『火粉を払う、息を吸う 22』 史絵
公園のベンチで目を閉じて少女が座っている。彼女の耳には水色のビー玉のようなものが埋まっており、そこから同色の紐が伸びて、彼女の膝に着地した。音楽プレイヤーだ。僅かに左右に体を揺らして、音楽にノっている。
頭を近づけると、音がする。しかし彼女が健全な音量で聴いているために、ここまで近づいても歌詞が分かるほどの音は漏れていなかった。……ただ、何を聴いているかは歌詞など分からずとも、分かる。彼女がいつも同じ曲ばかりを聴いているために。
「ブルースドライブモンスター、好きだよね」
「あっ史絵っ!びっくりした…」
ブルース・ドライブ・モンスター。まくらはいつもこの歌を聴いている。
史絵の方を振り返ると共に、プレイヤーの電源を切り、ビー玉のようにきらきらした…イヤホンを耳から外した。左手、人差し指と中指の二本で作った棒にコードをくるくる巻き付け、出来た楕円の輪に端子を頭にした残りを通し、綺麗に結ぶ。
「好きっていうか、ボク、ほとんどこれしか歌を知らないんだって」
反応に少し困り、史絵が適切な返しを考えているうちに、まくらが先に、再び口を開いてしまった。
「それで今日は、そろそろ実りそうなんだっけ?」
「うん、そうだね」
“今週”が始まって、5日目。2013年6月第四金曜日。午後4時が半分を超えしかし太陽の沈む気配を全く感じぬ明るさだけの空の頃。二人は、河川敷へ集まっていた。
(
史絵が己の「秘密」をまくらへ告げたその日から二人は放課後に河川敷へと集まるようになった。
「私の“祈り”は、一週間ごとに変化する」
「それ……本当?」
「まくらが私を拒絶してくれないなら、今スグ確認しにいけるよ」
「また、河川敷へ?」
「うん!」
といったカンジに。この会話のあった「初日」の時点で週の真ん中、水曜日だった。その二日後……6月第三金曜日にその週の史絵の「祈りが」判明している。
・史絵の2013年6月第三週目の「祈り」
①南極大陸を思い浮かべながら、「南極大陸!」と言う
↓
②古い靴下を手にはめる
↓
③他人の背骨を筆でなぞる
↓
④石鹼を泡立てる
↓
◎足でつついた衣服がとてもきれいに畳まれる
両手でつまんだ白い半そでのシャツを、史絵がたんっとつま先でつつくと、シャツは宙でしゅるしゅる回転し広がり収束し、地面に、完璧に畳まれた純・正方形とでもいうような形状で落ちた。人間も、機械も、完全に超えている美しさを放つ、畳まれたシャツは拾い上げて広げても一切の折り目がついていない。こんな芸当は「祈り」でしか成せるはずがない。
その週、土曜日も日曜日も「祈り」は等しく実った。6月第三週の終了。
そして6月第四週……月曜日に、史絵の手元から跡形もなく去った。全ての手順を丁寧に踏んでから つま先でつついたシャツは、史絵の足をするりと抜けて荒野のような皺を立てて地面に落ちた。「週が変わって、私の“祈り”が変わったね」史絵は、
「じゃあ、“今週”を始めよう」
と言った。
「はは……うん」
6月第四月曜日
それからはすぐだった。
6月第四火曜日
6月第四水曜日
6月第四木曜日
新しい手順の発覚までの時間は、指数関数的に増加する。手順①の次、手順②を調べるためには、まず手順①を踏まえる必要があるからだ。n番目の手順を調べるためには、n-1番目までの手順を何度もこなす必要がある。
)
6月第四金曜日。
今週の史絵の「祈り」は……手順の5つ目まで、発覚している。そろそろ実ってほしいところだ。「祈り」を推定するためのテストセットを広げる。簡易な図鑑、砂時計、虫眼鏡、布の切れ端、笛のようなもの、爪切り、様々なものがぎちぎちに詰め込まれている。分厚い取扱説明書のチャートに従い、様々なものを片端から試すのだ。
「祈り」とは無秩序なものであるはずだ。なのになぜ、チャートに従えばいずれは「祈り」の手順を突き止めることができるのか。これについて書かれている本はあまりないが、いつか読んだ本では、テストセットのチャートによる調べ方はなんかの数学的な論理法を基としていると書いてあったような気もする。史絵にとってはなかなか難しくてほとんど理解していないが。
