『火粉を払う、息を吸う 17』 史絵
「咲さん、紙と鉛筆ってあります?」
「紙?」
この場から去るのなら、きっとここに警察と共にやって来るまくらに、そのことを伝えなければならない。でないと、もしかしたら、追ってくるかもしれない。これ以上巻き込むわけにはいかない。こう心の中で確認するだけでも恥ずかしいのだが、まくらは、友達だ。友達を危険なことに巻き込みたくない……せめて、これ以上は。
「新聞紙でもいいか?」
咲が手にしていたのは、はがき大に千切られた新聞紙の束だった。
「(なんで、新聞紙なんだろう。使い捨てティッシュの代わり?)」
新聞紙と一緒にサインペンが渡される。なぜよりによって新聞紙なのだろう。束から、比較的空白部分の大きい新聞紙を選ぶ。ただ鉛筆じゃなくてサインペンを使えるのは幸いだ。これなら、新聞紙の蟻の如く活字の上からメッセージを書いても、きっと読めるだろう。これでまくらへの伝言を残す。
「(わ、た、し は……大、丈、夫。と)」
唾液の乾いたカピカピの左手のひらの上に新聞紙を広げ、てのひらが柔らかいゆえにぐにゃぐにゃの文字になってしまうが、なんとか書く。
『 私は大 丈夫。
心 配しないで。
明日 には、学校で 』
メッセージの書かれた、はがき大のクシャついた新聞紙に、土団子発信機を包む。石鹸を泡立てるように両手で転がすと、栗しぐれほどの大きさになった。
「少し、さっきのところへ戻って細工をしてきます」
と言って、後ろを振り返って走り出す。
咲は特に史絵の行動を止めようとしなかった。史絵がこの場からの逃亡をするわけではないと分かっているからだ。走ってゆく少女の背中を、ひりひりする唇に手をあてながら見守る。
「細工…?」
運動不足が軽い息切れを起こす程度を走り、例の場所に到着する。泡を吹いて倒れている、ナイフを握った充血男。車内で前部座席背もたれに顔をうずめてキスをしているボーダー柄の服を着たおばさん。悪夢のワンシーンのようなところだ。
近くの木のふもと、軽く、鮮緑の落ち葉で覆うように、丸めた新聞紙を隠す。モクラはきっと、この土団子発信機を見つけ、それを包む新聞紙のメッセージを主人に報告する。
「(そんなすぐに土団子が乾燥することはないよね…?)」
……
「すみません、お待たせしました」
「おー じゃあ、行こうか」
「はい」
この林はどこまで続くのだろう。咲の向こうに広がる木々と地面が見える。見渡す限り緑と茶色だ。そんな中、咲の白銀の髪は、光に撫でられてきらきらと輝いている。目立っている。無意識につむじをを探していると、咲は歩き始めてしまった。ポニーテールが揺れている。こんな感じで、白銀の毛並みの馬は、実在するのだろうか。
しばらく葉を踏みながら歩いていると、突如として「現代の馬」が現れた。動物の馬と同じ色をしている。艶のあまりない外装の、茶色い小さな車だ。色のせいで、近づくまで車がそこにあると分からなかった。地面と木に擬態する色だ。
「こっからは、これに乗る」
こんなところに車を停めていたとは。もう林も入り口ではない。かなり奥だ。
「前と後ろ、どっちがいい?」
「え、う……ん」
どっちにしようか。
車内は綺麗だった。相当綺麗で、見ただけで大切にされていることが分かる。もしかしたら今回 林の中に停めているのも、咲にとって渋々のことだったのかもしれない。
「私の愛車だ。さっきの乗り捨て用の車とは違う。大切~に座れよ」
やはりそうだった。史絵は後部座席の右側に座り、シートベルトを引っ張り出しながら、考える。恐らくあの……咲が自分を誘拐するときに使って、今ボーダーおばさんがキスしているあの銀色の車は、「組織」とやらから支給されたものだったのだろう。ボーダーおばさんには発信機は結局付けられていなかったが、車の方はもしかしたら、組織に位置が把握されているかもしれない。だとすれば、愛車もとい自家用車を林の中に用意していたのは、咲が最初から組織を裏切って自分を助ける計画をしていたことを表わしている。うんうんと頷いて思考を整理していると、
「ハイドラグーン……」
と、咲が運転席から呟いた。
「え?」
「HIDE LAGOON──」
な、なんなんだろう。黙って耳を傾けると、ミラー越しに目線が合う。鏡の中の顔を睨まれたまま、咲の話す続きを聞く。
「こいつの名前だ。私の愛車……ハイドラグーン。ハイドラグーンと、呼んでくれ」
それきり咲は黙った。どうも、返事をしないといけない雰囲気になっていたので、よくわからないまま「は、はい」と応える。
「よし。」
カキッ、キキキキ、ブゥー、ゥーン。エンジンがかけられた。
大量の葉が踏まれてゆく感触をタイヤと車体を通して感じる。徒歩だったときの何倍ものスピードで、代わり映えない景色が後ろに流れてゆく。にしてもよく、こんな木の多い所でするすると……川に流される笹舟のように滑らかに運転できるものだ。
体が左右に揺れる。振り幅の狭いメトロノームを思い浮かべた。そして、今度の移動はどれだけかかるのか、どこへ行くのか……そんなことを考えた。遡り、「自分の選択は正しかっただろうか?」という疑問点へ至る。この車……ハイドラグーンとやらに乗るまでの、どこかのタイミングで逃げることができたのではないか?せっかくモクラが付けてくれた土団子発信機をあそこに置いていくべきではなかったのではないか?咲についてゆくことは正しい選択だったか?
