『火粉を払う、息を吸う 20』 史絵
カレンダーは2013年、6月の真ん中の終わりを指している。
「……」
あの後。まくらと帰っていたら雨が降ったあと、
誘拐されたあと、
咲と出会ったあと、
森で殺されかけたあと、
咲の家へ行ったあと……
「祈り」の簡略化のこと、自分の母親のことを聞いたあと……史絵は、咲の車で己とその父の住む家に送られた。自宅を得体の知れない人間に教えていいものかという不安は、その頃にはすっかりなくなっていた。家に着いたのは午後8時。この日は偶然父の帰りも遅い日で、父は10時に帰ってきた。だから、あのことはバレていないようだった。
今でも昨日という日が現実だったのか分からない。昨日の存在が不確かなまま今日を迎えてしまった。
晴れだった。学校へ向かう頃には、空に白くて細い月が浮かんでいた。まるで、小指の爪を切ったみたいだ。肌がぴりぴりする。地面には水溜まりがない。昨日この地に振った全ての雨は、乾いてしまったのか。
ガララ……。扉をスライドさせる。教室には誰もいない。
「一番乗り、」
なところで、良いことなんて特にないのだけど。
職員室で取ってきた教室の鍵を黒板の隣にかける。プラスチック製のフックに、金属質の輪っかがカチャリとかかる。それから、自分の席に鞄をあずける。……そうだ、通学鞄についてだけど、これは昨日、家の前に置かれてあった。咲によって誘拐されたあとドラッグストア付近の駐車場に放置されていた通学鞄は、きっとまくらが家に届けてくれたのだ。……家に着いたのは夜の8時。鞄だけが置かれていたが、多分、まくらも家の前でずっと待っていたと思う。でも完全に日が暮れてしまう前に帰ったのだろう。
「(そういえば……毎日のように河川敷で2人、まくらの“祈り”を調べていた日々。あのときも、まくらは7時の前には必ず帰っていた)」
家の前には当然だけど、道がある。人が通る道が。史絵は、自分の家の前で、人の目に怯えながら自分を待ってくれていただろうまくらの姿を想像して、肺がべこんと凹む気持ちになった。
「……謝りたい」
……
「(けど……)」
鞄から今日ある科目の教科書とノートを取り出し、机の物入れの中に突っ込む。立ち上がり、教室の窓を開けていく。ひゅうぅと風が流れ込んできて、カーテンが妊婦のように膨らんだ。反射的に目を閉じそうになる。
「(涼しい)」
6月のあたまに行われた席替えで、史絵の席は前の方になった。窓側なので、昼になると太陽が比較的直接当たってしまい、クーラーをつけていないときだとかなり暑い。だけど、窓からは外の景色が見えた。
最後の窓のロックに手をかけたとき、足音が聞こえた。誰かが教室に入ってきた。きっと同級生の、誰かだろう。特に挨拶もない。そのことを史絵も気にした様子もなく、全ての窓を開け切った。僅かな達成感と共に自分の席に戻る。
それから少しすると、また別の本学生徒が教室に入ってきた。女子の声で「おはよー」と言いながら。それに対し、史絵の後方から応じるかたちで男子の「おお、おはよう」という声が聞こえる。これで教室には史絵含めて3人の生徒。この時間帯から、学校に到着する者が増えてくる。第1ウェーブ「登校早い組」だ。ぽつぽつと、1人、また1人が入室する。その中で、一人と目が合った。本から顔を上げ、何の気なしに右を向いたときだ。
「あっ…」
「ヒ、」
それはギャルだった。この学年に上がってすぐのとき自分をいじめてきた、「手から虹を出せるギャル」の、取り巻きの一人だったギャル……モブギャルだ。そいつはすぐ目を逸らしてきた。こちらも目を逸らし、本の方にまた集中しようとするが、なかなかうまくいかない。
「……」
あの表情。あのモブギャルは、自分を恐れている。無理もない。そう思った。あいつの中では、自分は「“祈り”を実らせると物体……人体に大穴を開けることのできる危ない奴」のままなのだ。そんな奴、誰だって怖い。
