『火粉を払う、息を吸う 11』 史絵
雨にぬかるんでどろけそうな思考を立て直し、史絵は精一杯考えてみる。
「(誘拐!?でも、なんで私を?いや、それは後で考えればいい。それよりも、今はまだ根本的な解決が望める状況だと思いたい!今は、今の、この場を切り抜ける方法を考えよう!)」
「(そうだ、あのボーダーの女は、何かを呟いたあと、私の右足と舌の感覚を奪ったようだった。あれは“祈り”によるものか、それともまさか催眠術なのか)」
肩が引っ張られる。今度は何かと、眼球をぎょろつかせてみると、ボーダーの女が通学鞄を外そうとしていた。そういえば、両腕も動かしづらくなっている。全身の感覚が鈍くなっている。もうわけがわからないが、ボーダーの女は重たい通学鞄を先に車に放り込んだあとに、史絵を引きずり込む算段らしかった。
そうはさせるかと、史絵は重たい体を動かし、タックルする!……史絵は、ボーダーの女を巻き込んで駐車場の硬い地面に倒れこんだ。それを、まくらは少し離れているところからぷるぷる震えながら見守っていた。恐怖に声も出ないのだろう。
「い、…っふぁ…」
悲しそうに声を絞り出す史絵と対照的に、ボーダーの女は黙ったままだった。史絵は力の入らない腕を精一杯動かし、少し離れた通学鞄に手を伸ばす。ジーっ。ジッパーを開く。そして、それをボーダーの女にめがけて、思いっきりぶちまける!!ばさばさと、教科書やら筆箱やらが降り落ち、ボーダーの女の背中にどかどかと当たった。水を吸い込んだコンクリートに、それらが散らばる。全部、最近新しく買ったばかりの物たちなので、少し嫌な気持ちになった。
ともかくボーダーの女がひるんでいる。ふと、横から表情が見えた。そのまま目線を外してもよかったが、「私のようなこどもを誘拐しようとはどんな極悪人だ」と思うと気になってしまい、むしろ顔を近づけてしまった。すると、そいつは、なんとも、どうも普通の顔なのだった。極悪人にはとても見えない。そこらにいるおばさんってカンジだ。同時に不気味に思えるのは、罪の意識が全くなさそうなことだ。
「……」
なんでこんな表情で、こんなことができるんだろう。史絵は思考も感情も感覚も服もぐちゃぐちゃで、わずかの間、静止してしまった。次の瞬間、腹に衝撃が走るまでの間だ。
「うぐっ」
瞬間的な激痛の後、じわじわと鈍い痛みが同心円状に、身体に広がっていく。反射的に痛みの湧きどころを手で押さえようとしたが、やはり両腕は感覚の無いままなので、思うように動かない。
なにが起こったのか。見るとボーダーの女が、史絵の教科書類を振り払うために腕をぶんぶんと振り回しており、それが近くにいた史絵の腹部にヒットしたらしい。胸や頭に当たらなかっただけ、マシか……じくじくする下腹部を抑えることも出来ないまま、史絵はそう考えた。
「しっ、史絵!ボクはどう、すればいい……!?」
鼓膜を、まくらの震えた声が震わせた。外の、たたたたと振り続ける雨の音が邪魔だ。動かない舌を一生懸命動かし、返答する。
「ぬ あ、あ」
上手く発音できただろうか。……いや、どっからどうみても上手く発音できてはいない。だが、まくらには伝わった。n+aとaの音からなるもので、ここに散らばっているもの。まくらは心の中で、確認するように唱える。
「(な、あ。……なわ!……縄だ!そう、史絵の鞄から、なわとびがさっき落ちた!あれで、あのボーダーの服を着た女の人を、縛れば……!)」
そうだ、史絵の通学鞄からなわとびが落ちていた。これは、体育にいるとかでなくて、史絵が自身の「祈り」を調べるのに入れていたものだった。今週の「祈り」の手順に、なわとびが必要なのだ。だから、全くの偶然によるものだった。ともかくそれを使って、ボーダーの女を縛るべきだろう、今。「拘束」は、最も平和的な攻撃手段であり、最も確実な防護術といっていい。
だが まくらもまた、身体を動かせないでいた。こちらは、あのボーダー女の謎の術にあてられて感覚を奪われたから、というわけではない。まくらは、ただ恐怖のために動けずにいた。でもこれが当然の反応だ。むしろまくらは、勇気ある方だと言ってしまってもいいくらいだ。目の前で起こっている凶悪犯罪を前に、足をすくむことをまだこらえることができているからだ。
「ううぅぅぅ」
