犬計二匹人間一人 中/ツガル
両親はこの田舎を「ベッドタウン」として利用する数少ない住民だ。今は夜8時。帰ってくるまであと1時間と半分ほどある。
「あーー……」
まあ、考えても仕方ない……わけが絶対ないんだけど、このときなぜか手放しに窓を開けた。招き入れてしまった……化け熊を。
がらら。のそ、のそ。
「(あ、ちゃんと靴を脱いだ)」
化け熊が格子を跨ごうとして「スリッパ履いた方がいい?」と尋ねてきたので「や、土足じゃないなら何でも…」と返す。むぅわと蒸し暑い空気が部屋になだれ込む。と一緒に、化け熊は身を乗り出し、その全てを完全にこの部屋に入れた。
「本当に人間、だったのか……いや、だったんですね」
カッチャ。メガネを上げた。化け熊が。
ツガルが化け熊を家に招き入れて良いとしたのには根拠がある。まず、化け熊が本物の獣ではなく、噂通りに人間だったからだ。人間の顔、人間の体躯、人間の服。それに人間の中でも理性的だった。……身を覆う黒い毛を抜きに考えるとおそらく細身だったし、服は無地の地味なやつだったし、眼鏡をかけているからだ。眼鏡を、かけているからだ。
「はい。人間です」
「えーーその、あなたが“化け熊”、ですか?」
「?熊…?いえ、だから人間」
当然黒き剛毛を除いてだが、見た目はどこにでもいる中年男性だった。いやここでは少し珍しいか。というのも毛に覆われた身を想像する限り細身だからだ。分厚い眼鏡と、顔から仮定する年齢に対してやや髪が少ない。都会の方のサラリーマンといったカンジだ。だから、第一次産業・第二次産業従事者の多いここらでは少し珍しい。
「あ、その。あだ名というか。ここらで最近話題になっている存在が、あなたなんじゃないかと。黒い毛に覆われた大型の獣、それを“化け熊”と呼んでるんです。で最近、正体は“祈り”で獣に化けた人間なのでは、と言われてて……」
待て、そうだとしたらなんで自分はそんな化物を家に招き入れてんだ?と思って少し冷静さと焦りを取り戻す。そして自分を納得させるための訳を無から生み出す。この人が化け熊なわけないじゃないか、こんな虫も殺せなさそうな……仮に化け熊だとしても、他人の飼い犬を2匹も殺したはずがない。そう思わせるほど、優しそうな顔なのだから。
「そう、噂では犬を二匹……」
殺した、とは言えない。続きの言葉を決めあぐねていると、化け熊は手をぴくりと震わせた。ツガルはしまった、と思ったがもう遅い。化け熊を家に招き入れたのに好奇心が関与していないとは言えない。恨み切れないが、今から化け熊に自分が殺されるとしたらそれは自分の好奇心にも悪い要因がある。
「ひッ」
手をクロスさせ、せめてものガードをとる。が、牙のような爪は振ってこなかった。ほっそり目を開けると、ただわなわな震えているだけの化け熊がいた。
化け熊の声が低く、唸るようだった。
「犬。そうか、俺の今の姿こそが化け熊。そして化け熊が犬を殺したことになっていると……」
「……違うんですか」
「違う!!」
大声にびくりとする。
「犬を殺したのは俺じゃない!みんなの目撃した化け熊とやらは俺だろうが、俺が直接犬を喰うところを見たわけではないだろう」
「喰う?では、本当の犬殺しの犯人は、喰い殺すのですか」
「そうだ」
化け熊の口調が強いものになっていることに気付く。
「俺は、そいつのことを犬喰と呼んでいる」
「そいつが本当の、犬殺しの犯人だと」
「そう」
この田舎町には今、二匹の化物がいることになる。ひとつは犬を殺した犬喰、もうひとつが自分の目の前のこいつだ、
「俺は……まあ。もうそう呼ばれているのならそうでいいか。化熊」
化熊。
「犬喰を追っている」
