『火粉を払う、息を吸う 19』 史絵
外側に結露を滴らせた、麦茶の入ったコップが2つ。透き通るガラスのコップは、麦茶色で満たされ、向こうのもの全てを褐色に見せる。咲は、それらの乗せられたお盆を両手で持ち運び、部屋に戻ってきた。
「はい」
コト。机に置かれた麦茶には、新しい氷は追加されていないようだった。必要以上に体を冷やさないようにしてくれている。
「ありがとうございます」
咲が座るのを待つ……あぐらを組んだのを確認し、史絵は用意された麦茶に手を付ける。濡れたコップを持ち上げると、机には水で描かれた、一部の欠けた円ができた。喉を一定のリズムで動かして、どんどん飲む。唇からコップをはなしたときにはもう半分まで減っていた。自分が思っていたよりも、喉が渇いていたのかもしれない。
テレビ台の上に時計が置かれてある。黒をバックにオレンジ色のデジタル数字が光っている。西日の差すような時間を示している。もうこんな時間だと思う反面、まだ、こんな時間なのかと思った。もう午前のことなんかなんにも覚えていないくらい、濃厚な午後だった。「だった」はおかしいか……この濃度の高い午後はまだ続いている。“今日”はまだ、終わっていない。
正座を崩す。少し、足が痺れていた。咲はあぐらを組んでいる。出会ったときはダメージジーンズを着ていたのだが、この部屋に入ったときかなりだぼだぼとしたズボンに着替えている。
「たくさん手順を踏むがややテキトーにやっても実る一般的な“祈り”と、短く済むが深い集中がなければ実らない簡略化された“祈り”。なぜ世界には膨大な数の人間がいるのに、簡略化の概念が広く知られていないかというと、ほとんどの人間に“祈り”を簡略化する必要がないからだ」
咲は続ける。
「ほとんどの人間は、短時間で“祈り”を実らせないといけないなんて考えたことがない。……僅かな人間だけが思いつくんだよ。“祈り”、すぐに実らせれば殺人に使えそうかもな、って」
さっきまで麦茶を握っていた手に、今は汗が握られる。
「(たしかに……殺傷能力のある“祈り”も確認されている。そういう私も、この前……いじめっ子と戦った時は、“祈り”を使い彼女たちを傷つけた)」
ある一週間、史絵は、穴あけパンチみたいに対象に穴を開ける「祈り」を持っていた。それを使い、自分をいじめてきた人間の……彼女の顎から口の“肉”に、穴を開けた。彼女の違う“肉”に穴を開ければ、きっと殺せただろう。ただ、あれは不意打ちに近かった。手順を踏みながら逃げ、対面した瞬間に「祈り」を実らせ、速攻で攻撃ができる状態だった。
「(それも、あの“祈り”は比較的手順も少ない方だった)」
これが……出会って5秒でハイ殺し合い!みたいな状況だったら、誰も自身の「祈り」を攻撃手段として考えないだろう。拳を飛ばした方が、ナイフを振り回す方が、人を傷つけるのに手っ取り早いからだ。ただ、「祈り」が実るということは基本的に人間の常識を、世界の理を凌駕している。これを、この豊かな実りを、もっと手っ取り早く取り出せるのなら、こんなに相手にとって脅威となるものは他にないだろう。それを可能にする概念こそが……
「(“祈り”の簡略化!)」
「私がいた…いさせられた組織では、実力行使ができないといけない人間もいくらかいる。つまり、ポケットからハンカチを取り出すように、いざという場面でサッと暴力を振る舞える人間だ。そういうやつらは、大体、“祈り”の簡略化を習得している」
咲の言い方は、「つまり私もそういう人間として扱われた」と言っているようなものだった。あの血まなこの男も、組織にいくらかいるという、そういう人間、なのだろう。
「これから、史絵の前にはそういう人間が続々現れるだろう」
史絵の頭の中では、「実力行使」という言葉をくるくる泳いでいる。筋が走っていて、とげとげしく、だけどいびつではない、シンプルで、恐ろしい。そんな言葉だ。
「それで、史絵も“祈り”の簡略化を習得した方がいいんじゃないかと思う。戦うというよりは、自分の身を守るためだ」
咲は立ち上がり、カーテンをシャッと閉めた。それからベッドの上に置いてあったリモコンを拾い上げ、電気をつける。そろそろ家にいないとマズい時間だ。
「……同時に、史絵の“祈り”は組織が狙うような代物だからな。簡略化できたとしても見せないで戦った方がいいかもしれないし、そもそも戦いに使えないようなものかもしれない。……私が戦うことで、そもそも史絵を戦いから遠ざけることが完璧にいくのなら、それに越したことはないんだがな。できる限りそう努めるよ」
史絵はとくとくと鳴る心臓を、潰れないように圧迫しながら、熱い息を細く吐き切る。
「なぜ、咲さんはそこまで私のことを……」
「お前を哀れに思い同情した。というのは言葉が強すぎたけど、ようは……似た境遇だったからさ。いや、私より程度が、甚だしい。だから助けたいんだよ。」一拍空けて、「私は、私の気持ちに正直なだけ」と言った。
自分がどういう状況に置かれているのかもまだ一切分からないが、ここで一歩踏み出さないと、事態はこれから取り返しのつかないようなところへ悪化する。そんな気がした。
「咲さん。私は、私の置かれた状況が知りたい、です。これから……私の“祈り”について話したいです。聞いてくれますか?」
「もちろん!」
「ありがとうございます。話を聞いてくれることへも、私を守ってくださることへも……ありがとう、ございます」
……家族以外の他人に話すのは初めてだった。
自分の持つ、最も、自分らしくないところについてだ。
自分のものである実感のないところ。
自分の中の自分じゃないところ。
