『火粉を払う、息を吸う 16』 史絵
雨上がりは、風が強くなることもある。「~ということもある」ということは、そうでないこともあるというわけで、つまりどうとでも言えるのではないか。だから今強い風が吹いているのは、雨が上がったことに連動しているかは分からない。
「逃げたってこともないと思うんだが」
咲がぼつりと、「漏らす」と表現するにはやや大きな声で言った。当然、そこに転がっている、両手と胴、両の足が縫合によって拘束されている男にも聞こえたらしい。男は、変わらず目を充血させていた。
「なぜそう言える?」
「お前に聞いてないんだよ」
咲の否定的発言を無視して男はつづける。
「俺とお前の戦いが始まるとき、史絵ちゃんは、戦いの場から離れていいか尋ねていた。戦いを遠くから見ていたのなら、俺のこの状態……つまりお前の勝利シーンを見て、出てくるだろ」
「べらべらと、」
「つまり逃げたんだよ、史絵ちゃんは」
「うーん。やっぱりそうかな……」
さて、ここでうんうん唸っていてもどうもならない。では史絵を探しに行くか、と考える。この血まなこの男のように、組織からの刺客が林に潜んでいる可能性がある。というか可能性が、高い。この気づきやすいリスクに気づけば、林を奔走して逃亡を謀ろうなどとは考えないはずなのだが。史絵は、はたしてどうしただろうか。
「やることの整理だ。まず1つ、コイツの拘束……達成。2つめ、史絵を探し出して保護。3つめ、車まで戻ってあのおばさんから発信機を取り外す」
「……」
急に黙ってしまった男を見て、思い出す。咲は、男の靴に手を伸ばし、汚いものでも触るように、つまむようにして靴を脱がした。
「そうだ、そうだ。お前の“祈り”の、簡略化手順は、スミレの押し花を足で踏む だったな。戦ってる最中は、ノーモーションで“祈り”を実らせているように見えた。いくら簡略化した後とはいえ、そんなことはありえない。つまり私が確認できなかっただけで、スミレの押し花は踏んでいた」
左の靴の中を見て、ぽいと放り捨てる。右の靴をひっぺがし、今度は中を確認することなく、底を上にする。足を突っ込む穴から、ラミネート加工されたスミレの押し花がひらひらと舞い落ちる。
「こういうことかよ。一応、処分しておこう」
千切ろうとしたが、ラミネート加工がかなり頑丈で、どうやっても千切れない。仕方なくラムネ菓子を飲み込み、押し花は男の頭皮に縫合されることになった。
「じゃあ、さよなら。」
頭にぐちゃぐちゃになったスミレの押し花のラミネートを乗せた、侮辱的恰好の男を放っておく。やることが2つもあるのだ。その2つを終えたら、次はもっとある。やることが沢山ある。
……
史絵は、よだれでべちゃべちゃになった小さな土団子を、大切に左の拳で包む。結果論だが、ここまでは、できる最適解を引き続けてきたと思う。これからどうしようか。思考の放棄だけは、やめておきたい。
「下手に逃げたら、林に潜んでいるかもしれない他の刺客に殺されちゃう、かなあ」
と言った通り、史絵は逃げたわけではなかった。逃げる気もない。危ないから。
というわけで、史絵は結構、あの2人の戦いから近いところにいた。咲のことを信用したわけではないが、この場で味方めいた人間は、強いて挙げるなら咲くらいだからだ。人間以外含む味方なら、圧倒的にこの小さくなったモクラなのだが。ともかく、助けを叫べば咲に聞こえる距離にいることにしていた。
「お、いたいた」
自分より年上の女性の声が聞こえた。振り返ると、咲の姿を確認できた。特に驚くこともない。つまり、咲があの血まなこに勝利したのだろう。そして自分のことを探しにきた咲が、すぐに自分を見つけた。「逃げてなくてよかった ここで私から離れられると危ないからなー」と言いながら近づいてくる。
