『火粉を払う、息を吸う 12』 史絵
く、と力を入れても手はシートから離れる気配がない。あまりこうした経験をした人間は少ないと思うが、史絵は今、車のシートと左手を縫合されている。小学校5年と6年の家庭科の、裁縫の授業で習った……針を先頭にした糸が布と布の間を何度も貫通してまた裏面から戻って来て、最後にはお団子のように糸を結んで、針を抜くと、布と布はピッタリとくっつく。そこには布と布と糸しかない。そんなイメージが、強烈なイメージが、車のシートと自身の左手のひらの間に存在している。ここで重要になってくるのは、あくまで縫い付けられているのは「左手」であり「左手の表面皮膚」ではないということだ。皮膚と肉の狭間みたいなところに糸が走っているのではなく、肉そのものに糸が通っており、そのままシートの深部に縫い付けられている。だから皮膚ごとべりべりとシーツから引きはがすこともできないだろう(できたとしても実行する勇気はないが)。想像していると、吐き気が実物となって胃からぼこぼこと湧いてくる。口の、身体の中が酸っぱい。
「(でも、痛みは無い)」
ということは、
「(これは間違いなく、あの銀髪のひとの“祈り”によるものだろうな。その効果は、物と物を縫合する。縫合そのもののみが効果であるために、現実で糸で縫っているわけではない。だから、針と糸が物質を貫通する際の、物理的な破壊は生まれていないのか。きっと、“祈り”が解除されれば、私の手にもシートにも、穴一つないんだろう)」
さっきから、心臓がどくどくしすぎて身体全体がぼこぼこしているかのような感覚が、なくなっている。つまりかなり落ち着いてきた。それはなぜか?もう既に、車内に閉じ込められてから5分以上は経過しているからである。
目隠しもされていない。上半身をひねれば窓から外の景色が見える。ここはどこだろう、どこを走っているのだろうか。まだそこまで遠くへは行けないと思うが、町にこんな道、こんな場所あっただろうか。前を向くとミラー越しに、あの銀髪の女性と目が合った。まだ大学生くらいに見えるが、もう運転免許を持っているのか、それとも持たずしてか、この車を運転しているのは彼女だ。話しかける勇気はない。なんせ、誘拐犯だぞ、私の。
「(う、手汗)」
胴体はかたくシートベルトで固定されており(これは拘束というより交通安全のためか?)、左手は言うまでもなくというかさっきから言っているように車のシートと縫合されている。それよりも最悪なのは右手で、私の右手は今、あのボーダーの中年女性に強く握られているのだ。自分のなのかこいつのなのか分からない手汗が、気持ち悪い。でも少しでも振りほどこうとする素振りをすると、より強く握られ、かなり痛い。
動かせるのは首より上と、股より下……つまり脚。それだけだ。人体を自然数で等分することはできないだろうが、だいたい身体の五分の三ほどの自由が奪われているといえる。その、不快さ、不安さ、たるや。
やはりシートベルトをしてくれたのには、拘束という意味以外にも、安全面があるのかもしれない。今信号のため止まったらしく、身体が軽く前にのめる。肩から袈裟のかたちでかけられたこのベルトがなければ、人間は車のブレーキを踏むたびに鼻の骨を砕いているかもしれなく、普段日常生活では隠されている「人体のもろさ」を再認識する。文明の発達はそのまま人間の発展を意味しているわけではない。馬車から自動車に乗るようになっても、人体は昔から変わらず簡単なことで壊れる。
前部座席から、今日に入ってからまだ聞いていない音がした。ざら、ざら。何かと想い、前にのめっている頭を持ち上げ覗いてみると、あの銀髪が何やら小さな瓶を振っている。瓶は片手にほとんどすっぽり収まるくらいに小さくて、青の半透明で、中から何かが飛び出て銀髪のもう片手に乗った。錠剤に見える。ラムネ菓子に見える。ラムネ菓子だろうか。
「(……そういえば、あの縫合が、“祈り”の実ったものであるとして……手順は?そうだ、手順を見ていない。いきなり車から現れ私の手に触れたと思ったら、いつの間にか私はシートと縫合されていた。“祈り”を実らせる手順、その一端さえ見ていない)」
残念ながら「祈り」に理論はない。だから、敵の「祈り」がどういった手順を経て実るのかを解析できたとて、現状を打開するヒントにはなりそうにもない。しかしそれはそれとして、史絵は気になってしかたがないのだ。銀髪の女の「祈り」に、どのような手順があったのか。
「(駐車場前に停車して降りるまでの間に、全ての手順を終えていたとしか考えられない、けど、そんなことできるんだろうか……)」
さっきから車内は静かだ。なにかだれか言ったら、声は、車内全域に一瞬で浸透する。
「あの、」
前部座席がぴくりと動いた。ハンドルを切っているとか、アクセルを踏んでいるとか、そういう「動いた」ではなく、ミラー越しにギョロリと銀髪のそいつの眼球が「動いた」。こちらを見ている。声は一切返ってこない。「なんだよ」くらい言ってくれることを期待していた。
まあ、いい。聞きたいことは聞いてみよう。
「そんなに短時間で手順を済ませれる“祈り”って、あるんですか?」
開口一番、敵の「祈り」について尋ねるとは。どうやら自分は、自分が思っている以上に「祈り」というものについて興味津々なのかもしれない。
「え、なに?」
ミラー越しに見える顔に、表情の動きは一切なかったが、たしかに返事をしてくれた。銀髪の運転手は今、明らかに史絵に返事をした。驚く。心底では「どうせ無視されてしまうか」と考えていたばかりに、まさか会話のラリーが始められそうだとは。
