『火粉を払う、息を吸う 7』 史絵
不味い!
史絵は砂糖を振りかけたソフトサラダせんべいを頬張る。素材の持つほのかなしょっぱさを、かき消すようにまぶされた人工甘味料が、味蕾によろしくなさそうな刺激を与えている。
「……」
舌がしびれるような甘さのせいではない……明らかに、さっきよりも身体が興奮している。わくわくしている。それは、肩に服越しに羽虫がとまるような、ただの人間には感じ取れないような些細で微妙な感覚だったが……史絵のようにずっと自身の「祈り」を調べている珍しい人間には、かなりハッキリと体感にあらわれる。より正解に近い「祈り」の手順をなぞることができたときに現れる、からだのワクワク。
「(今週の“祈り”の手順の4番目は、何か甘いものを咀嚼する、といったところか。砂糖……人工甘味料に身体が強く反応したってことは、多分フルーツっていうよりはお菓子系かな。まあここまで突き止めたら一旦はオッケーか。クッキーあたりを、帰りに買っておこう)」
今週の史絵の「祈り」(現時点で判明した手順):
1.右側の上下の犬歯を合わせてカチリと音を立てる
↓
2.スチール缶に入った飲料を開封せずにひっくり返す
↓
3.左手でズボンの裾をまくる
↓
4.クッキー等お菓子を咀嚼する
↓
…
…
基本的に「祈り」の手順は5ステップ以内に収まることが多い。史絵の今週の「祈り」が実るのも、もうそろそろだろう。
「ふう。まくらはどうなってるかな…?」
こちらはひと段落ついた。まくらの方を確認してみよう。自分の方はもう、今日はこれくらいでいいだろう。(まくらに「自分の“祈り”は過程が複雑らしくてまだ判明していない」と言っている以上、まくらがいるところで急に“祈り”を実らせることは避けたい)
「おーい まくら!そっちはどんな感じ?今」
ぱっとこちらを向き、まくらは笑顔を見せたが、すぐに困り顔になった。丁度、何か詰まったところだったようだ。
「えっと、史絵。この……変な、穴のポコポコ空いた筒?みたいなのを吹け、って指示が出たんだけど。吹いてもいいの?その、ボクの口が当たるかもしれないけど……」
「ああ、それね!そこは、ふちの部分に口を近づけて、息を流し込むようにするだけでいいの。そうすると不思議な音が鳴るから」
「了解、ありがとう」
軽く礼を言った後に、まくらは丁寧に両手で筒を持ち、リコーダーのように構えた。この、推定テストセットに入っている謎の筒はどうも縦笛っぽい。
すう、と息を吸った後、まくらは「ふーーっ」と筒に息を送り込んだ。すると側面に付いている穴が細かく振動し、不思議な音が鳴った。
「うわ~聞いたことない音」
「不思議な音だよね」
「うん。……えっとそれで次は」
指示書に目を落とす。
「えっ!……『このとき聞こえた音を自分なりに擬音で表現してみなさい』?うー、難しいな……」
「そんな真剣に考えずに、もう直感で言っちゃっていいと思うよ」
「え~~……」
しばらく、手を顎にあてて考えている様子を見せたあと、まくらは恥ずかしそうに、口を小さく開けた。
「ば…『バビュビュウ~』ってカンジかなぁ?」
その間抜けな擬音に、史絵はつい吹き出しそうになったが、すぐにそれは失礼なことだと思い声を飲み込んだ。
「じゃあ、指示書を見て、表現した擬音の該当するページに飛んでみようか。……え~っと、バ行始まりの……」
この謎の笛を吹き、その音を自分なりの擬音で表現するという意味不明の行動にも、どうも「祈り」を推定する上で意味があるみたいだ。それは史絵も誰も分からないが、とにかくこの指示書に従えばいずれ自身の「祈り」にたどり着く。ぱらぱら指示書をめくる。…………笛の音をバ行から始まる擬音で表現した者は、とりあえず次はマルバツで答える質問に取り組む必要があるみたいだ。該当ページを眺める史絵の腕をつんつんとつつき、まくらが言う。
「あっ、あ!あの、多分だけど、史絵……ボク、いまからだがちょっとわくわくしてる、かも」
「おおっ!やった!ということは、“祈り”の最初の手順は、笛を吹く、かな。笛を吹くことそのものが手順に組み込まれていることにはちょっと驚いたけど……。じゃあ、もう一回あの笛を吹いてみて、ほんとにわくわくが来てるか確かめてみる?」
「うん、そうする」
まくらはもう一度あの妙ちくりんな笛に口を近づけ、口を尖らせた。ふーーっ。
「……あれ?さっきとちょっと音が違う、気がする」
「謎だけど、まあ、そういう笛だからね。……それよりも、わくわくはどう?身体に何か感じる?」
「うん……あ!やっぱり!なんだか、どこがそう感じているんだろう…とにかくちょっとムズムズする!」
「じゃあやっぱり1番目の手順は、笛を吹く、か!」
