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『火粉を払う、息を吸う 3』 史絵

 なぜ。


なぜ、「これ」に、「祈り」と名付けられたのだろうか。


 彗星「恐怖の大王」が地球を駆けたあの日から、人々は不思議な力を持つようになった。手を合わす、手をたたく、額に人さし指と中指をそっと当てる、口に含んだ液体をそのまま留める、茄子を枕で挟む、ペットボトルのキャップを煮る、右足を心臓より高いところに持ってくる……それ以前までなんの意味も持たなかった行動が、連鎖することで世界に影響を及ぼしうるようになった。


 でも。なぜ「これ」を「祈り」と言うようになったのだろう。「魔法」でもよかったし、「奇跡」でもよかったはずだ。


 「これ」は現在、世界の多くの場所で、「祈り」を意味する言葉で呼ばれている。


「(確かに、あのギャルの“祈り”はすごかった。…身体をくるりと一回転してから、右耳を二回引っ張る。すると、手から虹が出る)」


 閉ざされた図書館から帰ってきた史絵(しえ)。意識してかなりゆっくりと歩いてきたため、教室に着いたときに丁度チャイムが鳴った。休み時間の終了が告げられた。

 このメロディーが鳴り終わる前に着席しよう。がら、と扉を開ける。すると歓声が響いた。……教室の中心にはあのギャルがいた。他のクラスメイトから頼まれていたのだろう、ギャルはまた「祈り」を見せびらかしていたようで、手から虹を出していた。


「(“祈り”はやっぱり意味不明だな。物理法則を無視している。ふつう人間の手から虹が出るわけがない。口から宝石が出るわけがない。無からワインを生み出せるわけがない)」


「(だけどその“祈り”を持っていれば、それが可能になる。)」 


 チャイムが鳴り終わっても、みんなはあのギャルへの称賛をやめなかった。


「(だれもが“祈り”を持ち、“祈り”は人を魅了する力がある)」


 ギャルの派手な「祈り」に群がるみんなを見て、史絵(しえ)は宗教を連想した。


 二限が始まろうとしていた。始業式は午前で終わるので、今日はこの授業が終われば帰れる。


「(私も、早く自分の“祈り”を持たなければ…!)」



……



 昨日、帰ってから張り切りすぎたせいか、今日は朝から疲れを感じる。

「はあ、昨日は疲れた」

 昨日、始業式が終わった後、史絵(しえ)は家に着くとすぐに作業に取りかかった。久しぶりに走った。奔走だ。ただそれだけではない。頼んでいた「祈り」推定テストセットが家に届いたので、それで日が暮れるまで自分の「祈り」を調べてもいたのだ。


「(みんなと違って、私の“祈り”は毎週変化する)」


「あー!めんどくさい!」


 まだ朝早い。


 最近はろくなことがなかった。吹く涼しい風だけが救いだ。心地よい風が吹いている。春風といえばあたたかさの代名詞だが、それより、快晴の中にふいに吹く涼しい風の方が、好きだ。

 誰かの家に植えられた木が風を受け、さわさわと葉が揺れている。自然の少ない住宅街の中に見出す僅かな自然は、むしろ遠くの高いビル群よりも価値があるように思えた。

 ぼやけて見える程度のビル群の中には、一際高いものがあった。超高層ビル。そういえばあの超高層ビルは、なんのためのものだろう。名前は知っているのに、何に使われているのか知らない。あのビルはここらでは一番高い人工物として有名で、ここらの住民にとっては、方角を知る手段でもある。まるで北極星だ。

 一際高いビル…に想いを馳せていると、ギャルのことを思い出した。どちらも目立つ存在だ……。


「(とか考えてるうちに)」


 学校に着いた。ハトが鳴いているのが聞こえる。


 職員室からクラスの鍵を取り、勝利に近いなにかを確信する。今日は私が、最も早く、教室に着いた。

「…」

 新学年・新学期のスタートは席が出席番号順のまんま、いわば初期設定のままだ。しばらくしたら席替えというイベントが行われるのだろうが、史絵としてはこのままでよかった。いちいち自分の席を覚えなおすのもめんどくさいのだ。