洗濯ばさみで段ボールをはさむ。
テストセットのおかげでふつう、人はおのれの「祈り」を一週間ほどで特定することができる。以降普通、一生その「祈り」と付き合うことになってゆく。基本的に損することはない。知的好奇心とアイデンティティ、そして何より幸福の追求、つまり豊かになることを大切にする……人間という種は、こぞって「祈る」に決まっている。時間的なコストもそこまで高くはない。一週間ほどのテストで済むのだから。
虫刺されの薬を水に沈める。
一週間程度のテストで、今後一生まで持っていけるアイデンティティと僅かな豊かさを手に入れる。ふつうはそれで問題ないが、問題は、ふつうの少女であるはずの史絵がなぜか一週間で「祈り」が変わってしまうという一点の特殊性にあった。
ドミノを16個以上並べる。
パイナップルの缶詰の、底の面を上にして平地に置く。ことん。長蛇のというには短い蛇みたいな列をなしたドミノ群のとなりに、パイナップル缶を置く。逆さまにして。
「で……」
切手をちぎる。
もったいないので、一番安い数字の書かれた切手を。元々ちぎられている切手をちぎる。一枚の切手を一度ちぎると二枚になり、ハーフサイズになった二枚を更にもう一度ずつちぎるとちっさい四枚になる。クォーターサイズの4枚は少し頑張ればちぎることができる。それぞれのサイズで1,2,4回。1枚の切手は計7回ちぎることができる。
「ものを破壊する」ことを手順とする「祈り」は多い。週ごとに様々な「祈り」と付き合ってきた史絵は、様々な手順を確かめるために、安価にものを破壊するコツのようなものを持っていた。
「こっからどうするか、だね」
「史絵。切手をちぎる、は5番目の手順……?」
「そうだね。昨日家に帰ってから、判明したんだよ」
一円切手は昨日からさっきの瞬間までで23回ちぎっている。一枚は7回までちぎることができるため、今ちぎったのは4枚目の2回目だ。
「前回……先週は手順4つで実ったけど……」
「さあ今週はいくつの手順で済むだろうか」
できればまくらの目の前で最後の手順を判明させて、実らせたい。種も仕掛けもあるようなものの類を用意してきたのではなく、「祈り」を実らせたのだ、と心底から感じさせるために。
放課後は今から2から3時間ほどある。土日に咲と会う予定があるため、今日で終わらせたい。上を向いて、二等辺三角形の木片を鼻に乗せる。……
「……違ったか」
どうやら6番目の手順ではなかったらしい。また洗濯ばさみで段ボールをはさむところから、始めなければ。
5つの手順で実らなかった時点で、手順が少なくとも6つあることは確定している。まくらのモクラは、7つの手順を必要とする「祈り」によるものであり、判明まで1か月かかっている。手順が6とか7とかになってくると、まあ一週間で判明させるのは極めて難しくなってくる。森羅万象に人工物万象を咥えた数多通りの事象から選択して並べるという途方もない作業は、手順が──並べる枠が──1つ増えるだけで指数関数的な難易度の上昇を見せる。
しかし史絵は、9の手順までなら一週間で判明させてみせたことがある。
「(ホント速い……)」
まくらが脇目でひと目見ても分かるほどに、史絵の動作のひとつひとつは速い。洗濯ばさみで段ボールをはさみ、虫刺されの薬を水に沈め、ドミノを16個並べ、パイナップル缶を逆さに置いて、切手をちぎって。一連を「駆け上がるように」と形容するのが相応しい速度で行った。才能ではない。努力とも違う。幼少に己の唯一の特異を知って以来の、習慣と執念と狂気によるものである。ほぼの毎週を、変化した「祈り」の推定に費やし、判明させてきた。そのため、「祈り」推定テストセットの取扱説明書兼指示書に“従うこと”、これに関しての速度に限定し、史絵は恐ろしく速くなっていた!外した眼鏡のレンズの上にグリコのおまけみたいなちっさい船のおもちゃを乗せる!
