点滅する太陽 /ドリップ
海の隣の町。そこに、ドリップは住んでいる。ドリップはサーフィンの好きな青年だった。かといって、明るい人間というわけではなかった。むしろ根暗な方だ。みんなが休み時間にボール遊びをしているような時間に、クラスの端っこで本を読むようなタイプだ。人と関わるのはあまり得意な方ではない。薄黒くやけた肌や、穏やかな波のような長い髪、筋肉質な身体のせいで、初対面の人間にはある種の警戒や逆に期待をさせてしまうことが度々あるが、それはどちらも見当違いというものだ。「サーフィン好き」の全員が陽気なモテ男だとは限らない。
ドリップは、あまり計算の得意なタイプではなかったが、四則演算くらいは誰だってできる。
「6+5で11年。365×11で、4015日!……うるう年の差を引いても、4000日以上もあったじゃないか!!」
数学の授業についていけなくなったのは中学4年くらいのことだった。というか、この時期から、学校の授業の全てがみるみるどうでもよくなっていった。そんな彼がさっき何を計算していたのかというと、それは「頑張った日数」である。
ドリップの住む国では、義務教育は12年間と設定されている。まず、幼稚園で最低1年以上を過ごすこととなっており、そのあと小学生として6年間、その次の中学生期間が5年ある。
もう幼稚園児時代のことなど、ドリップはほとんど忘れていた。しかし、なんとなく、小学校に上がったあたりで両親が少し教育に厳しくなった気がする。そして小学1年生から中学5年生までの11年間、ドリップは親の期待に応えるべき勉強漬けの毎日を送ってきたのだ。……と、彼自身はそう思い込んでいる。実際はそんなことはない。彼の両親は極めて常識的で一般に「良き父と母」とされてしかるべきような人物であった。特別教育に熱を上げているなんてこともない。ドリップの一日あたりの勉強時間だって、同学年の平均と大差ない…というよりむしろ少し少ないくらいだった。
こういうのは結局、本人の気持ちなのだろう。客観的事実よりも、主観的苦痛。ともかく小中学の11年間はドリップにとって苦痛だったということだ。対人関係というよりも、勉強のめんどうくささたるや。
このことで、ドリップは親と衝突を起こすことがしばしばあった。そう、今も。
「だからなあ!別に大学行けとは行ってないんだよ!大学行かないなら仕事を探せと言っているんだ!」
ドリップの父親が唸るような怒号を家に響かせる。それに負けじとドリップは、さっき歯磨きし終えたばかりの清潔な口から唾を飛ばしながら叫び声で返事する。
「ぐうおおおーーーっ!!何度言えばわかるんだ!俺は小中合わせて11年間も…4000日以上もずっとずっと頑張ってきたんだ!だからしばらく休む権利は当然ある!!純正なモラトリアム期間というのは、濁りの無い休暇によってしか成らないんだ!!」
こういう言い争いはよく朝に起こった。朝食をとったらドリップはすぐ海の方に行ってしまうからである。そこから一日中サーフィンというわけだ。だから家族で囲む朝食は、毎回半ば家族会議のような雰囲気になり、最終的には火のごとし父と山のごとしドリップの喧嘩になるのだった。
「長い学校生活で疲れたからしばらく休みたい」
それは別に変な話ではなかったが、このフレーズはもはやこの家に置いてほとんど正当性を無くしていた。なぜなら、ドリップがそう言い始めてもう1年と半年が経つからである。ここ一年半、ドリップはまごうことなきニートでしかなかった。父は呆れからくる大きなため息を吐きながら、そのことを責めた。
「そう言ってドリップお前、もう1年6か月が経とうとしているぞーーッ!!」
ばちん!そうして、父は両手を振り上げ、ドリップの両方を同時にビンタした。……これはよく父のやる「おしおき」である。どういうこだわりか分からないが、ドリップの父は「もし片手だけで強くビンタすると万一に脳震盪を起こさせてしまうかしれなく危険なので 両手で同時にビンタすることで脳を揺らさずただ痛みだけを与えることができる」と考えているようである。
「いってえ!!」
「ふん。両頬に同時に衝撃を与えているから、脳震盪の起こる心配はない。この痛みに懲りたら、とっとと働くか大学行くか決めろ」
「鼓膜が破れたらどうすんだよ……」
ドリップは、ひりひりとする両頬をさすった。
しばらくの辛抱である。少しピンクになった頬から痛みが引くころには、父の出勤時間がやってくる。無言で父を見送った後、ドリップはテレビのチャンネルをニュースから変えて、しばらくぼーっと眺めた。バラエティーだかニュースだか分からない朝の変な情報番組には、今注目のグルメスポットが映されている。美味そうだったが、猛烈に行ってみたいということもなく、だからこれから先も生涯行くことはないだろう。
