『火粉を払う、息を吸う 21』 史絵
ぱさ、ぱさ。開いて、もう一段階開いて、畳まれていた紙は本来の大きさに戻った。真ん中にくっきりと十字の折り目が走っていて、西日が溝に溜まって文字を見えにくくしていた。黒鉛も光を弾いて白く見え、目が滑る。少し苦労しながら、一番上に書かれた一番小さな文字から読む。文字が小さいのはきっと、史絵がメモを取る際、なるべくこの小さな一枚の紙に沢山書き込めるようにしたかったからだろう。史絵から奪い取った、史絵の秘密。
「これは……」
「……やっぱり、ホントは見せるべきではなかったんだけどね」
母親が宗教と関わっている、なんて程度のものではない。
史絵の母親は、教祖だった。宗教とは、母そのものだったのだ。数え切れぬ数多の信徒を蠢かせていたのは、他でもない実の母だった。物心ついたときには既にいなくなっていた母。史絵の……彼女の母親は、新興宗教のトップだった。
要はそういったことが、紙に書かれていた。
史絵自身、まだ完全に受け入れることができたわけではない。名前は、紙一絵……「かみひとえ」と言った。本名かどうかは分からない。まくらは、紙に書かれた「私のお母さん?」という文字をまじまじと見つめる。「紙一絵」という珍しい人名の下に、少女の小刻みに震えながら書いたような「私のお母さん?」という文字。そのグロさも充分にまくらの目を灼いたが、それを一旦素通りせねばならないほどのことが、すぐ隣に書かれていた。ぐるぐる丸で囲われていることから、このメモの中でもそのワードの重要性が際立っている。まくらは素直に鳥肌を立たせた。まさか、こんなところで、このワードを見るとは。それまでニュースなんかでしか見ない聞かない言葉だったから、てっきりあのテレビという小さな箱の中の出来事なのだと思っていた。
「せ、世界をよりよくする会??」
「それが私の、その、お母さんの作った宗教らしくて……」
汗をたらすまくらとは変わって、史絵当人はただ恥ずかしがっている様子だった。ああ恥ずかしい。咲から名前を聞いて心底思った。「世界をよりよくする会」。通称「よりよく会」。なんだそれは、清掃会社のキャッチコピーか?通称は、A5用紙にメモしなかった。流石に恥ずかしすぎるし、メモするほどのものではないと思ったからだ。
そんな史絵の恥じらいなど気づきもせず、まくらはまくらで身震いを覚える。「違ってくれ」と思いながら尋ねる。
「世界をよりよくする会、って、まさか……」
「うん」
「まさか、よりよく会のこと?あの?」
「うん……うん?えっ知ってるの?」
え、当たり前、と言いたいのをまくらは言葉を呑む。代わりの言葉を用意し、丁寧に問う。あんまり良くないことの、事実確認だ。
「よりよく会は結構有名。史絵ってよりよく会トップの娘なの?」
まくらの反応を見て、よりよく会の規模の大きさをだんだん実感してくる。ぷつぷつと、不思議な汗が噴きだす。
「そういうことになる、らしい」
「(よりよく会って有名だったんだ)」
史絵が知らなかっただけで、「世界をよりよくする会」はまあまあ有名だった。具体的には、この国の大人に「国内の新興宗教をできるだけ挙げよ」と問うと、すらすら4つほど言った後に、少し悩んで捻り出すようにして5,6番目に挙げる。そんなポジションにある国内有数の新興宗教。それが、世界をよりよくする会。
「自分のお母さんがそういう組織の、しかもトップだってこと。私も昨日初めて知ったんだけどね。なんなら、私はよりよく会という組織すらそれまで知らなかった。……有名、なんだね」
「うん。いやしかしこれはボクが思っていたより……うーん……思ったより、大きな名前が出てきた。」
どこで知ったのかも忘れたが、どこかで知る機会があったくらい大きい組織だ。何をしているか分からないぶんむしろ不気味な宗教に思えて、今はならない。なんだっけ。
……思い出した、確か、「ノストラダムス」とか「彗星」とか、そういった言葉とセットで聞いたことがある。
「それで、史絵はこの、よりよく会に命を狙われているの?」
まくらからの問いを鼓膜で受けながら、教室の方にゆっくりと戻る。もうバラさざるを得ない。ならば廊下で立ち話もなんだ。キィ。勝手に誰かの椅子を引き、隣の椅子も引き出す。史絵が座ったのを見て、まくらも並んで座る。
「いや……ここからがちょっとややこしくて」
手を伸ばし、まくらからA5のメモを受け取る。並べられた机の真ん中に置く。ぱさっ。中央でクロスする十字の折り目を、今度は山になるように裏面からくにくに軽く曲げる。髪は少し平らになり、文字が見やすくなった。