 かなり長い時間、教室で独りという状態が続いた。

 史絵の次に来たのは、おとなしそうな男子生徒だ。そいつと挨拶を交わすといったことはない。そいつはそそくさと己の席に着き、がさごそとプリントかなんかを広げ、筆記用具を走らせたようだが、史絵から離れた席に座っているのであまり詳しくは分からなかった。別に詳しく知ろうとも思っていなかったが。

 どうも、クラスでおとなしそうな部類の生徒が早く来る傾向にあるらしい。

 朝のホームルームが始まる10分ほど前になって急に教室が騒がしくなったのは、そこらでやっと騒がしいめの連中が来たからだろう。あのギャルも、それくらいで来た。始業式のときにめちゃくちゃ登校が早かったのは、どういうことだろうか知らないが、別にそれがデフォルトではなかったらしい。


「む、」

 そういえば近くに悩みの種の末端のようなものがいた。一つ前の席だ。手から虹を出すギャル…の取り巻きみたいな準ギャル、のうちの一人が、史絵の前の席なのだ。といってもそいつが話しかけてくるということはない。休み時間はあのメインのギャルとつるんでいるし、授業中はただぼんやりしている。


……と思っていたのだが、


 ホームルームが始まった。4月の予定をまとめたプリントが配布される。連休・祝日はいくつあるのだろう?わくわくしていたのだが、どうもプリントが回ってこない。

「……」

 そうか、分かった。まさかもう始まっているとは。手前の準ギャルが、プリントを回してくれないのだ!

 そいつはくすくす笑っている。

「(露骨すぎるだろ)」

 どうやら、イジメが始まったらしい。


 シャープペンシルで背中をブッさしてやろうか、と思ったものの、それを実行に移す勇気はない。普通に報復が怖い。クラスのナード君が書いた妄想ケータイ小説ではないこの世界では、社会的弱者が実はスーパー強くて己を虐げるやつをボコボコにし返す、なんてことは起きないのだ。ここは堪えるしかない。

 仕方なく手を挙げる。

「先生、プリントが不足してます」

「あ!すまん!…あれ、おかしいな。ごめんごめん」

 先生が余っていたプリントを持って、こっちまでやってくる。

「ありがとうございます」

 プリントを左手で受け取ったとき、史絵はてのひらに汗を感じた。不安がにじみ出ているのを自覚した。……無理もない。史絵は、人生で初めてイジメをこれから経験するのだから。

「(これがかの有名な、イジメというやつか。ニュースで概念を知っただけで、自分が経験するのは初めてだな…)」


 いやな汗が出ている……。これは、気温のせいではない。


 さてどうしたものだろう。イジメに対して、「そんなの効いてませ~ん」とスカした態度をとろうものなら、敵は逆上し、すぐに内容をエスカレートさせそうなものだ。かといって、泣いたり怒ったりと、敵が望んでそうなリアクションをとる……これも嗜虐心を助長するだけではないか!?なにより、そうやってなされるがままに感情を搾取されるのは、みじめだ!

 現実的なラインで賢明な判断は、不登校か転校なのだろうか……

「さあ、今週次第かな」


 休み時間。今日から図書館が開放される。


 図書館は落ち着く。ただ、休み時間が終わる前に教室に帰る必要がある。教室の扉に手をかけた瞬間、チャイムが鳴った。パーフェクトだ。

 席に着く。

「あれ、ない」

 朝に配られたプリントが、机の中から無くなっている。あのギャルたちが笑っている。あいつらが捨てたらしい。

 出会って間もない相手に対して、人はこんなにも残虐になれるのか……驚いたが、驚いている場合ではない。想定していたよりもイジメ進行の速度が速い!これでは、机に落書きされる、教科書が捨てられる、水をかけられる、お弁当をぶちまけられる、ついには暴力……も、すぐそこだろう。