犬喰を追うもうひとつの化物。
「犬喰は熊じゃない」
「では何ですか」
「狼。化けオオカミの犬喰、と呼ぶのが正しいだろう」
「オオカミって犬を喰うんですか」
「さあ。あいつは喰った。だから俺が殺す」
「なぜあなたが……その、化熊さんが」
「喰われたのは俺の飼っていた犬だったから」
あっ、と声を上げてしまう。しかしうろたえるツガルには目もくれず、化熊は部屋を歩き回る。うろうろとして、ぴたりと止まった。ツガルのベッドから何かを拾い上げた。何だ……?と覗き込もうとして、止まる。
「(って、ベッドの上に置いてあったものなんかひとつしかないじゃないか!)」
骨だ。
「じゃあ、もう出ていくから。邪魔したな」
がらら。閉じた窓が再び開く。暑い夜が吹く。
「まっ、待ってください!その骨はやっぱり……」
「……ああ、犬喰に殺された俺の犬だったもの」
分かってしまう。化熊は、骨を使って犬喰をおびき出そうとしているらしい。そして戦うつもりなのか。
「話を聞かせてほしいです」
例えば「正義」に由来するような、そんな大した理由はなかった。ほとんど興味本位だった。だから「興味で頭を突っ込むような問題なんかじゃない」と言われたら素直に引き下がろうとした。しかし意外なことに化熊は
「まあ、いいか。別に、どうやったって君に危害が及ぶわけでもない」
と言った。
「と言ってもそんなに話すことがあるわけではない」
話は短く済ませるつもりらしく、立ったままだ。
「俺は元々この町出身で。町の北の方の高校から、外の大学に進学した」
北の高校は町に二つしかない高校のうち偏差値の高い方だ。
「それから大学、院進、就職しずっと外で暮らしていた。が父が亡くなったことを機に母の傍にいることにしようとまた戻ってきた。丁度、大学の同級生から貰った子犬と共に。母は存外元気だったけど とにかく一緒に住むことになった」
犬が登場したことにツガルは反応を大きくする。これから殺されることが分かっている者の登場は、思ったより気分の悪いものだった。
「母も犬が無理という人ではなかったし、そのままこっちに連れてきたんだな。それが、犬喰に喰い殺された。半年前」
ぎ、と化熊の口が結ばれた。余計なことでこの話を長引かせたくないのだと、唯一の観客であるツガルにもひしひしと伝わる。話してくれたことに礼を言おうと無意識に姿勢を正すが、化熊は意外にもまた口を開いた。
「俺が見つけたときには、もう四肢と胴は繋がって……いや、それどころかどの肉が体のどこだったのか分からないほどぐちゃぐちゃになっていた。ほとんどは綺麗にねぶられ白い骨になっていた。すぐ駆けつけ追い払おうとすると、残っていた、いくつかの、まだ肉の付いた骨を咥え駆けていった」
化熊はすべての指をがちゃがちゃ動かして、何かをあさるジェスチャーを見せた。そこには何もないが、ツガルには骨を払い何かを探す様に見えた。
「血で汚れた、本来白いスカーフが落ちていた。首輪より負担がかからないかと思ってあの子に巻いていたものだ」
化熊は「だから殺す」と言い放ち、しばらく黙った。骨を握る手が震えている。なぜ骨を持っているのかについても聞きたく思う。なぜ、大切な遺骨を外に落としたのか。家に丁寧に保存していそうなものだ。
「学校でうわさされる原因ともなったのは、二匹目のためだろう……」
化熊の言葉に、こくりとうなづく。二匹目、という被害。それは最近のことだった。それまでは言ってしまえば犬が一匹殺されてしまったのみだったので、しばらくして人々も騒がなくなったのだ。忘れていたのだ。なにも、人間が殺されたわけではない。そう思っていたのだ。そう思っていたことさえ忘れるほどに。