「これも違う、か」
次は、1から5までの手順を踏んだあとに目を閉じ、瞼の上にこの船のおもちゃを乗せてみよう。
史絵のとなりで、まくらも何もしていないわけではない。二つの巨大な宗教組織を除けば、まくらの今の状況……河川敷で史絵のとなりに立っているという状況は、そもそもまくらのわがままが招いたものだ。いや、望んだもの、というべきか。ともかく、まくらは、史絵を助けるために史絵の秘密に踏み込んだ。だから頑張ることができた。
モクラに痛覚がないことを何重にも念入りに確認した上にかれ自身の意見を充分に尊重し、まくらはモクラに「剣」を握らせた。まくらはモクラをポケットモンスター ──縮めてポケモン──のように使役することで戦おうとしていたのだ。小さなよく切れるナイフがモクラの体内に取り込まれている。まくらの指示のもとモクラはちょこまか動き回り、必殺のタイミングを見極めて腹からナイフを取り出して振り回す。この戦法を、究める。
かといってまくらが安楽椅子ポケモントレーナーに徹するわけではない。まくらは基礎体力を作る段階だが、時々モクラを自分に襲い掛かるよう指示し、モクラの体当たりを人間の放つパンチやキックに見立てて避ける練習をする。自分自身も動けるようにしておかないといけない。
「……ッ」
肩をすくめるように身の全身を沈め、飛び掛かってきたモクラを避ける。すぐさま くるりと後ろを向いて次に備える。
史絵も交え、モクラとのスケッチブックによる筆談を通し、まくらは「回避」を鍛える方針で固まったのだった。
「ふーーっ」
まくらは大きく息を吐いた。
4,50分も体を動かしっぱなしにすると、汗はだくだく流れ、胸の奥で心臓と肺が激しく動くのが身体全体に伝わる。着てきた深緑色のジャージがぴっちり肌に張り付いて不快指数が高い。ただそれ以上に、そんなこと気にならないほどに、体の肉という肉が痛い。2週間にも満たない程度ではまだ体を動かすことに慣れない。
「ちょ、ちょっと止まって」
とまくらが言うと、モクラはぽとりと地面に落ちた。
「次は……はあ、モクラによる攻撃の、ぜえ、練習をするから……」
息を整えるために少しばかりの時間をかける。
史絵の週替わりの「祈り」とは違い、モクラは、現代の常識を超えない範疇にいる普通の「祈り」だ。しかし優秀である。
「──12,4,上0,剣……」
ぶつぶつ呟くまくらの声に合わせて動いていたモクラは、最後に腹から取り出したナイフを柱に突き立てる素振りを見せ、寸で止めた。公のものを傷つけるわけにはいかないので。そもそも橋を支える柱にナイフを突き立てても、ナイフの方が折れるだけでもあった。
見上げると、オレンジの終わりかけた空に明色の彗星が浮かんでいた。よく見ると彗星の先は黒く、それは飛行機雲を引く飛行機だと分かった。
「おつかれさま」
まくらの言葉のもとにモクラは駆け寄る。しばらくその場で足踏みしていたことでまくらの体も落ち着いていた。しゃがんで、そばまで来ていたモクラに霧吹きをかける。水の粒粒がモクラの体を湿らせる。そのとき、向こうから声が聞こえた。史絵の、自分の名を呼ぶ声である。立ち上がり、駆け寄る。どうも彼女の今週の「祈り」が実ったらしい。
「……驚いた……」
「ふぇ。」
「本当に、変わってる……“祈り”が、変化してる!」
史絵の口には鉛筆が咥えられている。臙脂色の、2Bのやつ。先端、尖った黒鉛から、ばちばち音を立て、火花が──花火が出ていた。 花は花でもススキである。空を見上げるのではなく、影の手前に踊る様を見下ろすかたちで、ふたりはこれを眺めた。日は暮れ、いつの間にか花火の似合う時刻になっていた。
3つの点が直線上に並ばず散らばっているとき、面ができる。面に触れずまた別のところに4つ目の点があるのなら、そこには空間が生まれる。史絵、父親、咲、そして……まくら。世界に、4人目の「史絵の秘密を知る者」が現れた。世界が、史絵の秘密に気づきだそうとしていた。
・史絵の2013年6月第四週目の「祈り」
①洗濯ばさみで段ボールをはさむ
↓
②虫刺されの薬を水に沈める
↓
③ドミノを16個以上並べる
↓
④パイナップル缶の底の面を上にして平地に置く
↓
⑤切手をちぎる
↓
⑥飛行状態の飛行機の全身を目に収める
↓
◎口に咥えた鉛筆の先端から花火が出る