 そしてそれは当たった。史絵があまり怒りや感情をあらわにしなかったのが彼女たちをムキにさせたのもあるだろうか、ご丁寧に、いじめは目に見えてエスカレートしていった。






 この日、火曜日から無視やプリント回さないなどがスタート。






 水曜日、昼休みに図書館から帰ってくると、かばんに入れていた教科書がいくつか無くなっていた。しばらく探し、中庭で砂に汚れているのを見つける。五限終わりの休み時間には、個室トイレの上から水が降った。ホースが床にびたん、と落ちた音の後、ギャル共の笑い声が響いた。






 木曜日、ごみ箱に弁当が突っ込まれていた。三限体育の終わりである。更衣室で着替えている時点で彼女たちの下品な笑い声が何か史絵にとっての悪い事態を示している気がしていたが、教室に帰ってきた、このざまだ。登校と途中でコンビニエンスストアで買った惣菜パンが、ぐちゃぐちゃの状態でゴミ箱の表層となっていた。この日、史絵は仕方なく、学生生活で初めて食堂を使用した。昼休みにここまで混んだところに来たのは初めてだ。教室に帰ると、ゴミ箱の最表層は、史絵の体操服で上塗りされていた。

  木曜日に起きたイジメは以上だ。







「う」


「く」


 しかし、木曜日はもう一つ出来事があった。


「はあ。……もうこれで、どうにかするしかないか……」


史絵の、今週の「祈り」が分かった。



……



 金曜日、起床とともに心臓がばくばくとなっているのに気づく。これは自身の覚悟の、決意の弱さによるものなのだと思った。

「(今日……)」

 ぐ、と胸のあたり、心臓の上のあたりを強く押す。少し息が苦しくなる。ゆっくりと息を吐く。次第に、心臓の音は小さくなっていった。とく、とく、とく。

「(今日、決着をつける…!)」


 まるで人喰いの獣に立ち向かうかのように、史絵は警戒した、しかしどこか気の強さを感じさせる歩き方で学校へ向かった。その日は、まだ春だというのにかなり暑かった。ただ汗が冷たい。

「(着いた。まだ朝早く、生徒は誰も来ていない。……少し。校内を歩こう)」


 職員室のある1階は人間の気配のようなものも感じようとすれば感じることができるが、2階より上は恐ろしく静かだった。沢山の窓から日差しも指しているはずなのに、廊下からは夜の残滓が充満している気がしてならない。中でも、4階には旧書庫という部屋があり、そこには鍵があって基本的に生徒は入れないのだが、その部屋の無機質で冷たく重い扉の前に立つだけでも、強い孤独を感じる。なぜなら、ここに来る人間はほとんどいないからだ。

 ほとんど人の来ない、旧書庫前の小階段。なぜこんなところを史絵は知っているのか。それは彼女がここで昼食を取っているからに他ならなかった。いじめが始まって以降、彼女は誰も来ないここで、一人で昼食を済ませた。

 

「(実行するのは昼休みだ。昼、昼、昼昼昼昼昼昼昼昼……)」



……



 昼。


 昼になった。それまでの記憶がほとんどない。ずっとこの昼休みのことを考えていたのだ。

 これまで通りなら、史絵は自分の弁当を持ってそそくさと教室を出ていった。といっても昨日はギャル共に弁当を捨てられてしまい、食堂に駆け込むはめになったが。しかし、今日は、そのどちらでもない。


 気をつけたことがある。まず、史絵は休み時間にどこか行くとき、それがたとえトイレに行くときでも、ずっと鞄を背負うようにした。鞄には弁当を入れている。さらに、直前の授業を担当した先生についてゆくように教室を出るのだ。単純だが、そうするだけでギャル共に弁当を捨てられることがなくなる。なぜなら、あのギャル共もクラスの外で目立つようなことはしたくないからだ。わざわざ廊下を歩く史絵から強奪してでも弁当を捨てたいわけではない。

 ただ、ギャル共の腹の中には確実に苛立ちの種が蒔かれた。「あのいじめられっ子が、初めて反抗をしてきやがった」という苛立ちが。


 そうして迎えたのが今の昼休みなのだ。史絵は、水筒と弁当を持って立ち上がる。もう教室に教師はいない。それを確認した後、史絵は教室の前方まで歩いてゆく。扉の近くの席。そこは、ギャル共がいつも固まって昼食をとっているところだ。

 くるり、そっちを向く。瞬間、いくつもの鋭い視線が身体を抉る感覚に襲われる!──が、そんなの、気にしてやらない!!