「世界をよりよくする会は、えーっと文字通り、世界をよりよくしようという目的のもと結集されたものらしい。環境活動家や革命家というよりは、その、ドラゴンボールで世界征服を望むみたいなカンジで」
言ってて恥ずかしくなってくる。
「で、世界を変えようと企てるやつらがいるとなると、当然それを阻止しようと立ち上がるものたちいるわけで……」
史絵の指さすところに書かれている文字列は、そこそこ大きな殴り書きであるはずなのに目立たず、示されるまでまくらも目に入っていなかったものだった。大きな円で囲われた「世界をよりよくする会」の文字から矢印が伸びる先には、こう書かれていたのだ。
世界そのまま社。
「は?世界……そのまま、社?」
よりよく会と違い、流石に幼少から今までの記憶を辿っても、こちらのフザけたワードは登場しなかった。まくらは少し拍子が抜け、肘が机から滑りそうになる。史絵は真剣な顔で続ける。
「急進的な世界改変に舵をきった 世界をよりよくする会……よりよく会の方針についてゆけず、よりよく会が内部分裂する形で生まれた、対抗組織。世界そのまま社。」
まくらの顔を窺う。口をぽっかりと開けた顔を見て、こっちはまくらも知らないようだ、と確信する。
史絵を狙っているのは、世界そのまま社という組織だった。
社会地理の科目を勉強しているときでもこんなに「世界」なんて言葉は登場しない。こんな大規模な概念を連続で使ったり聞いたりすると、なんだかバカみたいだ。史絵は「おかしいよね」とまくらに呟いた。ああなんて、可笑しい。
「世界」……ましてや「世界を変える」なんて言葉を恥じることなく使っていいのはサンボマスターの楽曲くらいというものだ。それ以外の全ての使用例が滑稽である。「世界を守る」なんて言葉ともなると、何人も使うことは許されない。聞いてて恥ずかしいからだ。史絵は、自分の母親が万を超える信徒と共に「世界を変える」と謳っていること、そして自分をつけ狙っている組織が「世界を守る」とほざいていることを今一度認識し、顔をカッカと赤くした。
「“祈り”っていうのはホントとにかく法則とかなくて、例えば“祈り”の実りには、何かを何かに変える、といったものもある。ってのは前言ったよね?」
「うん。聞いた」
まくらの「祈り」を判明させるため放課後二人で河川敷に行った日々。あの中で、史絵から「祈り」に関して教えることは多々あった。大半は図書館にある本に書いていたことをそのまま伝えているだけだが。まくらは、毛布でくるんだチョコレートを塩の結晶に変える、ベトナムの少年の「祈り」を思い出し 、思い浮かべていた。
「だったら、“この世界” を “それ以外” に変えてしまう“祈り”が、あってもおかしくない」
「おかしくないこともないのでは?」と思うが、まくらは言葉を呑む。
「えっと どういう世界に変えるかは、」まくらが言いかけるが、史絵がふるふると首をふる様を見て「分からないのか…」
人差し指をかぎ状に曲げ、唇にあてる。僅かに考えたのち、まくらは続ける。
「でも、そのまま社が何を考えているのかは分かってきた。なぜ史絵を狙うのか」
もう史絵のメモを見なくとも分かる。黒鉛が右向きに滲んでいるメモ。
「実際にどうなのかはほとんど関係ない。よりよく会の、世界を変えるという“祈り”。その“祈り”に、史絵が関わっていると考えたから?」
「うん。私もそう思う」
史絵はいつの間にか、より簡単な図解をなんかのノートに描いていた。それをまくらの方へ向ける。
史絵は、紙に注目するまくらのつむじを見つめながら続ける。
「もっと言うと、そのまま社は多分……私の“祈り”の方が関わっていると考えているんじゃないかな」一拍空け、再び言葉を発する頃には声が震えていた。「私の“祈り”は、特別だから」
机の上で軽い握り拳をしていた史絵の手が、ぱっと開く。そんなに目を見張るような人間の動きでもないだろうに、まくらはなぜかそれにぎょっとして、さっと顔を上げる。暗いカーテンのような前髪の向こうに、史絵の目を見る。さっきの発言に史絵が何か続けるのなら、それは十中八九、いや十、「どう特別なのか」の説明だろう。まくらは、自分の耳が引力のようなものによってそっちに引っ張られ、触覚のように尖る錯覚を覚えた。集音のための感覚が鋭くなっている。
その穴に向かって、史絵は囁くでも叫ぶでもなく普通の声で言った。
「私の“祈り”は、一週間ごとに変化する」