「じゃあ、母さん、行ってくるよ」
母は「は~い」みたいなテキトーな返事をして、皿洗いをつづけた。母はニート状態のドリップについて、賛成も反対もしていない様子であった。ただ「実は心の中では大激怒とかだったらどうしよう」と、ときどき怖くなる。母は昔から何を考えているのかよく分からない人物だった。
サーフィンに向かう。平日は、人が少なくていい。いたとしても海辺を散歩するジジババだけである。それに朝は風が少なく、波も良い。だから平日の朝ほどサーフィンに適した時間はないのである。つまりサーフィンがやりたきゃ、ニートになるしかないのである。……ドリップは心の中で、そう呟いた。
「いい波だ」
波に乗っているときは、脳を埋める不安や余計な思考がふるい落とされていく感覚がした。それがたまらなく好きだった。
しばらくして、1ランド終える。つまり一旦切り上げだ。そこの自販機で買ったジュースを飲んだり、無意味に海辺の砂を蹴ったりして過ごす。またしばらくしたら、サーフィンを再開させる。さらにしばらくして、また切り上げて休憩する。そうこうしているうちに太陽が一日の中で最も高く昇る時間になった。
こういうとき、あわてて飯屋に行く者はニート3流といったところ。この時間帯はどこも混む。ニートは例外なく人間の多い場所を嫌うため、ランチタイムの飯屋に入りでもすれば致命傷は免れないのだ。家に帰って母親の飯を食うのも悪くはないが、今日は気分ではなかった。
すこし海辺をぶらぶらしていよう。ときどき割れた緑色のガラスを拾っては、網目の荒いゴミ箱に放り込んだ。ビール瓶の破片である。どこかの酔っ払いのものだと考えると汚いし触りたくもないが、放置しているのは危険だ。
「豆乳さえあればな……」
豆乳さえあれば、もっと楽に処理できるのに。そう考えると、ドリップは近くに豆乳を売る店のないことを残念に思った。彼の「祈り」には、豆乳が必要なのである。
ドリップの「祈り」:
①大豆を濾した汁を数滴床にこぼす
↓
②両足の親指と人さし指を重ねる
↓
◎左手で包み込んだものを消滅させる
地面に豆乳でもたらせば、次に左手で包み込んだものを消滅させることができる。それが彼の……ドリップの「祈り」だ。
太陽がさっきよりも低くなっている。トイレを借りるついでに立ち寄った売店の中で、時計を見てみる。もうランチタイムも終わりだろう。ここでようやく、ドリップの昼飯が始まるのである。
行くのはカレー屋だ。予想は的中、それなりに空きはじめた頃だった。待ち時間なく着席。注文するものは決まっている。
「カレー……プレーンで」
定番のが一番うまいのだ、結局。
「あと、豆乳を」
ただここのカレーには少し難があった。オリーブの実が入っているのである。あの、黒くて、グニグニしていて、しょっぱいんだか酸っぱいんだか苦いんだか分からない、あのオリーブの実である。ドリップはその、オリーブの実が大の苦手であった。更にこの店はかなり店長のこだわりが強いらしく、お残しは許さない方針である。一度、サラダをたくさん残したかなんかで、客のオッサンが店長に怒鳴られている様を見たことがある。
大嫌いなオリーブの実がカレーに入っており、それを残すと気難しい店長に怒られる。ほとんど最悪に近い。……ただこの店のカレーは、それを補って余りあるほどに美味いものなのだった。どろりとした黄土色から、芳醇な香りが立ち昇る。「週に3は食べなきゃ、ダメだ」脳がそう言うので、肉体は従うばかりである。
「いただきます」
すぐ、ドリップは金属スプーンを器用に操って、黒光るオリーブの実から大きな種をくり抜く。すかさず、冷やされたコップを掴み、ごくごくと豆乳を喉に流し込む。このとき、わざとヘタクソに、ガキのようにがさつに飲んだ。コップからも口からもこぼれた豆乳は、ドリップの右腕を伝って、ついに肘の先からぽたりぽたりと落ちた。床に、数滴の豆乳が落ちた。
「ぷはぁーーっ」
わざとらしく感嘆すると、そのままサッと2枚ほどティッシュを抜き取る。店長も店員も誰もこちらを見ていないことを確認し、ティッシュの上にオリーブの実を落とす。足元では、両足が親指と人さし指を重ねていた。準備完了。……ぎゅう。ドリップは、オリーブの実の包まれたティッシュを、左手で力いっぱい握りしめた。────「祈り」が実る────
「……」
左手を開くと、もうドリップの手のひらからティッシュとオリーブの実は消滅していた。それを確認したあと、ドリップは、今度は心の中で、言うのだ。
「(いただきます)」




