『火粉を払う、息を吸う 2』 史絵
空がだんだん明るくなってゆく。春眠暁を覚えず…とは言うが、今日は春なのに朝から暑く、すぐ目が覚めた。少し汗をかいていた。
「ふとんが分厚いというのもある」
だがまだ本格的に暑い時期に入ったというわけでもないし、しばらくはこのふとんで我慢が続くだろう、とぼんやりする頭で考える。
いつもご飯が出される朝食で久しぶりにパンが出されたくらいしか特筆すべきことはなく、朝の準備を終わらせる。しかしあれだ、歯磨きするたびにチューブをブンブンと振り回すのにも飽きた。予備はまだあったはずだが、一応、帰りに新しい歯磨き粉を買ってこよう。なんて考えながら、学校指定の地味な靴を履く。
「じゃあ、いってきます」
「はーい」
父の声を後ろに、家を出る。
新学年が始まる。今日から中学2年生である。
一週間が始まる。今日から一週間かけて、また自分の「祈り」を調べる。彼女は毎週自身の持つ「祈り」が変化する、唯一の人間なのだから。
今週も、張り切っていこう。
……
「最悪だ!!」
と、心の中で叫んだ。こういうとき心の中で呟くものなのだろうが、どうせ声に出さないなら叫んだってもいいだろう。
「マジに最悪だ!!」
心の中で叫んだ。目の前に立っている、笑顔がかわいい同級生を見ながら。
思えば、教室に入ったあの瞬間から、いやな気配はしていたのだ。
がらら、とスムーズには開いてくれない教室の扉をこじ開けて中へ入ってゆく。自分が一番最初に入ったと思ったが、教室には先客がいた。
「あ、」
「あ!おっはよ~!はじめまして!今日からよろしく!知らない子だ!同じクラスになるのはじめて!?名前は!?私、○○☆☆!新しいクラス、どきどきするね~!△△が■■■で、××は★★、そうだ!◇◇◇が~~」
モンスター級コミュニケーション能力持ち、推定クラス一軍スーパーゴリゴリギャルが、そこにいた。
マシンガンのように放たれた会話の始球を聞き取ることは不可能に近く、そもそも聞く気がなかったため、史絵は、そのギャルの名前を覚えることができなかった。(たしかウンタラカンタラとかそんな感じだった気がする。変わった名前だ。)
だが、こちらの名前も問われていることは理解できた。ここは応じるのが無難だろう。
「私は史絵。これからよろしく」
無論、これからよろしくする気などない。
そのウンタラなんとかとかいうギャルとの会話は、その直後に教室に別の人が入ってきたということもあり、そこで終了した。
さて最悪なのはその後だ。そのギャルはなんと、出席番号一番。これがどういうことかわかるだろうか?……そう、クラスの自己紹介はそのギャルから始まるのだ。ギャルがどのように自己を紹介するかで、後続のみながどのように自己紹介するかもある程度決まる。
そして、クラスメイトは揃い、先生がやってきて、新学年初の授業が始まり、クラスメイトが順番に自己紹介するやつが始まり、それはギャルの自己紹介から始まった。ギャルが教壇の前まで歩いていって、声を張り上げる。
「□□▽▽で~す!これから一年間、短い時間だけどよろしく!!みんなで最高のクラスにしよー!!え~、それで!部活はバスケでマネージャーしてる!Kポップとかすきだから、気安く話しかけて~!」
そこは「気安く」より「気軽に」の方が適切だろう、と聞いていて思うがそんなことはどうでもよかった。問題はその後だ。
「あとは、う~ん」
ないなら早く引っ込め、と思うが、ここまではまあ(どうでも)よかった。この後である。数秒して、ギャルは自己紹介を再開したのだが、これが最悪だった。
「あ、そうだ!ええとぉ、私の“祈り”は、くる~って回ると、虹を出せます!!」
くるり、とギャルは教壇の前で回ってみせた。スカートが小さくなびく。それから右耳を二回軽く引っ張って、両手を合わせる。大きく両手を開くと、そこには小さくてかわいい見事な虹がかかった。
クラスから「おお~!!」と声が上がる。それを見ていた史絵は、心の中で叫んだわけだ。そう、
「最悪だ!!」
……と。
「マジに最悪だ!!」
史絵は、誰にもバレないようにため息をついた。
やはり予想していた通り、あの最初のギャルの自己紹介が基準となってしまった。あれ以降のクラスメイトも、同じ風な自己紹介をする流れが、できてしまった。それぞれが名前、部活、好きなもの、そして……自身の持つ「祈り」を紹介していった。
自分の「祈り」を紹介しなければならない!!