それにまくらも当然、状況はほとんど読み込めていない。まだ付き合いは長くないにせよ友人になってしまった史絵だ、助けたいに決まっているが、この場で起きていることは間違いなく、この世に生まれおちて以来一番の恐怖体験である。一刻も早く遠ざかりたい。葛藤に似た感情から発せられるうめき声が、雨に混ざる。
体の感覚を部分的に奪われた友人、そのそばで床に伏せ腕を振り回すボーダーのおばさん、散らばる教科書類、雨。状況は、まくらにとって経験したことのない混沌だった。最近いじめにあったりそれを撃退したりした史絵は、それを機にいくらかトラブルに対する耐性のようなものが生まれていたが、まくらはそうではない。人間とこんなに爆発的でぐしゃぐしゃの関わりを持ったことがない。つまり、こうしたトラブルに巻き込まれたことがなかった。当然といえば当然だが。
その普通の少女は、当然の権利を履行するように、震えるしかできなかった。
……
そんな中、まくらの鞄の方が今度は動きをみせた。……モクラだ。かなり大きな動きでもぞもぞしているが、主人は視界から伝達している恐怖に支配されて気づく気配がない。すると、ついにモクラはひとりでに、鞄側面のポケットから飛び出した。
「!!……モクラ!だ、だめ、今出てきたら」
まくらの声も届いているのか分からない。素早い動きで、濡れたコンクリートの上を走り回る。もぐらの形をしたものが二足歩行でたたたたと駆ける様子は奇妙だった。そしてモクラはたどり着く。なわとびの前に。
小さな体のモクラは、その更に小さな手で、なわとびの取っ手を抱きかかえる。それを見てまくらは、思いついたように口から漏らす。
「そのまま、そこの人……縛れたりする……?」
モクラはこくりとうなづき、次の瞬間にはぴょんぴょんと飛び跳ねたり、一層すばしこく走り回り始めた。それに合わせて赤いなわとびが残光のような軌道を描き、しゅるしゅると宙を走った。
……ボーダーの女の両の足首のあたりをきつく巻きつけ、かたく結んだ。さらにいつの間に抜き取ったのだろう、まくらの所持物であるセロハンテープのロールを片手にしており、それをビーーーッと長く引っ張って、今度はそれで両の手首までまとめてぐるぐる巻きにした。これにて、ボーダーの女の手と足から自由を奪った。セロハンテープを数重にして巻かれると、案外人間の力ではどうにもならないものだ。
なんと瞬く間に、不審者を拘束することに成功してしまった。
「すごい……」
行動を終えたモクラは、たたたと、主人であるまくらのもとに駆け寄る。ぴょんと高く飛び跳ねたので、慌ててまくらは両手を広げて平らに並べ、空中にモクラの飛び乗れる足場を作った。着地。
「モクラ、キミってこんなことができるんだ……」
「し、史絵……。大丈夫……?」
完全に拘束に成功したと分かっていても、そこに横たわっている不審者は怖かった。さっきから何も喋っていないのも怖い。だがそれでも、史絵を助けなくては。
おずおずと床に伏した二人のうち、史絵の方に近づく。すると突然史絵は、くるりと腕を一回だけ回転させ、膝をついて立った。
「え!?あれ!あ、立てるようになってる…喋れる!」
どうやらあの催眠術か「祈り」か分からない謎の攻撃は、そこまで長い効果があるわけではなかったらしく、史絵は奪われていた感覚たちを急速に取り戻していった。両腕と舌はすぐ不自由なく動かせるようになり、右足にも少しずつ力が入るようになってきた。
「は、ふう……」
反対に、安心しきったのか、まくらはその場で膝をゆっくりと落とし、床の汚れも気にせずにぺたりと座り込んだ。
史絵は念入りに、腕を回し、感覚が戻ったのを確認する。……どうやら完全に復活したらしい。表情には出せなかったが、心底安心した。もしあれが、一生ついてくるようなものだったらと思うと、ゾッとする。今さっき起こったことは完全に事件だったが、被害者にとって「事件」とは「事故」のように起こるものなのかもしれない。一瞬前まで平和そのものだった日常が崩れ、何かを失う、奪われる。幸い史絵は、今回のことで何も失わずに済んだが。
「……」
だが、これは単発で済む事件だろうか。こう考えると自分を物語の主人公かなんかのつもりか、ってカンジだが、史絵は妄想じみた被害の心配を止められないでいた。
「(終わってみれば、このボーダーの人がただの誘拐犯なのであれば、まだマシ。組織かなんかがいて、なんらかの目的で、これからも私を狙うなんてことがあれば……)」
少し考え、その線を消す。
