『火粉を払う、息を吸う 18』 史絵
出会って初日の人間の家に上がり込んでトイレを借りる。ちょっとした非日常だ。といっても“今日”という日は、そのものが、これまでの人生の中でもかなり非日常な方だった。そんな中に「出会って初日の人間の家に上がり込んでトイレを借りる」程度のプチ非日常があってももう戸惑いも躊躇いもない。……いや、躊躇いは少しあるか。とにかく、咲の家にやって来た。
車の揺れで少し乱れた長い黒髪を簡単に整える。史絵は、そろそろ散髪しようと思っていたことを思い出した。錯覚してしまうが、今はまだ夏じゃない、これからもっと暑くなる。髪をさっぱりさせておきたい。
整えた長髪と耳の上に、挿し込むように黒縁眼鏡をかける。リセットされた視界が心地よい。
薄いピンク色のアパートだった。見たかんじ5、6階建て。周りには判を押したように同じ形のアパートが建てられている。屋根のない、黒くて硬い地面に白線を引いただけの駐車場に車……咲の愛車・ハイドラグーンが駐められる。ハイドラグーンを含めても車は少ない。
「2階だ」
住んでいる部屋は2階らしい。
階段の端には砂が溜まっている。廊下には小さな自転車が置かれてあったり、ピンク色の傘が窓の面格子に挿してある。どうやら、小さな子供を持つ家族が住んでいることが多いところらしい。いわゆるファミリーマンションだ。
「トイレは」咲は、鍵を束ねたホルダーから、部屋の鍵を探しながら言った。見つけたらしい。「冷蔵庫の左の……って、別に案内するほど広い部屋ではないか」
そう言っていたが、部屋は、独り暮らすには広いように見えた。やはり、家族で住むことを想定した部屋なのだ と合点がゆく。
耳に残っている言葉に現実世界で対応するものを……「冷蔵庫」を、探そうと勝手に目と脳がはたらく。すぐに見つかった。鈍い銀色の冷蔵庫で、一番大きい上の開閉部分には、水道屋のマグネットチラシが貼られている。よく見れば、マグネットチラシの全てにはハローキティが載っている。おじさんの写真が載っているようなやつはない。キティのやつだけ、とっているのだろうか。そんな冷蔵庫から、左に目線をずらす。縦長い扉をしたあそこが、トイレだ。
「じゃあ、借りますね。失礼します」
他人の家に上がり込んですぐトイレを借りると、まるでトイレを我慢していたみたいで恥ずかしい。
カチャ。パチ。明かりを消したことを確認し、冷蔵庫の前へ出る。周りを見ても咲の姿がない。玄関に一番近い部屋のふすまが閉じている。
「(奥の部屋かな)」
ひょこっと顔を覗かせると、奥の部屋に咲があぐらをかいて座っている。脚の低い小さなテーブルを挟んで、バルコニーに繋がる窓の近くの側にいる。だから、手前の方に座れということなのだろう。
「失礼します」
咲は服を着替えていた。先の戦いでたくさんの怪我をしていたので、清潔な服に替えたのだろう。白っぽいだぼだぼとした服には、血の一滴も染みていない。傷口を洗って止血したのだろう。血こそもう垂れていないが、衣服に包まれた腹部・腿と違ってむき出しの唇は、包丁を入れた肉そのもので やはり痛々しかった。
お茶が用意されていた。こういうのって、飲んでいいのか迷う。そういえば、ドラッグストア駐車場で誘拐されてから水を飲んでいなかった。喉って渇いてるっけ、と自分の喉に問いかけてみる。渇いていてるよ!とのことなので、お茶をいただくことにする。ゴク。冷たい麦茶が柔らかい塊で喉を落ちてゆく。水分が体内に入ったことに反応し、唾液が分泌され、それも飲み込む。ゴキュン、今度は僅かに粘り気のある液体が喉を落ちていった。
「ぷはっ、……」
ふと、モクラのことを思い出した。モクラの体の一部……モクラが自分に付けてくれた、土団子からなる発信機。新聞紙で包んであそこに置いていったが、新聞紙に包むのは間違いだったかもしれない。土団子発信機は、その、自分の唾液で濡らして湿らせておいたのだが、そうして与えた水分が新聞紙に吸収され、カピカピに乾燥してしまったら……。まくらとモクラは、残した土団子発信機に、残したメッセージに気付かないのではないか。
「どうかしたか」
「あ、いや……」
気まずさは特になかった。車中と違い、場所は整っている。話す場所が整っている。話す内容もある。ありあまるほどに。明確な目的があると、初対面の人間ともこうして向かい合えるものだ。……ただ、気まずさの代わりに、緊張があった。