咲は体のあちこちに傷があった。唇はぱっくり裂けたまま。手は、何かに強くぶつけたように腫れている。服の腹付近から、ジーンズの左腿にかけて無数の穴が開いている。蓮の花托のようだ。そこから垂れたらしい血が固まって、赤黒い垂れ幕が描かれている。短いながらも激戦が、あったのだろう。
「咲さん」
「とんだ邪魔が入ったな。あの男は全身を縫合して拘束しといた。結構笑える姿してる。見るか?」
咲はふざけたことを言っている、と史絵はとっさに思ったが、もしかしたら遠回しに「あくまで拘束しただけで殺していない 疑うなら見て確かめればいい」と伝えたかったのかもしれない、と、すぐ考えを改めた。「私は人を殺すような人間ではないから 信用してくれ」と言いたいのかもしれない。
「見ません」
それはそれとして、結構笑える姿になった血まなこの男を見たい気持ちなど、一切無い。史絵は、動物園に行っても檻越しの虎を恐れて近寄れないタイプだ。
「ともかくあの男の例から確定したように、お前は狙われている。宗教がらみでな。私はそこの宗教の、宗教2世だ。つまり……望まぬ信徒、だ」
史絵は、聞きなれない「宗教2世」という言葉が引っかかっていた。どういう意味か尋ねようとしたが、咲が話し続けるためできなかった。
「お前のことを哀れに思い、個人的信念から、お前を助けることにした」
なんと強引な人なのだろう。そして、助けてくれるという言葉は信用していいのか。迷っている。揺れている。もう自分が今、誰かに助けてほしいと懇願すべき困った状況に置かれていることは、認めざるを得ない。宗教組織にその身を狙われているようなのだから。だけどはたして、咲は本当に助けてくれるのだろうか。
左手の中に握っている、よだれまみれの土団子が、うぞうぞ動いている。やけに活発だ。もしかしたら、まくらとモクラ本体のいるあちらで、何か動きがあったのかもしれない。動きがあった……となれば、それは十中八九、まくらによる警察への通報だ。そうすればここに警察がやって来るのも時間の問題になる。咲に、伝えるべきだろうか。
安牌は……「咲に伝えず、警察の到着・保護を待つ」だ。か弱き少女である自分が証言さえすれば、車の中のボーダー服おばさんも、缶ジュースばら撒き血まなこ男も逮捕 一直線である。……ただ、そのときは恐らく、咲も一緒に警察に連行されることになる。そうなれば、宗教組織と自分の関係を教えてくれる人間はもう登場しないだろう。すると、最終的に自分がどうなってしまうのかは想像がつかない。……やはり、咲に伝えて、一緒にどこかへ逃げるか。
……
車を止めたところには、思ったよりも短い時間で着いた。車を止めたところも、咲と血まなこが戦った場所も、林全体で見れば入口付近のようなものだった。それでも木は沢山並んでいるため、外からは見えづらいだろう。
自分が数十分前まで座っていた車。中をのぞくと、変わらずあのボーダー服のおばさんが拘束されたままで前部座席の背もたれに顔をうずくめている。唇あたりの顔が、背もたれに縫合されているのだ。また両手同士も縫合されていて、大きく動かせない。事情を知らなければ、ボーダー服おばさんの様子は、前部座席に熱いキスをしながら膝立ちしている、背中の後ろで手を縛られた囚人にしか見えない。意味不明だ。
咲が、乱暴に後部右側の扉を開ける。
「めんどうクセーことしやがって」
なんのためらいもなく、咲はおばさんのボーダー服の中に手を突っ込んで、ごそごそまさぐりはじめた。不思議な光景だ。と眺めていたら、「おい」と声がかかる。
「史絵、お前も探してくれ。発信機、このおばさんに付けられてるらしいからな。このままだと、この林にうじゃうじゃ刺客がやって来るかもしれない。すると、マズイかも」