ただここで可笑しいのは、もうそんな「祈り」史絵は持っていないことだ。というか今はまだ週の真ん中で、史絵は自身の今週分の「祈り」をまだ判明させていない。つまり今の史絵は、「祈り」も持たぬ、ただの運動不足だ。今戦えば、たしか運動部と言っていたあのモブギャルに一方的にボコボコにされて終わりだ。仮に報復があればそのときは負ける。つまり史絵もまた、モブギャルを恐れていた。モブギャルの方は気づいていないが、お互いに恐れ合っている不思議な状態だ。
「(だって、少し前まで……自分をいじめてきたやつだ……そんなの怖いに決まっている)」
史絵は「これからは運動しよう」と思った。いじめもそうだが、何より、それより遥かに巨悪らしい組織に自分が狙われている。鍛えなければ。今の自分は、神に縋っても、悪魔に願っても……祈っても。どうにもならないのだから。
……
第1ウェーブ「登校早い組」が大体揃って、もうしばらくで次は第2ウェーブ「健全な登校時間組」がそろそろやってくる頃になった。
「ふ、ぁ……」
あくびが出てしまう。
黒板の上の壁部分にかけられている大きな時計を見る。
「……」
昨日聞かされた話を思い出す。「祈り」の簡略化の話だって、今の人間社会をそこそこ揺らがすようなものだったが、それよりもその後の話。
「(お母さん)」
母は……自分の身に降りかかる、火の粉なのか?厄災なのか?それとも、飛び込むべき火の中か?少なくとも、対岸の火事ではない。どんな形であれ、火はすぐそこにある。
頬をつく。自然と、顔が少し右を向く。
もうひとつ決めたことがある。こっちは、こっちのことだけは、どうすればいいのかが恐ろしく明確だった。まくらについてだ。珍しいことに自分の友達でいてくれている人物だ。彼女を自分はどうするか、これだけは決まり切っていた。
「(今日からもう一緒に……帰らない)」
もう関わらない。もとい、というか、それに伴い、もう中学在学中に図書館に行くことは無い。自分とまくらは何の関わりもない。目を閉じる。
「(ああ、クソ。友達ができるのは初めてのことだったから、初めて知った。こんな、こういった、友達の失くし方が……あるんだってこと……)」
目を開ける。綺麗に並べられた机と、数人の生徒を挟んで、教室の壁があり、開かれた扉と窓がある。窓の向こうに、彼女の姿が見えた。深い前髪で目が見えず、表情が分かりにくい、小柄な、同級生。
「まくら、」
ここからでも分かるほど、息を切らしている。なぜか分からなかった。なぜ、自分と彼女は関わり始めて1か月とちょっと程度しか経っていないのに、彼女はあんなに悲しい顔をしてくれているのだろう。広げようとして途中でやめたみたいな くしゃっとした小さな右の手を、彼女は、こちらに伸ばそうとして、それも途中でやめてしまって、崩落した橋のように腕を曲げている。もう片方の手は、胸にあてている。そして、サッと、廊下を走り去ってしまった。
感覚がリンクしているかのように、その瞬間のみの彼女の心情が分かった。まくらは、教室に入ろうとしてそれでも入れなかったのだ。教室には、史絵以外にも人がいたからだ。1か月を共に過ごす中で、彼女が人間──中でもまず「若い大人」、次いで「同世代」の人間──を恐れていることを分かりかけていた。
昨日林に残したメッセージには『明日学校で』と、明日学校で会おうと書いていたが、あの後あんな話を聞いたばかりに、もうそういうわけにはいかなくなっていた。もう会わない方がいい。
「(違うんだよ、まくら)」
会わない方がいい、けど、弁明したい。あなたは大切な友人で、だからこそもう自分に関わらないでほしいんだ、と。
ドッと人が増えた。第2ウェーブ「健全な登校時間組」の到着だ。そろそろホームルームの開始を知らせる朝のチャイムが鳴る。