「「“祈り”の──」」
発言が被った。史絵は「あっ」と思い、口を閉じた。が、咲は特に遠慮することもなく続けた。
「──簡略化のこと、聞きたそうにしてたよな。お前のお母さんのことと、“祈り”の簡略化のこと、どっちから話そうか」
史絵の、目を閉じて悩む様子を見て、咲はパンッと軽く手を合わせた。
「お母さんの話は長くなる。“祈り”から、いこうか」
「はい…!よろしく、おねがいします」
咲が、右手を膝に手をあてて立ち上がる。史絵は「自分はどこに向かっているのだろう」と考えて少し怖くなっていた。
降りかかる火の粉は払う、が、なんとなく、モットーだった。前のいじめの件もそうだ。手から虹を出すギャルたちにいじめられていたとき、本当に怖かった。あの状況から脱出できたのは戦ったからだ。向こうからやってきた厄災の回避というのは不可抗力的な行動だ。だが……もしかして自分が今からしようとしていることは、炎の中に自ら突っ込んでいこうということなのではないか。そんな気がして怖いのだ。
「“祈り”という呼称は、“魔法”や“呪術”なんかよりも的を得ている」
咲の声に、ハッと顔を上げる。咲は、なにやらパソコンをいじっていた。かちゃかちゃと音が立っている。顔はこちらに向いている。キーボードを見ないで文字を打てている……ブラインドタッチというやつだろうか。すぐ、画面をこちらに向けた。史絵は画面に顔を近づけ、表示されているものを見る。動画投稿サイトだった。4年前に投稿された、再生回数2300回程度の動画が再生されている。
「これは、」咲は、動画に何が映っているものの名前を教えてくれた。「摩尼車というものだ」
「まに車?」
紐で縛られた丸焼きの豚か、あるいは月餅のような焼き菓子を積み重ねたものが、縦に伸びる串に刺さされたままクルクルと回っている……ようにしか見えない。カメラが、例の物体から引いてゆくと、周辺の景色が見えてくる。どうもそこは、寺院らしかった。神社の絵馬掛所のような感じだ。絵馬の代わりに、その、まに車とやらが飾られて(?)いる。観光客か地元の参拝者か、とにかくやって来た人間が まに車に触れると、からから音を立てて回り始めた。おもちゃみたいだ、と史絵は思った。
頑張って理解しようと試みる、のも数秒のうちに、咲が説明を始めてくれる。
「摩尼車っていうのは、ひとつの仏具だ。筒みたいな形をしてて、中にサランラップみたいにロール状で、経文が入っている。経文っていうのはようはお経…仏教の経典で、読めば徳が積まれる」
「なる……ほど?」
史絵には何がなんだか分からない。これが“祈り”の簡略化にどう関係するのだろうか。
「摩尼車は、中に経文の入った筒だ。つまりこの筒が回ると、経文も回る。経が一回唱えられたものとして扱われる。するとどうなるか……徳が積まれる」
「え?徳?なんでですか」
「さあ、詳しくは熱心な仏教徒にでも聞いてくれ。ともかく、この摩尼車を一回 回せば、経を一回唱えた分だけの徳が積まれるわけだ」
動画はまだ再生されており、参拝者の手によって摩尼車が乾いた音を立てて回る様が映され続けた。代わり映えない映像だ。史絵はそれをぼーっと眺める。お経といえば、お葬式で唱えられる、あの長い長いやつだろうか。この……まに車の一回転で、経が一回唱えられたことになるという。
「心の所作は、省略できる」と咲が言ったと同時に、動画は再生時間を迎えて終わった。
黒くなった画面に、9個ほど、他のおすすめ動画のサムネイルが表示された。史絵は、聞いた言葉をそのまま心で唱えてみた。
「(心の所作は……省略できる……)」
「少なくとも私はそう解釈している」
「心の所作とはつまり、祈ることですか」
「そうだ。彗星・“恐怖の大王” によってもたらされた人類のトンチキ能力が“祈り”と呼ばれている。なぜかというと……それ以前から定義されていたところの祈り、本来の意味での祈り、宗教的な儀式としての祈り。これと同じく、理科的な世界の理に囚われない一連の動きとは、人間の心の所作であるからだ。そして、そうであるのなら……心の所作であるのなら…………省略ができる」
本が、今まで読んだ図書館にある全ての本が、棚に収まっていた本の全てが、がらがらと崩れてゆく音が、史絵には聞こえた。