急に「発信機」という言葉が咲の口から出たので、一瞬モクラのことがバレたのかと、史絵は驚き肩を上げてしまった。落ち着け、咲が言っているのは、宗教組織がボーダーおばさんに付けた発信機についてだ。……咲は、史絵の些細な動揺的反応に気付いていない様子で続ける。
史絵は、ボーダーおばさんのズボンをなぞるように触る。発信機らしきものは見つからない。咲もまだ見つけていないようで、ボーダーおばさんから脱がした靴を入念にほじっていた。
「明日が、史絵誘拐の決行日で、このおばさんと、私が実行役だった。“祈り”が……能力が最適だったからな」
史絵は、ドラッグストアでボーダーおばさんがしかけてきた、相手の身体の一部から感覚を奪うような攻撃を思い出した。確かに誘拐にはピッタリの能力だ。そして咲の、縫合による拘束。麻痺と縫合。最強誘拐ツーマンセルというわけだ。
「ただ先走りグセのあるこいつは1日先倒しで勝手に行動しやがった。私にとっても想定外だった。おかげで、急いでお前を助けに今日駆けつけたわけだ」
「……」
「しかし組織にとっては、こいつの先走りグセも想定済みだったわけか。勝手な行動をされてもいいように、あらかじめ発信機が付けられていた……そんなとこか?」
考えを話さずにはいられないタチなのだろうか、咲は、発信機を探る手を止めないままべらべら話す。しかし発信機は見つからない。
「おい、発信機なんかなくねえか!?服にも靴にも絶対にねえ!ズボンにもなかったよな?」
「は、はい」
「……身体に埋め込まれてる、などは……いやまさか……いやあそこならやりかねん……いややるか?」
悠長にボーダーおばさんの体を触っている場合ではない。いつ、このおばさんに付けられているらしい発信機を目印に、組織の刺客がやって来るとも知れない。
「クソっ!」
焦りを露呈し、咲はそのなめらかな銀の髪をぼりぼりと掻く。馬の尾のような一束が激しく揺れ、一瞬銀の扇子を開いてまた閉じたように見えた。
「あいつのところに戻って、問いただす!」
咲の目線に従い、史絵は座る。さっきまで自分が縫合されていた席に座る。咲の言う「あいつ」とは、ボーダーおばさんの発信機のことを教えてきた、血まなこのことだろう。エンジンがかかる。咲がハンドルを回すのに連動して車体が曲がり、アクセルに連動して走り出す。
……
優しくブレーキがかけられたと思ったら、もう運転席に咲は座っていなかった。血まなこのいるところに来たやいなや、咲は乱暴に扉を開けて飛び出していった。すぐ、寝転がっている血まなこに、馬乗りになる。車内で、座席シートにキスしたままのボーダーおばさんの隣にいてもいやなので、咲を追って史絵も車から出る。
咲によって全身を縫合され「結構笑える姿してる」という評価の下された、血まなこ。確かに結構笑える姿をしている。頭に、ぐちゃぐちゃになった押し花のしおりのようなものが縫合されていて、史絵はなぜだろうと思った。数秒考えて、もしかしたら血まなこの「祈り」に関するものだろうと思い至る。
それで、血まなこに馬乗りになって咲がなにをするかと思ったら、なんと血まなこのズボンをくるくると捲り上げた。
「あのおばさんに発信機なんか見つかんねえんだけど!どこだよ!」
と叫び、血まなこのすね毛を思い切り剥がした。素手で。
「ぎィヤァァ!!」
ぶちっ、ぶちっ。この野蛮な動作が5回くらい繰り返されたところで……つまり結構早い段階で、血まなこは「分かった!分かった!」と叫んだ。
「なにが分かったんだ?」
咲が恐ろしい声でそう言った。血まなこは、怒ったような声で返す。
「発信機だ!発信機、あのおばさんに発信機付いてるってのは嘘だよ!」
「では、なぜ私がここを通るとバレたんだ?」
「……から」