薄い記憶の危機管理の忘却曲線を底線が迎える前に、被害が出た。それが二匹目であり、人々に化け熊──正体は化けオオカミの犬喰だが──を思い出させたきっかけであった。
「あの子のことがあった4か月とすこし後、今から3週間ほど前に、二匹目の被害が出た。後から話を聞いたが、あの子と違い、二匹目はほとんど遺体を食べられなかった」
たしか、そうだったか。自分自身にも確認するように、ツガルはうなづく。
「だがあれは犬喰の仕業だ。正面から喉を抉られていた。うちの子をやった方法と同じだ、顔から胴にかけては俺が駆け付けたとき既に食べつくされていたのに、あの子の喉付近の骨だけは見つからなかったからだ」
どちらも喉から殺されている。
「一撃目で喉を骨ごと喰い千切り、文字通り骨ごと、喰った……」
「そうだ。犬喰に違いない」
初撃に限定された、骨をも噛み砕くほどの咬合力。何よりの根拠だ。二匹の犬は、同じ……犬喰に殺されている。化熊はそう考えているようだった。
化熊は、はじめて、それまで強く握っていた骨を顔の前にもってきて見せた。なるほどこれはやっぱり肋骨だった。まだ肉の残っている骨は持っていかれ、喉を除いて頭から胴は全て食べ散らかされ、そこの骨のみが残った。綺麗に残された箇所を考えると、肋骨の一本だと考えるのが正しいだろう。想像が具体を帯びたようで、さっきまでより更にすこし気分が悪くなってきた。
「で、でも二匹目の子はほとんど、死…あ いや、遺体が残された状態だったんですよね。なんで…」
「……最初、俺はこの子の骨を全て庭に埋めて墓を作ってやった」
その言い草からして「今はもうそうしていない」「ある日からしなくなった」かのようだ。そして実際にそうだった。
「しかし犬喰に荒らされた。墓を作った初日の夜に、俺は持っていた遺骨の三分の二を盗られた。なぜ盗んだか、残された骨にべたべた付着していた大量の犬喰の唾液から、すぐに分かった……」
拍を空けず、
「うまかったからだ」
と化熊は言った。ほとんど、叫びだった。
「うちの子をうめえうめえと喰ったに足らず、その残香さえ喰べ尽くそうとしている。そして、あの子に比べれば、二匹目の子は……口に合わなかったのだろう。犬喰の臭い口に」
まさか、だからせっかく仕留めた獲物を残したと。二匹目の肉よりも、一匹目……化熊の飼い犬の骨の方を美味に思い、好んだと。そんなこと、獣がするのか。彼の妄想、思い込みではないのか。……思い込みは、最も典型的な狂人のタイプだ。
「例えばシャチは、仕留めたサメの肝臓のみを食べて残りを捨てることがあるらしい。獣にも偏食はいる。犬喰もまた、その偏食のために、二匹目をほとんど残して去ったんだろう」
「それは論理的な考えですか……」
「いや感情的だ。復讐鬼の、感情でしかない」
化熊はきっぱりと答えてみせた。その瞬間、彼が妄想型狂人なんてチャチなものでなく、もはや怪人なのだと分かった。
「化熊さんは、残された、自分の飼い犬の遺体を餌に、犬喰をおびき出し、」
殺そうとしている、と言う前に化熊は
「正解だ」
と答えた。
道端に落ちていた骨は、犬喰を誘い出すためのものだった。
「犬喰を殺すまで、あの子の墓が作れない」
「じゃあ、今度こそ。邪魔した」
「はい。さようなら、その……お気をつけて」
「ありがとう」
窓の格子に足をかけて立つ化熊を、部屋の扉に背をもたれさせ眺める。梅雨と夏の間の夜が窓からひっきりなしに走ってくる。びゅる、とひと際強い夜が吹き、目を開けると化熊は消えていた。がらら。かちゃ。窓をしめる。目を閉じる。真っ白な骨を咥えた獣が、夜を走る姿が、まぶたの裏に見えた。