まくらの「祈り」 (の判明した手順):
1.笛を吹く(暫定)
↓
…
…
まだまだ、まくらの自身の「祈り」を知る道は始まったばかりだ。しかし、もう既に、まくらは高揚を隠せずにいた。それは笛を吹いて、「祈り」の手順を踏んだためではない。楽しくなってきたからだ。自分の知らなかった自分を、これから知ってゆくことになる。
「ボクは、どんな“祈り”を持っているんだろう」
「さあ、焦らずとも、きっともう近いうちに判るだろうね。楽しみだね」
「ありがとう、史絵」
空が焼けてきた。春の空は暗くなりはじめるのが遅い、かわりに、暗くなりはじめるとそこからが早い。風も吹いてきた。
「今日はそろそろ帰ろうか」
言いながら、ちゃっちゃとセットを片付ける。ケースはぱんぱんに膨れ上がった。入りきらなかった大きな図鑑やらを史絵はバッグに詰め込む。背負うとずしりとして重い。まくらが「ボクもどっちか持とうか」と申し出たが、そしてそれはありがたかったが、史絵は正直なところ「(ちゃんと関わり始めてまだ初日の相手に持たせたくないな)」と思い、断った。荷物を持たせたとして、家までついてこられては困る。誰だって、家族でも友人でもない相手に住所をバラすのには嫌悪感を覚えるものだ。それは生物として当然なのではないか。
石造りの薄汚れた階段を上がりながら、史絵は隣にいるまくらのことを考えた。
「(彼女…まくらの前だと、なんていうか、口調が定まらない……。私はいつも、どういう風に喋ってたっけ)」
まくらも無言のままだ。もしかすると史絵のように何か、特に隣にいる史絵のこととか、考えているのかもしれない。仮にそうだとして、史絵に他人の思考を覗き見する能力などないため、何を考えているかなんて分かりようもないが。
「(まくらは今何を考えているのだろう)」
この、一人称が「ボク」の同世代少女は何を考え、何を思考しているのか。人と関わるというのはこんなにも、その人のことが気になるものだったか。進学しても進級しても新登場の人と関わることを避けてきた史絵にとっては、久しぶりに関わりを持つ“新登場人物”だった。
考えてみれば、史絵にとって、まくらと関わるメリットはないのだ。……というより、デメリットが鮮明すぎて、メリットを探す隙がない。とても大きなデメリットだけが、史絵の脳で煌煌と輝いていた。
「(まくらの“祈り”を調べるのに付き合うことで、私は自分の“祈り”を調べる時間が少なくなる)」
……なぜか。なぜなら、まくらの隣でテストを行うことが難しいためである。彼女の隣で喜々として「祈り」推定テストセットを使っているうちに、ついうっかり今週の「祈り」が実ってしまったらどうする。すると、もう、まくらの中で「ああ史絵の“祈り”はこういうものなのだな」と意識が固定されてしまう。そして週が終わり、次の週が始まり、史絵の「祈り」はリセットされる、がそんな史絵の妙ちくりんなキャラクター設定しらないため、まくらは「あれ!?史絵の“祈り”変わってないか!?」と驚くわけである。こうなればもうおしまいで、家族しか知らない史絵の秘密の設定を、まくらにバラさなければならない。「実は私、どうも特殊で、私の“祈り”だけ毎週変化するんだよね」と言わなければならない。……ここから先は妄想の域になるが、こんな特殊体質が赤の他人にバレたら、もしかすると“しかるべき場所”に報告されてしまうかもしれない、と史絵は考えた。まだまだ謎の多い、「祈り」という概念だ。史絵は、「祈り」という概念を人類が掌握するための礎にされてしまうかもしれない、つまり、しかるべき施設にてしかるべき人体実験を施されてしまうかもしれない。そう考えると史絵は恐ろしかった。
……ぞっ。
……決して、家族以外の前でその週の「祈り」を実らせない方がいい。
そういうわけで、史絵はそれからも、毎放課後にまくらの「祈り」調べに付き合っては、ひとり家に帰ってから自分だけで、自分の「祈り」の方を調べた。結局、この週の史絵の「祈り」は判明しなかった。こんなことは史絵にとって久しぶりのことだった。いつも土曜の夜までにはその週の「祈り」を実らせるところまで運んでいたから。
一方で、まくらもまたこの週には「祈り」が判明しなかった。手順の3までは調べることができたが、まだ実る気配はない。ただ、史絵と違って普通の人の「祈り」は生涯変化しないので、一度判明すればもうそれでいいのだ。だから焦らずにまた推定テストセットを使って少しづつ手順を確かめていけばよかった。
その気持ちで何日も続けて、ふたりで放課後に河川敷に行った。そしてついに判明したのは、まくらが史絵に「“祈り”について教えてほしい」と頼んでから丁度一か月経ったころだった。