鐘の揺れる、電子音。先生の話す声が聞こえる。……ところで、昨日の誘拐事件がニュースにも、ホームルームで取り上げられる出来事にもなっていない。誘拐なんてこんな平和な町に似合わない大事件だ。まくらが通報したのだとしたら、警察の調査はまだ続いていると考えるのが自然。あるいは、メッセージを見たまくらが謝りながら警察に調査を取り止めるよう伝えたのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると、不意に「史絵」と呼ばれる声がした。前を見ると、先生が学級日誌をうちわみたいにひらひらさせながら、こちらを見ていた。
「今日、日直だから。これ、よろしく頼む」
「あ、はい」
黒い表紙でとじられた冊子……学級日誌が渡される。前列なので手を伸ばして受け取ることもできたが、それはちょっと失礼だろうかと思い直し、わざわざ起立して一歩だけ前へ出て、受け取った。「そうだ、今日は日直の日なんだった」黒板の右下に白で書かれた自分の名前を見ながら思う。
……
日直の仕事は、毎授業始まりと終わりに「起立 礼 着席」の号令、毎休み時間に黒板を消すことと、学級日誌に授業内容を簡単に記入すること。
……
「ふぅ」
日直の日は、いつもの1.1倍ほど大変だ。つまりあんまりいつもと変わらないのだけど、今日は精神的に摩耗した。図書室に行っていないからだ。休み時間に黒板を消す仕事があったからどちらにせよ行く時間なんてなかったのだけど、昼休みも教室にいた。久しぶりに教室で昼食をとった。図書室には近づけない。まくらがいるからだ。今借りている本も返せないし、新しく本を借りに行くこともできない、困った。
ホームルームが終わり、教室の掃除が終わり、一人になった。いつもなら数人が教室に残って話しているのだが、今日はたまたま全員が帰るか、部活に行ったらしかった。がらんとしている。机も床もオレンジに染まっている。遅くまで残る生徒がいないときは、日直が教室の鍵を職員室に返すことになっている。
ロックのかかっている教室後方側のドアが、がたんと音を立てる。びくりとしてそっちを見てみるが、音は続かない。
「な、なに……?」
すりガラスの向こうに小さな影が見える。影はそそくさと前方に移動して、いよいよ開きっぱなしになっている前のドアから姿を現した。
「史絵!」
「まくら……」
まくらがそこに立っていた。
まくらは肩を抑えて、小刻みに震えているようだった。史絵は心に波が立つ。
「(マズい、マズい、マズい)」
動揺が隠せない。
「き、今日は、わたし一人で帰らせて。おねがい」
汗が眼鏡の黒縁を伝う。
「鞄、ありがとう。あと……モクラも」
「……」
まくらはドアの前からどいてくれない。耳を澄ますと、肺が弾んでいるように荒い呼吸が聞こえた。
聞こえないふりをする。
「もう行かなきゃ だめだから」
教室の鍵をつまみ上げて見せる。髪に隠れた目がどこを向いているのか、この距離では見えない。もう強引にあそこを通るしかないかと一歩踏み出したとき、まくらの声がした。
「ボクっ、じゃ……どうしようもないことだと、思う?……」
一拍、
「うん」
と返す。
「誰にも、」あんなの、「どうしようもないよ」
まくらから見て、自分はどう見えているのだろう。誘拐されたと思ったら帰って来て、しかもなぜか避けるような態度を取っている。そんな奴、もう訳が分からないではないか。さぞ、ぐっちゃぐちゃになっていることだろう、まくらの心は。
「……今……史絵を見失ってしまったら……ボクにはもう、失うものがないよ──」
いつもたどたどしく話すまくらがそう言ったのが、あまりにはっきりしたものだったので、史絵は驚いた。同時にここで間をつくってはいけないとも感じた。すぐ、否定しなければならない。すぐに────
「あるよ!」何かを振りほどくように、手で空を切る。「それはっ、命だ!まくらの命だよ!私を追うと、まくら自身の命がきっと、失われてしまうよ!!……生きなきゃだめだ、生きなきゃ……!だから、私について来ないで!関わっちゃだめなんだよ!私に!!」