「“祈り”の簡略化には色々方法があるみたいだが、私が……私らが教わったのは、“祈り”の手順の最後のみを行う方法だな」
唖然とする史絵の目を見つめながらも、咲は続けた。史絵は唖然とし続けていたかったが、これから行われる話は全て超々重要なことだという予感に従い、ぼんやりする頭を起こし話に耳を傾けるしかない。今、自分はとんでもない話を聞いている。
「もう分かってると思うけど、それが私にとっては、錠剤状のものを飲み込む だったわけだ。本来6つの手順を踏まなければ実らない私の“祈り”……そのうち最後の6番目の手順、“錠剤を飲む” のみで、“祈り”を実らせている。これが“祈り”の簡略化だ」
咲は、青と緑の中間色をした半透明のプラスチック瓶を取り出し、「今はよくラムネ菓子を使っているかな」と言い、じゃらじゃらと鳴らした。瓶はまだ中の三分の一ほどがラムネ菓子で埋まっている。
「簡単に、」から始めようとしていた史絵の台詞は震えていた。
「ん?」
「……簡単に、そんな簡単に“祈り”が実ったら、人間社会への不都合が多すぎます。ラムネ菓子を一粒食べただけで、手で触れたもの同士を完全にくっ付けてしまっては、“祈り”の持ち主も社会も困る」
1秒前後だけ考える様子を見せて、咲は答える。
「そうだ。だから、簡単には実らない。手順が省略されても、“祈り”は簡単に実ってくれない。……ただ必要な時間が短くなっているのは事実で、その一点が戦いには都合がいいというだけだ」
「摩尼車に喩えたまま説明を続けよう。摩尼車を回すと、経を一回唱えるのと同じ分だけ徳が積まれる。だったら経を唱えるより摩尼車回した方が楽だからそうした方がいいじゃん!……と思ってしまうが、そういう考えで仏教徒がそうしているわけではない」
「では、どうしてですか?」
「人生は有限だから、じゃないか?葬式に出席したことがあればイメージしやすいだろうが、読経は1時間近くかかる。それが短時間で済むのなら、そうするに越したことはない。動画で見せた観光客たちは無邪気にカラカラとクルクルと摩尼車を回していたが、仏教徒たちはそうじゃない。一度見たことがあるが、あの人たちは摩尼車を回すとき 極めて集中していた。それこそ、経を唱えるかのように」
史絵が眼鏡のブリッジに右手の人差し指をあてて、ぐにぐに押す。鼻あてが軽く食い込んで、鼻の骨と肉がこりこりと鳴る。考える様子の史絵を見つめ、咲はこう言って締めくくった。
「省略は、心の所作の、程度を下げはしない」
一室は、妥当な沈黙に包まれていた。史絵は考え、咲は史絵の考えるのを待つ。コップの中で氷が溶けて形を変えて、からんと音を立てる。
「(……つまり、普段の“祈り”も、簡略化された“祈り”も、使い手は同じ熱量をかけているということ?)」
だから、簡単には実らないのだと。……お経と まに車の喩えを反芻し、自分なりに解釈してみる。お経は唱えるのに時間がかかる、となると、集中力は長いこと要されるものになっている。対して、まに車を回すときの集中力は短いが深いものになっている。この関係が、そのまま、しっかり手順を踏んだ「祈り」と、簡略化された「祈り」に当てはめることができる。
……ということで合っていますか、と咲に確認を求める。咲は「そういうことだな」と言って、ラムネ菓子を口の中に投げ込んだ。なんも考えてなさそうな、あるいは他のことを考えていて心ここにあらずみたいな、顔をしている。それから、右手でコップに触れ、左手を机に置いてパッとはなした。……コップと机は縫合されなかった。
「と、このように、普通に“祈り”を行うよりもずっとずっと深く集中しないと、簡略化した“祈り”を実らせることはできないわけだ」
咲のコップはすでにからっぽになっていた。咲はコップを持って立ち上がり、麦茶の入ったポットを取りに台所へ向かおうとした。「史絵もまだいるか?」と聞かれたので、コップの六分の一ほどになっていた残りをグイと飲み干して、「お願いします」と答えた。
咲の「祈り」(手順簡略化済み):
○錠剤型のものを飲み込む(薬でなくとも、ビタミン剤でもラムネのお菓子でもいい)
↓
◎「祈り」が実り、右手で触れたものと左手で触れたものを縫合できる。(しかし、家と山、地球と月、のような、あまりに重いもの同士を縫合することはできず、この場合はふたつの間に頑丈な糸が張る)