 がん!


────史絵は、強く、ギャル共の座っている机の足を蹴った!そして、脇目も振らず勢い良く教室から飛び出す!!後ろから、恐ろしい声が、音速で飛んでくる!

「待ておまえ!」

 ガタ、ガタ。椅子がいくつも倒された音。あのギャル共が、史絵を追って走り出した合図だ。そして怒号。それらを振りほどくように、史絵は走る。──中学生でごった返した廊下。大人は誰もいない。今は昼食をとるための昼休みだ、教師は全員職員室に居る時間。

「(向かうは────!)」




 4階 旧書庫前 小豆色の金属扉のある 小階段




「(ほこりが舞っている)」

 追ってくるギャル共より少し先にたどり着いた、史絵。階段を驚異的な速度で駆けあがってくる音が近づいてくる。やつらは、すぐにでもやって来る。もう、次の瞬間にでも。

 それよりも先に────史絵は、左足のスリッパを脱ぎ、靴下も脱ぎ、裸足になる。そしてすぐ水筒の蓋をぐるぐる回し、取り外した。円柱の中には、芳しい液体がみちみちと満ちている。これを、躊躇なく、史絵は自身の肩にぶっかけた。それは具の入っていない味噌汁だった。長袖の白いシャツがびちゃびちゃに濡れ、服の向こうのブラジャーや肉が透けて見える。それを気にした様子もなく、彼女はがちがちがちと歯をすり合わせる。上の服は味噌汁で濡れて肌に張り付き、口からは不快音の残滓があり、足裏に埃が張り付く。

「(不快だ!!でもこれで────)」

 そこに────


 そこに、ギャル共がやって来た。拳は硬く握りしめられている。暴力を連想させる形状だ。

 今、旧書庫前の階段の上に史絵は立っており、それを見上げる形で3人のギャル共が廊下を踏みしめていた。すぐ、ギャル共は史絵の姿を見てぎょっとする。なんせ、上半身が味噌汁に濡れて、片方裸足と、かなり変な格好だからだ。驚き。しかしすぐ怒りの感情が塗りつぶす。そしてそれは口から飛び出る。

「おまえ!!自分が何したか──」

手から虹を出すクイーンビー的ポジションのギャル、の両脇にいる2人の取り巻きの片割れが、そう叫んだ──


──のを塞ぐように、史絵はぼそりと呟いた。

ららりりららられ(わたしにあやまれ)

「は、何て──」

 次の瞬間だ。バツン!!聞きなれない音が鳴った。刹那、吠えるような叫び声が上がる。どちらの音も音源は、真ん中のギャル、クイーンビーだ。

「ぎゃうああぁぁっ!!!!痛いぃぃっ!!」

 それは、人間の肉がはじけ飛ぶ音、人間の手のひらに穴が開けられた音、そしてそれに苦しむ人間の叫び声だった。


 2人の取り巻きが、クイーンビーの方を向く。すると、彼女の右手に大きな穴がぽっかりと開いていた。平和の国に住むギャルたちには想像し難いかもしれないが、それは丁度、拳銃でぶち抜かれたくらいの穴だ。穴から、さっきまでクイーンビーの身体だった血肉がこぼれ落ちてゆく。廊下に小さな血の満月がいくつもできた。

 戸惑う3人のギャルを見下ろし、史絵は吐き気のする口を抑えながら言う。

「それが、私の“祈り”だよ」

 そして言っている時には既に、再び、水筒の中の味噌汁を浴びていた。



史絵の今週の「祈り」:

①具の無い味噌汁を肩に被る

 ↓

②歯を1秒以上すり合わせて音を立てる

 ↓

③この時点で左足が裸足の状態である

 ↓

④日本語五十音のうちラ行 (ラ・リ・ル・レ・ロ)の音を6つ以上連続で発音する

 ↓

◎「祈り」が実り、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 史絵は、震える声を絞り出す。

「私の“祈り”は、実ると、()()()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 それを聞き、ギャル共はこの状況を理解した。クイーンビーは穴の開いた右手を抑えて、肉体的苦痛に反応して流れる涙をぼたぼたと床に落とした。