「(いや、別に私はマフィアの娘だとか社長令嬢だとかということもない。家も金持ち……でもないと思うんだけどなあ。この前のいじめっ子が逆恨みで?それこそ、まさか。復讐代行なんて職業はフィクションの話だ)」
車の中を見回し、仲間らしきものはいないことを確認した。残ったのは、なわとびとセロハンテープで拘束された中年女性ひとりだけだ。
「ねえ史絵、この……ひと、どうするの?」
そう、一番目前の問題はそれである。
「私もこんなことはじめてだから…えーー。どうしよう」
警察に突き出そうか。でも、それで解決する問題だろうか。というかこの状況を他の誰かに見られてみろ。「中年の女性をフン縛っている二人の若者」……どうも私たちの方が悪者みたいに見える。正当防衛、なのに。
きょろきょろと見渡す。雨が降るだけで、道に人はひとりも見えない。ひとまず安心だが、ここは駐車場だ、いつだれが来るか分からない。
「あの、なんで私のこと、誘拐?しようとしたんですか?」
対話。それしかない。
「…………」
「あの。なんで私のこと誘拐しようとしたんですか」
「…………」
だが、それも応じる様子はなかった。ボーダーの中年女性は、ただ黙るばかりだ。別に、史絵とまくらが喋れないようにしているわけではない。そいつの状態を整理してみよう……
・なわとび縄で手足をキツめに縛られている
・数冊の教科書が当たる程度のダメージを背中に負っている
・史絵のタックルと転倒によるダメージを左腕に負っている
……そう、頭をぶつけたとかもない。意識もしっかりしている様子だ。なのに史絵の質問に答えないとなると、それはつまり、「意思」。意思してだんまりを決め込んでいるのだ。
表情を観察してみる。汗一つ、垂れていない。極めて冷静といったカンジだ。どころか、僅かに口角が上がっているようでもあった。なぜこの状況で笑顔でいられるのか。不気味だが、目をそらすわけにはいかない。なぜならこの世界には「祈り」というものがあるからだ。意味不明な手順で、意味不明な結果を出す……「祈り」というものが。ボーダーの女の「祈り」が判明していない以上、どんな些細な動きも見逃すことはできない。
「でもここでずっとこうしているわけにもいかないし、本当にどうしよう!」
まくらの顔をチラと見てみたが、「そんなのボクも知るわけない」という表情が伺えるだけだ。
「拷問」という言葉を知らないわけはなかったが、それはまだ日常に身を置く健全な若者としては「実行する」という発想の出ない概念だった。できればこの誘拐犯のたくらみを洗いざらい吐かせたいが、手段を選ばないほど荒んだ心を持ち合わせてはいない。史絵も、まくらも。
「……ドラッグストアに戻って、そこの店員さんに相談してみることにするよ。監視カメラなどがあれば、私たちを付け回すように動いていたこの人の不審な様子が記録されているはず。それで、警察を呼んでもらうことにするよ」
ちらりと、ボーダーの女の様子を見るが、やはり微動だにしない。表情すら不変。まるで息すらしていないようだった。胸部の規則的になされる僅かな浮き沈みを見ないと、息をしているかどうかも分からない。それほど、ボーダーの女は静かだった。
「それでだけど、まくら。この人の狙いは私らしい。これ以上巻き込まれる前に、まくらは帰ったほうがいいと思う」
「えっ、」
慌てた様子で、まくらは目を閉じ、ふるふると頭を小さく揺らした。
「だっ だめだよ。ボクも、残る……。理由は、……いろいろ、それらしいのがあるけど、それよりも、単純に心配だから。史絵が。」
史絵が言葉を返せないでいると、どこからか物音がした。敏感に体が反応する。ぎゅるんと、ふたりは上半身をひねって、音の方向を探す。
「まくら。今、何か」
「う、うん」
聞こえたような気がする。
それは、瞬間的なものでもなかった。どんどん近づいてくる!雨に混ざって、もっと人工的な音が!……ブ☐☐ロロロロロロ、……ダン!目前まできて、やっと分かった。車だ。車が、この駐車場にやってきた。いや、正確には、駐車場の入り口のすぐ前で止めた。最後の「ダン」という乾いた音は、あの小さな銀色の自動車の、ドアを開けた音だったのか。
身体から、イヤな汗がドッと噴き出した。さっきのボーダーの女との戦いで流し切ったと思ったが、まだ、まだまだ汗が流れるのか。汗が、悪寒が、動悸が、身体を巡る糸のようなものの緊張が、総称して、「不幸の連続」が、ふたりを襲おうとしていた。