さっきまで怒声めいた口調だったのに、血まなこは声を急に小さくした。咲が「なんて?」と聞き返す。すると血まなこは、ギリギリ聞こえるくらいまでトーンを上げて、こう言った。
「尾行してたから……。発信機なんて無い。俺が咲の後を尾行していた」
「……」
もう何も聞かれていないのに、血まなこは続ける。声は徐々に大きくなっていく。興奮状態にあるらしい。
「今風に言えば、俺は咲のストーカーだったのだ。今日も、ストーキング活動の最中だったわけだな。……咲、お前にはそのうち俺の彼女になってほしかったのに」
「……」
「……まさか組織の裏切りを考えていたのは驚きだった。が、そうなれば組織は咲も惨たらしく殺してしまうに違いない。組織を裏切らないほうがいい、そして俺の彼女になってくれ、と説得したかったが、お前は意志を曲げてくれないだろう」
「……」
「となるとやはり、組織はお前を惨たらしく殺す。惨たらしくだぞ!?だから、そうなってしまう前にせめて俺の手で殺ッ──」
咲が思い切り、血まなこの股間のあたりを殴っていた。パンチというよりは、握った拳をハンマーみたく振り下ろすかたちだ。
気絶という形で、血まなこは完全に沈黙してしまった。咲もしばらく黙った。棒のように立っている。次に口を開いたときは、史絵に向かって言ったのか独り言なのか分からないような口調で、
「…………あのおばさんに発信機はないと分かり、ひと安心か。さあ、史絵、行こうか」
と言った。
やはり独り言のように聞こえるが、台詞内に「史絵」とメンションされているのだから、もしかしたら史絵に向かって言ったのかもしれない。一応「はい」と返事しておく。
なぜかこのタイミングで、咲を信用するように心が決まった。なぜだろう。なぜか分からないが、史絵は、
「あの。多分、もうすぐここに警察が来ると思います。多分、私の友人が通報してくれました」
と明かした。
史絵の急な打ち明けに驚いたのか、あるいは血まなこが自身のストーカーだと判明したショックでまだ呆けているのか、咲は黙って聞いていた。
「ここに警察が来たら、あの血まなこ男とボーダーおばさんはとりあえず警察に連れてかれると思います。けど咲さんも連れてかれると思います、怪しいので」
「……」
史絵は、警察による保護よりも、咲から宗教組織について教えてもらうことにしたのだ。
「ここから離れましょう。私も、まだ咲さんに聞きたいことがたくさんあります」
「……」
無反応。やはりストーカーへのショックから呆けていたのか。と見ていると、ふいに口を開き、はっきり史絵に顔を向けた。
「警察がここに来るのか」
「は、はい」
「そうか……」
咲はうろうろあたりを歩き始めた。そして、戦いのとき血まなこが使っていたらしいナイフの一本を拾い上げた。
「このキモい男を、全ての元凶として、犯罪者として仕立て上げよう。ストーカーは警察送りだ」
意味不明なことを言いながら、ナイフ片手に器用に、ジーンズの後ろポケットからプラスチック瓶を取り出し、ラムネ菓子を食べた。そして、気絶している血まなこの手に、ナイフを握らせるかたちで……縫合した。縫合はなんとも便利な「祈り」だ、と史絵はぼんやり考えた。
「このキモ男を、あそこの車内におばさんを監禁した犯罪者だということにする。車内で息を荒くしたおばさん、その近くで、ナイフを握って傷だらけの充血キモ男……犯罪の現場の完成だ」
そう言って、咲は林の奥に向かって歩き始めた。史絵もその後に続くように歩く。どんどん、車とおばさんと血まなこの男のところから離れてゆく。
林が静かなこともあって、遠くから……本当に遠くからほんの小さな音で、パトカーのサイレンが聞こえた気がする。
ボーダーおばさんがどういう扱いを署で受けるかは分からないが、血まなこの男がどういう罪状になるかはなんとなく予想がついた。