そう言ってずかずかと進む。体中が熱い、頭だって沸騰しそうだ。そんな中でもどこか冷静な「自分」がいて、そいつが冷静さを欠いている「残りの自分」を揶揄しているのが分かった。自分で、「ああ 自分は今 感情的になりすぎている」と分かっていた。だけど止まらない。
「出会って1か月程度の友人のために、命を失おうとしないでくれ!!まくら!!」
まくらの真ん前まで来た。気迫でどいてもらおうとしたのだが、それでもまくらは動じず、むしろ腕を掴まれてしまった。史絵の右腕一本をまくらは2つの……両手で掴んできた。猫背なうえに膝を曲げて立っている状態で 両手で一生懸命掴んでくる姿は、ひどくか弱いものに見える。まくらは顔を、史絵の肩にうずめながらこう言った。
「そうだね。1か月しかなかったよ。」バッ。顔を上げた。暗色のカーテンみたいな髪が、瞳を隠している。紅潮した頬が見え、見えない瞳よりもそちらに目がいく。小さな口を大きく開いて、まくらは言った。「でも、一生の中で、はじめての友達だったんだ……ボクにとっては……」
「……」
……
「……そういうわけだから、ボクも、ついてくね……」
「うん……わた……え?え、」
左の掌底で涙ぐんだ目をこすっていたときだった。「うん。私にとっても、まくらは初めての友達だよ。」と応えようとしていたときだった。不可解なことがまくらの口から聞こえた気がする。いや、気のせいではない!「そういうわけだからボクもついていくね」と言いやがった!手に押されて黒縁の眼鏡が少し浮く。顔が固まる。今、まくらは何を言ったんだ?なんてことを言ってくれたんだ?
「だからやっぱりボクもついていくよ。」
気が、動転する。
「……」3秒だけの沈黙のあと、さっきまで涙を拭っていた手を今度は、うちわみたいにブンブン振る。「いやいやいや!ホントにダメだって!ホントに死んじゃうよ!冗談でもなんでもない、死んでしまうかもしれないんだよ!ついて来ないで!!」
「(まさかまくらがこんなになってしまうとは……)」
どうしよう。まくらの背負っている鞄に目をやる。側面のポケットが膨らんでいる。中にモクラが入っているのだろう。いや、そんなことは今、そこそこどうでもいい。それよりも、どうやってまくらを説得するか。
「イッ──」
「(ごめんっ、まくら!)」
史絵は、左手で思いっきりまくらの横腹をつまみ、つねった。ギリリとひねり上げる。肉の、つぶつぶした組織っぽいものがグニグニと動く。
「痛い痛いッいたい!!」
ぎゅう。まくらの、史絵の右腕を掴んでいる手に力が入る。
「私についてくると、もっと……もっと痛いことが起きるよ、きっと。死ぬかも知れないんだ。お願い、私はまくらに痛い目に遭ってほしくないし、死んでほしくない」
ぱっ。肉を掴んでいる手をはなす。
「(まくらは本心から友人を……私を助けたいと思ってくれている、それはうれしい……けどそれはそれとして……“興奮”、してるんだと思う。興奮っていうのは、ヘンタイって意味でじゃなくて。“感情が高ぶっている”という意味。こういうとき、脳は、苦痛を勘定に入れていない)」
志願兵たちは、戦場で自分が撃たれ苦しみ死ぬ様を、心のどこかでは想像できていない。
この平和な国で、もっと身近く例えよう。たとえば居酒屋で「俺はいつかBIGになってみんなに良い思いをさせてやるのだ」と言うのはたやすい、し、気持ちがいい、し、そのために苦労があるだろうことも分かっている。いや、思っている。「そのために苦労があるだろうけどまあやってみせよう」と。しかし実際求められる苦労量には程遠い。つまり苦労の想像が、実際の程度を超えることがないのだ。
まくらは本心から史絵を助けたいだろう。そのために怖い目に遭うかもしれないとも思えている。だが、今、まさに怖い目に遭っているわけではない。はたしてそんな、「想像の域」の中に現れた「怖い目」と向き合って掴んだ覚悟で、現実を取り巻く問題に立ち向かえるのか?いや、できない。