皆が自分の「祈り」を紹介している。シンプルな「祈り」を持つ者は、ギャルのようにその場で軽くやってみせた。教壇の前で様々な「祈り」が実った。
そして、史絵の番が近づいてきていた。その中で、史絵はあることに気づいていた。
「(やはりというか、当然というか……)」
それは、「みんなが“祈り”を持っている」ということだ。
確かに現在、大半の人間が自分だけの「祈り」を持っているが、そうでないケースもある。それは、「祈り」の手順が複雑すぎて発見できない場合。
複雑すぎる「祈り」は推定することが不可能で、そういった人は「自分の“祈り”がどのようなものか分からない・説明できない」のだ。だから世界の中で少数の人は「祈り」をまだ持っていないことになる。
しかしこのクラスにはそういった人は今のところいない。みんな自己紹介で自分の「祈り」の内容を説明できている。
ふつう、クラスに2,3人は、自分の「祈り」が分からない・説明できないという人がいるものだ。しかしこのクラスはそうではなかった。みんな自己紹介で自分の「祈り」の内容を説明できている。
となると……
「自己紹介で“祈り”を説明できないのは私だけかあ~~!!」
史絵は、心の中で叫んだ。
しかし史絵の場合、「まだ“祈り”を持っていません」というのとはちょっと違う。彼女は「“祈り”の内容が毎週変わるので、定まった“祈り”を持てません」と言うべきだろう。
「(でも……)」
そんなことを言って、誰が信じるというのか?ふつう、みんなが自分だけの「祈り」を持っていて、その内容は生涯変わらない。毎週「祈り」の内容が変わるなど、ありえないのだ。
と、いつの間にか自分の番が来ていたようだ。しばらくボ~っとしていたため、先生に名前を呼ばれて、ハッした。慌てて教壇の前へ行く。
自己紹介をサッサと済まそうとする。名前は史絵、部活は帰宅部、好きなものは音楽。別に音楽が好きなことをアイデンティティにできるほど音楽が好きだというわけではなかったが、音楽が好きだという自己紹介は無難な感じだろうと思っただけだった。
さて、次に紹介するのは己の「祈り」だ。
「あ~~、え、…っと。“祈り”、は、持ってません」
ざわざわざわざわ…!クラスからどよめきの声が上がる。別に拍手喝采は欲しくなかったが、どよめきはもっといらない。
ぱち、……ぱち…ぱち、。まばら、という表現にすら到達することもない、無いも同然の拍手に包まれながら、自己紹介を終える。耳をすませばかろうじて聞こえる小さな「くすくす」という声は、幻聴ではないだろう。
「……はぁ」
さっさと戻って着席。入れ替わるように、一つ後ろの生徒が教壇へと駆り出される。そいつがどんな自己紹介なのか、そいつがどんな「祈り」なのか、もはや見る気も起こらない。窓の方を向けばまだマシな景色が見れるだろうか、と思ったが窓側に座っている生徒と目が合うだけだった。なんだ、その目は、だったらお前は誇るほどの「祈り」持ってんのかよ?