 史絵は叫ぶばかりだ。

「もう次の“祈り”の準備もできてる!立ち向かってくるなら、次は喉でも、心臓でも、頭蓋骨でも、取り返しのつかないところに穴を開けるぞ!!」


 史絵は、高圧的な態度をとってみたはいいが、内心は怯えていた。なんせ、人間の身体に穴が開くところなんて、見たのは初めてだ。史絵だって好きで、人間の身体を破壊したいわけではない。それがたとえ、自分を追い込んだいじめっ子たちであっても。……ようはグロ耐性がなく、平均程度の道徳心を持っている、それだけのことだが。

「(う、うわ……ホントに、あのギャルの手に、抉られたような穴が…!気持ち悪い…!痛そうだ…!でも、ここで私は戦わなくてはいけない!私の意見を、主張するのだ……!!)」

 そして史絵は、一番大きな声を上げる。

「もう、私をいじめないでほしい!!」

 それは格好良くはないかもしれないが、史絵がこの場で望む唯一の願い、貫き通したい唯一の信念だった。


 史絵を見て、取り巻きのギャル2人はだらだら垂れる汗を拭いもせず、顔を見合わせた。それから、片方が、クイーンビーの顔色を伺ってこう言った。

「だ、だってさ……どう、する…?」

 普通は心が折れるところだが、クイーンビーはなんせ手から虹を出すギャルだ、只者ではない。まだまだ怒りに拍車がかかる。

「フザケんな!!史絵!絶対殺してやる!!」

 いまだ、クイーンビーの右手からは血が噴き出していた。まだ痛みに勝る感情があるとは……史絵も驚く。ただ、激しい痛みがそいつを襲っているのには間違いないようで、そいつは、クイーンビーは動くこともままならない様子だ。傍から見れば、羽のもげた羽虫が悶えているようだった。取り巻き2人は完全に引いている。


「え…と、じゃあ、そこの2人だけは、もう私をいじめないってことでいい?」

 取り巻き2人は完全に沈黙して、こくこくと頷いた。

「分かった。じゃあ、その、手から虹を出すそこのギャルにだけ、クイーンビーにだけ、とどめを刺すね…………もう、二度と私をいじめないでね」


 穴を開ける対象をしっかりと意識して、史絵ははきはきと発音した。

らるれるりれろ(かんべんしてよ)……」

 ラ行の音が6つ以上連続している。──再び、史絵の「祈り」は実る。

「はあ!?くそ、やめ──」


 ばちん!!…………クイーンビーの、舌から顎にかけての肉が、はじけ飛んだ。ばしゅっ!口から、そして抉られた穴から、勢い良く血が噴き出す。声にならない咆哮が、4階旧書庫前を埋め尽くす。

「ッッ~~~~~~~!!!!」


 もうクイーンビーは、甲高い悲鳴を上げることも叶わない。舌と顎に大きな穴が開き、口の中は激痛でまみれているのだから。丸見えの肉。穴から大量の血が溢れ、そのまま首を滝のように走り、一瞬で着ていた白いシャツを真っ赤に染めた。がしゃ……崩れ落ち、膝を廊下につける。

 それを見て、史絵は非常にグロテスクな気分になった。

「(あああ、自分を守るためといえ、人間に、一生残る傷をつけてしまった……!!)」

 自覚した自分に気持ち悪くなり、史絵もまたその場でへたり込み、そして…………吐いてしまった。

「おあ、おえええええ……!!」


 階段の上で吐かれた史絵の吐瀉(としゃ)(ぶつ)と、こぼした具の無い味噌汁が、階段の上から下へ流れてゆく。そして廊下に大量にある、あのクイーンビーの涙や血についにたどり着く。複数の液体は混ざり合い、一層不気味な何かになった。

……カオスそのものでしかない。


「せ、先生呼びにいこう!」

「うあっ、う…うん!」

 どうやら、取り巻きが職員室に先生を呼びに行ったらしい。吐き切ったゲロを拭いながら、史絵は、廊下を走って職員室に続く階段へと向かった取り巻きギャル2人を、見届けた。


