになるのだ。こんなふうに。
志門は、本当に本当に、一日中こんなことを考えていた。マジでずっっっとこんなことばかり考えているのだ。もはや思考がなだれ込む、これは浸食といってもよかった。脳みそが、四角形に、長方形に、“中”という漢字で飽和してゆく。
「……ア、いらっしゃいませー」
「……」
「あの、」
「あっ、はい」
「これください。あ、あと、タバコ……38番」
「はい。年齢確認ボタンをお願いします」
「はい」
「ありがとうございましたー」
「……」
ほら、あのティッシュっぽい緑の箱、あの長方形なんかまさしくそうではないか。串のように真ん中に直線をブッ刺してやると、まさに“中”という漢字そのものだ。
「……」
そんなことを考えていると、気分がふわふわしてきた。身体が軽い……いや、軽すぎる。いやいや、え?それにしたって軽すぎ……?
「お?お?お?う、うわああああっ!」
身体が、浮いている!!!!
叫び声を聞いてこっちを振り向いた店長が、これまた叫んだ。
「し、志門君!?浮いてる!?どうしたんだーーっ!?」
「す、すみません店長!!」
「謝る!!?謝るようなことなのか!!何を…何をしたんだーーっ!?」
幸い、客はいない。コンビニとして大丈夫なのかと思うが、事実ここらは立地のこともあり、あまり客が来ないのだ。志門の浮遊を目撃したのは、でこが広くなってゆくタイプのハゲの店長だけであった。
少しして、落ち着いた志門は、ゆっくりと高度を下げ、静かに着地した。
「恥ずかしいところを見せてしまいましたね、すみません」
「いや……。 ……特に何にも被害は出ていないようだし、君に怪我もなさそうだから、まずは良かったよ。 それで、あれは、何だったんだい? あの謎の浮遊は、何だったんだい? あれを恥ずかしいと思う君は、何だったんだい?」
見られてしまっては仕方がない。別に隠していたわけでもないが、もう言ってしまおう。
「あれは俺の、その……“祈り”です」
「せ、せ、せ……説明してくれ……」
「ハイ……」
このコンビニは一日を通してずっと客が少ないが、この時間帯は極めて客が少ない(…コンビニとして大丈夫なのか?)。というわけで、軽く店内を掃除しながら、志門は説明した。
「おれの“祈り”は、まず電卓から始まります。電卓に該当する機械・機能で、320に550を足し、870という数字を算出します。そして、両目でまばたきを4回。そのあと……ちょっと説明が難しいんですけど、四角い物を四角形だと認識します。例えばこのテッシュや週刊少年ジャンプは長方形ですよね。こうして認識した四角形の、こう、真ん中らへんに直線をイメージします。すると、脳内で“中”という漢字が完成します」
店長がモップをかけながらうなずいた。
「まあ、そうか。…それで?」
「脳内で“中”という漢字を構成することに成功しましたよね。ここで、“祈り”が実ります。効果は、15秒ほど浮遊能力を得る、です」
店長がげらげら笑った。モップをかけながら。
「へえ~!それはすごい!いや浮遊か~珍しいな、レアだな~!」
「ありがとうございます」
店長が、ポンと手を打った。何か納得したらしい。
「…あ、なるほど!志門君がさっき対応していた客が買ったのは、おにぎり2個とタバコがひと箱!偶然にも計算する際に320円+550円で870が出てしまったのか!」
「そうです!……そしてここからが厄介なのですが。あの、この世界に“祈り”が生まれる前から、つまり10年以上前から、おれが小学生だったころから、おれにはクセがあったのです。四角形の真ん中に直線をイメージして、“中”という漢字を脳内で構成してしまうというクセが!」
ぱ。がしゃ!モップが地面に落ちた音が鳴り響く。見てみると、店長は腹をかかえて笑っていた。
「ははははは!!そんなことあんのか!!ひぃ~!!え、てことは、さっきの浮遊も“祈り”が実ったのも、無意識に!?」
「…恥ずかしながら、無意識に。自分でもびっくりしました」
あはははは!という笑い声が、小さな店内に響いた。
そうだ。そうなのだ。志門という男は、この男は、かなり難儀なのだ!!
ふつう、「祈り」というものは、意識しないと実らないような、意味不明な手順をしている。しかし、志門は偶然にも、彼の行動がたまたま「祈り」の手順をなぞってしまうことがあるのだ!
志門の「祈り」:
①電卓やそれに該当する機能で320+550=870を算出する(←志門はコンビニバイトでレジによく触れ、またおにぎり2個とタバコひと箱の会計がこの式と同じになりやすい!)
↓
②まばたきを4回する(←だれだってまばたきはする)
↓
③四角形の真ん中に直線が引かれて“中”という漢字になるさまを思い浮かべる(←志門はよくそういうことを考えている)
↓
◎「祈り」が実り、15秒ほどの浮遊能力を得る!