「……はぁ」
ため息が出る。
「(持ってんだろうなあ。自分だけの見事な“祈り”を)」
全員分の自己紹介が終了。新学年初めての授業が終了し、新学年初めての休み時間がやってきた。
史絵はというと、この時間をどう潰せばいいか決めかねていた。去年…中学一年の頃を思い出してみる。そういえばよく図書館にいっていた。
「(図書館で私はいつも決まったところに座っていた。ばらばらと本を読みながら、ただぼんやりと時が過ぎるのを待っていた。向かいに変なやつがいつも座っていたが、それを除けばやはり図書館こそが私のオアシスなのかも)」
そうと決まれば、いざ、図書館へ行ってみよう。
始業式の日に図書館は開放されているものなのか?いや、それを確かめるという意味も込めて、これから図書館へ行こう。
さて、史絵が立ち上がった。……瞬間である。
「ねえ!」
不快な高い声が鼓膜を震わせた。高級なメッキで表面を装飾された汚らしい金属が擦れる音のようだ。史絵はその音源を確かめるために振り返る。
「(げえ!ギャル!)」
そこには、ナントカカントカとかいうギャルがいた。さらに視野を広げると、ギャルの両脇にはワンランク下くらいの準ギャルみたいなのもいる。最初に口を開いたのは、やはり中央で腕を組んで立っているギャルだ。流石、出席番号一番。
「史絵?だっけ」
「(うおっ話しかけてきた)」
「ねぇーこれからどこ行く気なの?」
「え?あー、少し校内をぶらぶらと…」
「ふーん、そう。…ねえ、“祈り”持ってないってホント?」
その話かよ…と思ったのをなるべく顔に出さないように気を付けながら、てきとうに返事する。
「うん」
くす、とギャルとその取り巻きらしき準ギャル共が揃って鼻で笑った。
「信じられない、あなた以外、クラスの全員が持っているのに?」
「いやそんなこと言われてもな…」
史絵は、ギャルと話していて、全身をなぞられるような深い不快を感じていた。今朝最初に交わした会話(というよりギャルの一方的な話しかけ)とはまた別の、絡みつくような不快感だ。
「(あ、これは多分、八分とかイジメとかの対象になるかの査定をされているな、今)」
気のせいであってほしいが、十中八九そうだろうという確信を持てた。早ければこの瞬間から、遅くても明日の朝にはイジメが始まっている…だろう。
「あ、ごめ~ん。どっか行くんだっけ?いってらしゃ~い!トイレかな?」
ギャルと準ギャル共がけたけたと笑う。
「お前は教室から出てゆく目的に排尿排便しか思いつかないのか?」……と言えるわけもない。
史絵は黙ってその場を去った。
無関係者(例えば社会人とか)から見たら、「そんなバカな」と思うかもしれない。「祈り」なんか、社会ではなんの役にも立たない。あればまあ面白いけど無くても困らない、「祈り」というクソどうでもいいものを、たまたま持っていないだけ。そんなことでいじめの対象になるなんて、そんなバカなことあるのか。実際馬鹿馬鹿しい。
しかし、社会問題になっているのも事実だ。中学・高校で、「祈り」をまだ持たない生徒がいじめの対象になる。何故か?それは、モラトリアム期間真っ最中のガキ共だからである。
一人として同じものが存在しない「祈り」……これはまだ何物にも成れていない学生たちにとって、あまりにも分かりやすく確立された「自分だけのアイデンティティ」だった。「祈り」を持っていない奴が、集団に一人いる……するとそいつはアイデンティティの無い人間、酷く言ってみると、得体の知れない存在なのだ。お互いのアイデンティティを尊重し合っている集団は、そんな得体の知れない存在を、排除しようとする。
「(……って、この前テレビでなんか社会学の教授が言ってたな。それが正しければ、私はこれから、いじめの対象になるってわけだ)」
……
中学2年になったことで、棟が一年の頃と変わった。おかげで少し遠くなった図書館。
図書館へ通じる廊下を歩く途中も、思考は止まらない。
「(思えば、あのクラスで私より地味そうなやつはいなかった。みんな運動部に所属してそうだったし)」
「……」
「(最も地味なやつがさらに“祈り”も持っていない……となるとそいつが一番、イジメの標的になる可能性が高いか。つまり、私が)」
「……」
「(まあ…まだイジメが起こると決まったわけではないけど。なにも、あのギャルたちがイジメの常習犯とは限らない)」
「……」
「(……可能性が高いだけだ)」
あまり感情的ではない表情や、それなりに冷静な自覚のある思考……とは裏腹に、史絵はかなり焦っていた。
ふつうそうだろう。クラスの一軍に少し絡まれたくらいで「もしかして自分はこれからイジメられるのか?」と考えるのは、被害妄想の域かもしれないが、だからどうした。なにもおかしなことではない。イジメられるかもしれないと考えてしまったら、誰でも不安になるものだ、人間は社会的動物なのだから。
「あ~ヤバいな」
杞憂を最も強く願っているのは本人だ。
悩んでいても仕方ない、今日の授業は午前で終わる。終わったらさっさと家に帰ろう。
……なんて考えている内に、図書館に着いた。
「……ああ……最悪だ」
本日は閉館だ!