「はあ、流石にこれで、おえ……いじめも止むかな。報復も、もう無理だろう」



……



 こうして、いじめ問題は解決した。リーダー格があんな大怪我をしたのだから。取り巻きたちも戦意喪失している。脅威は根幹から駆除するのが最も良い。


 あの後駆けつけた教師たちによって、手から虹を出すギャル・クイーンビーはどこかへ運ばれていった。病院に担ぎ込まれたのだろう。……でなきゃ大量出血で死ぬだろうし。


 一方で史絵も保健室に運ばれた。ゲロまみれになりながら。史絵は、目の前で同級生のあのようなシーンを見てしまったということで、先生たちは「この子も精神的苦痛を負ったかもしれない」と考えたわけだ。……それは間違いではない。実際、あんなグロいシーンを見て、史絵は不快で吐いたわけなのだから。


 今、史絵は保健室のベッドでゴロンと寝転がっている。


 横を向く。どうも気分が悪いときに仰向けで寝るのは良くないらしい。ゲロを吐きそうになったとき、仰向けだと気道が吐瀉物で塞がり窒息しかねない。だから横を向く。

 大きな窓に、レモン色のカーテンがある。そこからカーテンによって()された鈍い光がここに届いている。その向こうから、あまり珍しくもない鳥の鳴き声が聞こえた。道を歩いてるとよく聞こえるやつだ。でも、あの鳥はなんて名前なんだろう。

「(……ああ、図書館に行きたい。まだ、知らないことがたくさんある。早く、“祈り”に関する本を読まなければ。私は、私が何者かさえもまだ知らない)」


 金曜日が…今日という日がもう半分終わった。明日は土曜日、明後日は日曜日。史絵は特殊で未知数な人間で、「祈り」が毎週変化する。史絵の「祈り」が変わるまで、あと2日と数時間。


 結局、その日はずっと保健室にいた。1時間の睡眠はあっという間だった。

「(眼鏡……)」

 枕の隣に、いつの間にか眼鏡がずり落ちていた。起きたとき、保健室の先生から「しばらくしたらお父さんが迎えに来る」ことを伝えられた。教師たちが連絡したのだろう。


 6限目が始まって少ししたくらいで、史絵の父がやって来た。たくさん汗をかいている。着ていた白いシャツは限界まで捲られていた。脇に黒いスーツを抱えている。ここまで走ってきたのだろう。

「……仕事、大丈夫だったの?父さん」

「自分の心配をしなさい!……こっちは大丈夫だよ。史絵は、今、体調はどこか悪いか?」

「あ、ごめん……ううん、私も大丈夫」


 帰り道、2人は話すこともなく気まずい空気になっていた。いや、聞きたいことや話すことは沢山あった。しかし父親は、傷心した娘を気遣ってだろう、あまり核心に近づこうとしなかった。やっと開いた口からは、当たり障りのない言葉しか出なかった。

「……学校で、他に、何か困っていることはないか?」

「え?ああ、特に、無いよ」

「そうか……」


「……」

「……」

「……」


「……か、仮にだけどな?その、史絵がいじめに巻き込まれているとか、そういったことはないだろうか?2年になって、環境も新しくなったし、その──」

 父は、史絵の性質のことを心配している。中学や高校で、「祈り」をまだ持たない生徒がいじめの対象にされやすいことを知っている。毎週「祈り」が変化する史絵は、学校では「私はまだ“祈り”を持っていません」と言うほかないことを知っている。史絵は、やはり他の人に比べていじめの対象になる可能性が高いのだ。父親は、史絵が中学生になったときからずっとそのことを心配していた。

 そして、そのことを娘は、史絵は知っていた。

「……あはは、心配しすぎ。そんなわけないでしょ。仮にそんなことになってたら、普通に父さんに相談してるよ」

「そ、そうか…!そうだよな!」


「(それに、私だってただやられるだけは嫌だ。降りかかる災難に、こちらはただ両手をこすり合わせ待つのは嫌だ。こっちだってせめて……)」


火粉(ひのこ)を払う。


息を吸う。




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