咲は「お前を助けるためにきた」と言っているが、本当である保証はない。ボーダーおばさんと血まなこの男が「分かりやすく敵」だっただけで、彼女が「敵」ではないとはならない。先ほど咲が血まなこの金玉を殴り潰したときに感じた「信用」とは、あくまで直感的なもの。時間の経過につれ冷静さが警鐘を鳴らす。つまり、まだ揺れていたのだ。
史絵は、咲のことを見極めるために会話の中で探ることに決めた。
「あの──」
「HIDE LAGOONは」咲が、史絵の発話とほとんど同時に何かを話し始めた。「HIDEが“隠す”、LAGOONが“礁湖”を意味する。“珊瑚豊かな湖を隠してしまえ”」
ミラーに映った明るい顔を見るに、どうやら史絵の発言を遮ろうとして遮ったわけではなく……というか史絵が何か言いかけたことに気付いてすらない様子だった。咲は、自分の喋りたいことをただ喋っているだけ、といったカンジだった。そのまま続ける。男勝りな口調で、やはり容姿や声とはどうしてもギャップを感じる。
「……というのは後付けというか、後になって気づいただけで。本当の由来は『カービィのエアライド』に登場する2台の “伝説のエアライドマシン”、“ハイドラ” と “ドラグーン” にあやかった名前なんだ。かっこいいだろ?」
何を言っているかはまったく分からないが、とにかく楽しそうに話している。内容はともかく、話題にしたものは「愛車の名前の由来」である。……好意的に解釈するならば、「愛車の名前の由来を話してくれる」というのは「友好的に接しようと試みている」と、捉えられ……ないこともない……のか?
窓の外に人工物が見えるようになるまで体感で20分ほどかかったが、その間 車内はずっと沈黙だった。気まずさのために実際の時間よりも体感が長くなってしまったかもしれない。ハイドラグーンの名前を話して以降、咲は一言も喋らなかった。史絵も、ハイドラグーンの話で頭が真っ白になって、どう会話を切り出せばいいのか分からなくなった。「自分の母が宗教組織と関わっているとはどういうことなのか」「母と宗教組織と自分の“祈り”は互いにどう関係しているのか」「咲や血まなこの男が使っていた“祈り”の簡略化とは何か」聞きたいことは沢山あった。そうしたことを問う中で、咲が真に史絵にとって敵か味方かを見極める目論見もある。しかしハイドラグーンの話で全部吹っ飛んだ。沈黙もここまで続くと、次に何か発言するのは躊躇われた。
……と、史絵は思っていたが、咲はそうでもなかった。咲は、「沈黙を破るための第一声」にこだわりのないタイプだった。
「トイレとか大丈夫?」
普通にそう言ってきた。
そういえば放課後になってからまだトイレに行っていない。5限終わりに行ったきり……ホームルームの後すぐ図書館へまくらを迎えに行き、そのまま2人で帰宅、帰宅途中に雨が降りドラッグストアで雨宿り、ボーダー柄の服のおばさんに襲われ、咲に誘拐され、咲と血まなこの男が勝手に戦い、今はハイドラグーンの心地よい揺れに乗っている。最後にトイレに行ってから結構経っている。正直少し膀胱の筋肉を労わってやりたいが、限界というほどではない。そしてここで「トイレ行きたいよ!」と言えば、林の中に戻ってそこでさせられるんじゃないかと考えて、怖かった。もう林は抜けたといっても、あるのは老人の住んでいそうな民家くらいで、コンビニなどはまだ見当たらないのである。林……林ならまだマシだが、「あそこの畑でしてこい」などと言われたらたまったものではない。
「トイレ、あ、大丈夫です。まだ」
「そう?ま、もうすぐ着くけどね」
どこに?
トイレの文脈から考えて「もうすぐ着く」というところは「トイレを内包するもの」であろうが、果たしてそれはコンビニなのかイオンなのか、公園なのか。もしかしたら咲の住む家なのかもしれない。と考え、別にその可能性だってあるはずなのに、いやそれはないか、という論に至った。というか尋ねればいいことだった。
「どこに向かってるんですか?」
「私の家、だな」
もうすぐ、咲の家に着く。