「祈り」について。
史絵。中学2年生の女子である。
肩甲骨をなでるくらいまで伸びたさらさらした黒髪の、少女だ。黒縁の眼鏡をかけている。裸眼視力はAからDでいうところのC。テレビやゲームが好きなわけではないから このやや悪い視力は体質によるものだろう と思っていたが、もしかしてよく暗いところで本を読むせいではないかとも最近は思っている。特徴的な部分はこれくらいで、他、体形から歯並びまで、どれも同世代の一般女子といった感じだ。彼女の願いも、悩みも、やはりこの国の思春期たちとそう大差ない。「自分が何者なのか知りたい」と願い、悩んでいる。
ただ、ひとつ他の人とは大きく異なるところがある。それは「祈り」だ。判明すればもう手順も実ったときの効果も生涯変わらないし、失われることもない、「祈り」。それが彼女だけは違った。彼女の……史絵の「祈り」だけは、1週間ごとに、変わるのだ。
……
「驚い……いや……は、本当なのか?その……」
「私は毎週“祈り”が変わります。手順も、実ったときどうなるのかさえも。本当です」
咲はてのひらをそのまま自身の頬にあてて、汗を拭う。肘をつき、余った方の手の親指と人差し指を眉にあてて、顔を下に向ける。彼女の視界には今、机と麦茶しか映っていないだろう。
咲の中には今、色々な反応があるだろう。史絵もまた、心臓がかつてなくうるさい。ボーダーや血まなこに襲われたときよりも、ずっと感情が落ち着かない。自分の秘密を話してしまった。
咲が顔を上げる。
「知れてよかった。…………と同時に、少し、マズイぞ」
「“祈り”の簡略化を、実用できるレベルで習得するには時間がかかる。組織で私と同僚のような扱いだったやつらは、平均で2年。私は11か月かかった」
「11か月!」
「そう。1週間では……あまりに短い。さっき話してくれたことによると、史絵の祈りは毎週の日曜日の終了と共にリセットされる。どれだけ早く済んでも、全ての手順が判明するのは木曜日以降。金、土、日、の内に“祈り”を簡略化できるのは不可能だろう」
咲は「金、土、日」と言うのに合わせて、立てていた右手の薬指、中指、人差し指を続けて倒した。「不可能だろう」と言い切る頃には、全ての指が倒されて、彼女の右手はグーの形をしていた。意味するところは、「もう倒す指がない」。全てがリセットされ、またゼロからのスタートだ。
「更に危険なのは月曜日~木曜日の放課後まで、ほぼ の確率で“祈り”を持っていない状態にあること。史絵……今日は何曜日だっけ?」
「火曜日です」
「じゃあ今週の“祈り”は……」
「はい。まだ分かっていません。1番最初の手順だけ特定が済んでいます。なので……残り何手順残っているか、実るとどうなるか、まだ分かりません」
「かなりまずいぞ。それじゃ、もし組織に捕まって、“祈り”の秘密を話せ と詰められても、話すものがない」
「……」
「“祈り”が毎週変化すること、今週の“祈り”がどんなものかはまだ判明していないこと。これらを話しても組織はまず信じてくれないだろう。組織のやつらは、史絵の“祈り”が実ったときの効果にこそ特殊性があると信じて疑わないからだ。……実際、私も史絵からこうして話を聞くまでは、そうだと思っていた」
史絵は、捕まり拷問を受ける自分の姿を想像した。
イメージには実態が無い分、想像できるかぎりの恐怖が像となる。
週初めの月曜日や火曜日に、学校から帰る道で組織の殺し屋に捕まるのだ。そして気絶させられて、気づくと、自分は冷たい金属製の椅子の上に縛り付けられている。黒ずくめの屈強な男かなんかが、モーニングスターみたいなものを振り回しながら「お前の“祈り”の秘密を話せ!」と怒号を飛ばしてくる。しかし自分は喋れない。だって今週の「祈り」はまだ判明していないのだから!涙ながらに「私の“祈り”は毎週変化する特殊なやつなんですゥ 今週はまだ判明してないんですウウェーン」と言っても信じてもらえない。するとどうなるか。攫ってきた、役に立たない、無力な一般中学生が、どうなるか。史絵は「処分」という文字を思い浮かべ、ぶるぶる震えた。処分されてしまう!
「落ち着こう、史絵」
「はい……」
……となるとその“組織”とやらもとっても気になってくる。組織。史絵の身……自分の身を狙う、(十中八九)悪、の組織。組織には母親も関係するという。史絵の記憶にない母が関係するのだ。記憶にないということは、少なくとも物心がついてから母の姿を見たことがないということ。……そういえば、写真すら見たことがなかった。物心のつく以前に、自分は母を見たことがあるのだろうか?自分は母の体温を知っているのだろうか?
自分の2つの手を、交差するようにしてそれぞれ反対側の肩に触れる。夏用制服の上からでも、自分の体温を感じる。汗は乾いたはずなのに、それでも熱い。
「(私の、お母さん……。私の“祈り”、組織、そして私のお母さん。母さんが全ての始点なんだ。)」
今この瞬間の、自分を取り巻く、大きな衛星めいたものたち。それぞれが引力で影響しあっている。自分もまた、自転のみでいるわけではなく、もっと大きな“何か”の公転の上を転がっている。“何か”とは……その太陽めいた何かとは、母!!自分の母親だ…!
「(咲さんもまた、私と母さんと組織の関係に近い境遇だったために、私に同情してくれているらしい。咲さんが血まなこの男を倒した後の合流で、“自分は宗教二世だ” と言っていた。宗教、組織……)」
「大丈夫か?」
「大丈夫で…す。ありがとうございます。引き続き…次は、母のことを教えてください。私の母のこと、母と組織のこと……」
「ああ。そうだな……」