だから痛みのリアリティがないとき、口から出る、あるいは心に秘められる“意志”は、無敵に見える。しかし痛みはそんな“意志”などたやすく吹き飛ばす。
「(だからこうして痛めつける必要があったわけです。)」
「痛い……」
「ごめんね。でも、私に関わろうということは、こういうこと…いいやこれよりもっとずっと恐ろしいことだよ。だからもうついてこないで」
まくらの頭頂部を見つめて様子をうかがう。まくらは顔を上げて、史絵と目が合った。そして「いや……」から始めて、こう言った。
「つねられただけで友達のこと 諦めるほど、ボクは想像力豊かじゃない。想像できないような死ぬほどの痛みは、知ったときに後悔することにする!今は、ただ、史絵のことを……!」
「まくら……!」
感動できると思う一方で、呆れてしまう。
「(ほ、ほんとに分かってるのかな……危険だってこと……)」
真に覚悟ができている、あるいは……想像力が欠如している。まくらはどっちだ。どちらにせよ、史絵はまくらを戦いに巻き込みたくない。
「分かった、分かった。話すから。話すから、手、はなして」
ぱっ。まくらが、しがみつくのをやめて手をはなす。右手が自由になる。その隙を見て──史絵は猛ダッシュの態勢に移った!グン!硬い廊下に、鉄の棒を突き刺したような衝撃が走る。足が廊下を蹴ったのだ。反対の足が浮いて、また振り下ろして廊下を蹴る。それが繰り返されて、いよいよ史絵のしている動詞は「走る」となった。もう10メートル。あと10秒もしないうちに、下りの階段にたどり着けるだろう。教室の鍵は……もう職員室の前を通るときに落としてしまえ。と考える。思考の中、後ろから声がする。
「モクラ!」
まくらの叫び声。足が止まる。
「モク──え?」
「史絵にしがみついていたとき、服にモクラを滑り込ませた!」
「……」
意識が、脳から、体全体にいく。意識してしまった途端、なんだか、太ももとお腹の間あたりが、くすぐったい。
「う……わっ、あっひゃはひははは!」
くすぐったい!
「ちょっ、やめっ」
制服の下で何か……白玉団子くらいのやや湿ったものがコロコロ転がっている!止まる気配がない!「くすぐっ…」「やめて!」お願いしても止まってくれないのは、当然、史絵がモクラの主人でもなんでもないからだ。モクラの主人はまくら。かの主人は、なんと非道な命令を下したのだろうか。
鞄を外して床に放り捨てる。ばばっ。制服をその下のシャツごと掴んで、勢いよく捲り上げる。ぽーんと何かが放り出され、廊下をころころと転がって、ちょっとしたところで止まった。想像していた白玉団子程度よりも大きく、駄菓子屋のスーパーボールくじの大当たり枠スーパーボールほどの大きさがあった。泥団子。瞬間、思考が駆け巡る。これはモクラの体の一部であって、モクラ本体ではない。では、どこにいるのか。
「しまっ、モクラのっ──本体はッ!?」
鞄の方だ!
急いで拾い上げようとするが、それより先にモクラは目的を達成したらしい。ジッパーが勢いよく全開になり、飛び出してきた。ルーズリーフを折りたたんだものを抱きかかえている。そして、膝立ちする主人の膝元へと颯爽と戻っていった。
「それを見ると……もう……戻れないよ」
「ボクは、進みたい!」
史絵と、その母と、その宗教と、そして「祈り」の関係は複雑だった。そのために、昨日 咲に説明をしてもらう際に図解を描いてもらった。ペラ紙一枚……家に置いていけばよかったかもしれないが、部屋に掃除にきた父に見つかるかもしれないし、かといって隠すには時間がなかったのだ。その点、鞄は、分かりやすく「普段滅多に親が触れない」聖域だ。だから昨日……図解のあるメモを鞄に押し込んでそのままにしてあった。なぜモクラが、そんなキーアイテムの存在を一撃で見抜いて鞄から取っていけたのかは分からないが、仮に分かってももう全てが遅い。まくらが開いてしまう。A5の四分の一サイズに折りたたまれた、世界の秘密のひとつを。あるいは、ひとつの秘密の世界を。