「(まずい、中年女性をいたぶる若者ふたり、だと思われてしまう!……イヤ、すぐに通報ってこともないだろうか。駆けつけて、事情を話そう。このボーダーの人が私たちを襲おうとしたんです、って)」
脳内で文章が整ったので、あとはそれを伝えるだけだ、と勇んで足を一歩踏み出す、がそれより一瞬先に車から降りてきた人物の外見を認識し、足は止まってしまう。いや、知り合いなどだったということではない。車から降りてきた人物は、史絵の知り合いではなく、かといってまくらの知り合いでもないことはまくらのキョトンとした横顔から分かる。ただ見た目に少しインパクトがあった。
別に服装も普通だが、若い女性のようで、いや若い女性であることも何ら変なことではないのだが、ただ、ここ日本では珍しい、その車から降りてきた人は、白銀の長髪でポニーテールをしていた。それだけだ。そのちょっとインパクトの強いビジュアルに、史絵は一瞬足が止まっただけなのだ。考えてみれば、なんのことない。そういう人もいる。それより、弁解をせねば。
史絵は口を開く。
「あ、あの、ですね。これは──」
そして開いた口が続く言葉を紡ぐ前に、心にひっかかりがあるのに気づく。
「(あれ、そういえば、この、銀髪の人、こんな状況なのに、一切驚いてない。口角を下げて小さく開けた口。この表情は、逆に、何かに呆れているかのようで、)」
その間に、いつの間に、白銀の髪を一束にした、その女性は、つかつかとこちらに接近していた。近くで見て気づいたがモデルのように綺麗な顔立ちで身長も高い。涼しげなレモン色のシャツにダメージジーンズ。そして、透き通る色の肌。あ、それに実際スベスベしている。……スベスベ?
史絵は左手にスベスベした感じを覚えた。感覚の正体を見ようと、そっちに目を向けると、そこには銀髪の人の右手があった。
「──タッチ」
銀髪の人は、そう言った。
ビクッ。反射的に距離を取ろうと、史絵は後ろに足を引っ込める。そんな様子をもう見もせずに、まくらのことも見ずに、銀髪の人はそのまま歩く。いつの間にか手は離れていた。
「おい、何やってんだよ。勝手に行動すんな」
どうやらボーダーの服を着た中年女性に話しかけているようだった。
「(あいつの仲間!?)」
全身から針が飛び出るように、鳥肌が立つ。誘拐犯の仲間!──さっき教科書を詰め直したばかりの鞄を投げつけてやろうかと、背中に鞄を伸ばそうとして、手の違和感に気付く。
「いッ」
いたくはないが、何か、ピンと張っているカンジがする。見ると、左手のひらから、きらきらした糸のようなものが5本、垂れていた。さっきあの銀髪の人の手に触れた、左手から。史絵の左手から伸びる5本の糸は、一方向に向かっているようだ。その先を目で追うと、あの銀髪が降りた車の、ドアが開いた先に繋がっている。これは、なんだろう。
「え……あッ」
次の瞬間、ものすごく強い力がこの糸に発生した。ピィーーンと張り、史絵は、吸い込まれるように開いたドアの向こうに引っ張られる。
「わ、あ、あーーっ!!」
ばちん!
史絵の左手は、車のシートと、縫合されてしまった。
やはりそんな史絵には目もくれず、銀髪の若い女性は、ボーダーの中年女性を睨むばかりだった。
「お前みたいのがいると組織が腐るんだよ。これは私に与えられた仕事だったろうが。私の“祈り”が、一番適してんだからよ」
まくらは真っ白になった頭で、「この人はなんで女性なのに男みたいな口調なんだろう」とかさえも考える余裕はなかった。
「え、え、あ、あ、しえ、史絵……?」
ボーダーの中年女性の、身体をぐるぐる巻きにしていたなわとびをほどきながら、銀髪の若い女性は、やっとまくらの存在に気づいた。
「うわ手首はセロハンテープで縛られてる。めんどくせぇえーな。……ン、なんだ、お前。」
「……なあ、史絵 以外もターゲットっていたっけ」
銀髪の問いかけに、ボーダーはふるふると否定を示した。
「そか。じゃあ、もう行くぞ」
並んで歩くふたりの誘拐犯の背中を見ながら、まくらが分かったことはただふたつだ。ひとつ、今、史絵がとんでもなく危なそうな状況にあること。もうひとつ、史絵は組織的なものに狙われているということ。つまり、やはり、史絵がとんでもなく危なそうな状況にあるということだった。
「モクラ、ボクは、どうすべきだと思う……」
まくらは、震える手で、鞄の側面ポケットのふくらみを、祈るようにさすった。