「あっ、その。さっき私の左手を車のシーツに縫ったのって、“祈り”……ですよね。あなたが車から降りてから私の左手をタッチするまでに、“祈り”を実らせる手順を踏んでいる様子は見えなかったので」
斜め上のミラーを通じて、銀髪と史絵は目が合っている。それを銀髪がまた正面に戻した。信号が青になったらしい。車を発進させる操作が始まる。操作しながら、銀髪は答えた。
「私が車を降りてからお前に接触するまでの間で、だと。そんな短い時間で手順が済む“祈り”なんざ、ねえよ。車内で長い長い手順を済ませていた可能性もあるだろ」
それもそうだ。だけど、“祈り”の手順は本当にランダムだ。どんな用意を必要とされ、どれだけの手順を要求されるかに、人間側の都合が考慮されている様子は微塵もない。偶然、“祈り”の手順は全て車を運転しながら片手間でできるものばかりだった、なんてことがあるだろうか。
「でも、」
どうしても納得できない史絵は、しつこく、さらに追及しようとその逆接の接続詞からまた質問をしようとした。それを、銀髪が遮るように言う。
「でも、手順を短くすることはできる。最初から短い手順で実る“祈り”なんざ、ない。でも、自分で短くすることはできる。“祈り”の簡略化だな、ただの」
それは、
「(それは、どういうことだろう)」
「(“祈り”は……自分で、手順を短くできるって、そう、言ったのだろうか。まさか)」
そんなの、どんな本にも載っていなかった。
ミラーの向こうで、銀髪の目が動いた。ほとんど分からない小さな動きで、史絵も見逃しそうになった。見逃さずに済んだのは、史絵がまじまじと銀髪の動きを観察している途中だったからだ。あいつの「祈り」の手順とその謎に迫るヒントを得ようと、一挙手一投足を観察していた。だから気づけた。銀髪は、ボーダーとアイコンタクトをしたのだろうか。
「……っ!」
いや、
「(ちがう)」
隣で右手を握ってくるボーダーの方を覗くと、ボーダーは、血走ったような目でミラーを睨んでいた。睨んで動かなかった。銀髪はすぐにフイッとミラーから目線を外し、運転に集中するように正面を向いたのだが、それでもボーダーはミラーを睨みつづけた。仲間同士のアイコンタクトには見えない。
雨はもう降っていない。長く続くタイプの雨だと思っていたのだが、通り雨でしかなかったのか。それとも、車が、雨の降っていないところまで走ってきたのか。空は一面灰色の雲に覆われているが、所々層の薄い所が太陽の光を濾して黄金に輝いている。
左手でハンドルを掴んだまま、銀髪は右手だけで器用にラムネ菓子の詰まったプラスチック瓶を取り出し、キュポンと蓋を飛ばした。車内のどこかに飛んでって、音もたてずにどこかに落ちた。「蓋、下に落ちちゃったけどいいのかな」と史絵が思った次の瞬間には、銀髪の右手に握られていた瓶は逆さまになっている。ラムネたちは下にきた出口に向かって一斉に自由落下をはじめ、銀髪の口の中にざりざりざりと入っていった。
ばり、ばり、ぼり、ぼり、ばり
「あなた──」
かくり。隣にいるボーダーが何か言った、言い始めようとしていた、かと思うと、車は急停止した。胸部より上が前へ飛び出しそうになる。眼鏡が落ちそうになる。急停止はやめてほしいものだ。
また信号にひっかかったのだろうか。「ひ~」と思いながら体をもとの姿勢にもどそうとして、目を開き、史絵は驚きの光景を見た。銀髪が、ボーダーの唇のあたりを触っていた。そしてこう言った。
「タッチ」
約、30分ぶりに聞いた言葉だ。
ぎゅん!ボーダーの唇、そして顔はやはり細い5本の糸に引っ張られ、前部座席の背もたれにめり込むように縫合された。
ぼり、ぼり、ぼり。
間髪入れずに、銀髪は右手左手を伸ばし、同時にボーダーの両腕に触れた。「タッチ」だ。ボーダーの両腕は、手錠をかけられたよりももっとひどくピッタリとくっ付き、縫合された。
ボーダーは前部座席と唇を既に縫い付けられているために、喋ることもできない様子で、「ん~~っ!!」と悶えている。
「(うわわわっ!どうなって──)」
状況が飲み込めず、驚きのあまり手を上げそうになる。そして実際に手はスンナリと上がり、人体の可動域の許すままに簡単に万歳できた。
「あ、あれっ」
右手も、左手も、自由だ。さっきまでボーダーに強く握られていた右手が解放されているのは分かる。でも左手は?
「おまえの左手の縫合は、解除しといたから」
びくりとしながら前を向く。銀髪と目が合う。……ほんとうだ。史絵の左手はもう、シーツとくっ付いていない。史絵にされていた縫合は解除されている。隣で、入れ替わるかのように、ボーダー柄の服を着た中年女性が、縫合によって拘束されている。
窓の外を見ると、いつの間にか林のようなところになっている。ここは、どこだ。窓の反対には拘束されたボーダー。ボーダー柄の服を着た中年女性、前部座席に縫い付けられた唇・顔面、閉じたジッパーのように縫い合わさった両腕……目に映っている風景が描写となって脳内にこだまする。
今、言葉を持てるのは、車内で史絵と銀髪のみということになる。
「こいつはもう動けない、絶対に」
「仲間……じゃないんですか」
「このボーダーのオバサンが、か。……仲間だと思ってねえよ、こーゆー愚か者のことなんてな」
「……」
「ボサッとすんな。降りるぞ。……なにがなんだか、って顔だな。安心しろ。私は、これから、このオバサンとその属する組織を裏切って、お前を助けにきたのだからな。是非、安心しろ」
「そ……んなこと言われても……」
なにが、なんだか。