それから、気をつけて仕事に取り組み、なんとか今日の分を終わらせた。裏の部屋に入る。少ししたら、従業用の緑と青の制服を脱いでしまおう。
「すみませんでした。仕事中に無意識に“祈り”を行ってしまうなんて…恥ずかしいです」
「いやいや志門君のことを少し知れてよかったよ。ほら、私みたいなオッサン、志門君みたいなクールなハンサムに話しかけづらいものだし」
年齢を聞いたことはないが、店長は30代半ばといったところだ。
「いえそんなこと……。若いのは精神年齢だけです。いや、それは幼いと言うのか」
もう大分同世代の大人たちに遅れをとっている自覚はある。しかしかれらのように、店長のように大人になるのは、志門にはまだできなかった。店長は自分のことをオッサンだと卑下していたが、志門にいわせればそれは違う。店長のような人は、精神が成熟している、と言うのだ。
「またまた~!…あ、そうだ!」
「はい?」
「もしかしてだけど、昨日誕生日じゃなかった!?」
「! 覚えてくれてるんですね」
「そりゃあね!うわ~昨日言いそびれてそのままだった!誕生日おめでとう!」
「ありがとうございます!うれしいです」
すると、サッと店長は手を振って、小走りし始める姿勢に入った。
「ちょっと待って!」
すぐ表の方に出ていった。ガチャ。
ガチャ。
「お待たせ!」
再び扉が開いたとき、そこにはコンビニ特有の小さな買い物かごを抱えた、店長がいた。そして、それをどさりと事務用机に置き、
「お誕生日おめでとう!!」
と言った。
かごには、色とりどりのケーキが入っていた。
「わっすごい」
「ほら!ケーキ、嫌いじゃなければ持ち帰ってって!」
試しに手に取ったモンブラン、の消費期限が目に入る。
「え、これ廃棄品じゃない、まだ正真正銘の商品じゃないですか!?」
「いいのいいの、奢り奢り!」
「うれしいです!ありがとうございます!」
といっても、好きなだけ取れと言われても、全部持って帰るわけにもいかないだろう。かごの中にはマジでコンビニ内のケーキ全種類あるくらいあって、これ全部持って帰るのは道義的にも物理的にも無理そうだ。2個くらい受け取ろう。もう持ってしまったモンブラン、あと一つ、このぶ厚いミルクレープなんかおいしそうだ。
「ホントにありがとうございます、じゃあこの2個、おいしくいただきますね」
「えー遠慮しなくてもいいのに。むしろごめんね、コンビニのちっちゃなケーキしか用意できなくて」
「いや全然……あ、」
ちょっとした閃きが志門に走った。ちょっとした勇気でもあった。
「じゃあ店長、ちょっとだけいいですか?」
そして、言ってみたのだ。「一緒にケーキ食いませんか」と。
「嬉しいなあ、そんなこと言ってもらえるの」
「いや、付き合っていただけるとは思いませんでした。ありがとうございます」
店長が食べたければ自分で買えることなど分かっている。しかし、それでも、志門は、自分だけがケーキを持って帰って食べるというのが少しむずがゆかったのだ。それに店長は優しくて……こんなこと思うのも恥ずかしい、自分の幼稚さに嫌気が指すのだが……店長の優しさに触れ、久しぶりに人の温もりを思い出し、たまらなく嬉しかったのだ、志門は。
「…あ、大丈夫?」
店長が急にこちらに手を伸ばしてきて、どうした、と思ったがすぐに気づいた。自分のほうが少し涙ぐんでしまっていたのだ。どうかしたのは自分だ。それに本人よりも先に店長は気づき、心配してくれたのだ。
「うわっちょ、涙が、すみません!ちょっと誕生日誰かに祝われたの久しぶりで……」
「そうか…今日、ぼくが志門君を、祝えてよかったよ」
「(あーダメだ、28歳になって、まだアルバイト…フリーターやってて、そんでバイト先で泣いたら、流石にヤバイだろ……)」
少しして落ち着き、ケーキを口に運ぶ。苺はこうも酸っぱいものだったか。志門はいちごのショートケーキを、店長はチョコレートのケーキを食べた。
ケーキを食べるのに10分もかからなかったが、その間にも色々なことを話せたと思う。こんなに人と話せたの、久しぶりだった。人に誕生日を祝われたのは、もっと久しぶりだった。
店長は今、子供がひとりいるらしい。男の子でまだ幼く、家に独りにするのは心配なので今はベビーシッターを付けているらしい。志門はそれをすごいなと思った。大学を中退してぶらぶらしていた自分には、眩しい人生だ。
10年前、あの彗星が地球を駆け、人々が「祈り」を手にしたころ、店長は志門と同じ年齢だった。そう店長がぽろりとこぼした。つまり店長は志門より丁度、10歳上だということになる。
「そうですか。つまり、おれの年齢のころ…28歳のころ、店長は“祈り”を手に入れたんですね」
「うん。あれのせいで世界が大変だったこともたくさんあったと思うけど、少なくとも自分の“祈り”が分かったときは興奮したよ。特殊能力のようなものだからね。昔好きだった漫画やアニメを思い出した」
店長のチョコレートケーキもあと少しでなくなりそうだ。
「へえ…ちなみに、店長はどんな“祈り”なんですか?」
「あ~やっぱ他人に教えるのはちょっと恥ずかしいね。ええと、赤と灰の色鉛筆をクロスさせて、上の唇を噛む。すると、綿がつまったぬいぐるみを間接照明のように光らせることができるんだ」
そういって、店長は手をひらひらさせて、ぬいぐるみが光っている様子を表した。なんともかわいい「祈り」だ。
「志門君は浮遊能力だろ?いいなあ。それに比べるとぼくのはあまりかっこいい“祈り”ではない。ぬいぐるみを光らせるだけだからね。……でもね、最近になってめちゃくちゃ役に立つようになったんだ。なんでだと思う?」
「え?い、癒されるからですか?」
「半分正解だなあ。正解はね……そうやってぬいぐるみを光らせてやると、めちゃくちゃ喜ぶからさ、3さいになる息子がね」
「はは、なるほど、それは最高ですね」
昨日孤独な誕生日を迎えた志門だったが、今日、志門にはちょっとよかったことがあった。それはバイト先の店長と少し仲良くなれたことだ。