『火粉を払う、息を吸う 6』 史絵
午後四時の半ば。まだまだ空は青いままだ。重いケースのせいで右肩右腕をやや痛めさせながら、史絵は近くの河川敷に向かって歩いている。
雲一つない……。そう思って上を広く見渡すと、遠くの西にちぎられたような小さな雲が一つだけ浮かんでいた。「雲一つない、こともない。」脳内で意味のない訂正を済ませて、汗を流す。
「あっつ」
住宅街の細い道に入った。途端に、びゅうと風が吹く。肌に付着していた汗が冷やされ、体表が寒くなる。しかし日本の春に存分に暖められた体の芯は、今だ暑苦しいままだ。
自分は何をしているのだろう……という考えが頭をかすめる。毎週「祈り」の内容が変わる奇妙な少女・史絵。彼女はいつも家で推定テストを行う。いちいち毎回、「祈り」がリセットされるたびに重い推定テストセットを持って河川敷まで行ってられないのだ。面倒くさい。疲れる。
誰かに推定テストセットを貸すということも初めてだった。それも、友達ですらない奴にだ。ただ、面識という意味では、面識だけは半年以上前からある。そんな得体のしれない奴と、学校以外の場所で会う機会の初めてが、「祈り」推定テストセットの貸し借りだとは。
うだうだ脳内で思考を愚痴らせてみたが、実際のところは、目指している河川敷はそこまで遠いところではない。そんなわけで、川に到着した。
気を付けて石階段を覗き込むと、すぐにそこにまくらがいることが分かった。斜面の草の部分に座って、大きな水色ヘッドホンから何か聴いている、後頭部のつむじが見える。史絵はなんとなく、いや確信じみて、まくらが何を聴いているのか分かる気がした。
このコンクリートの小道から、石階段を降りると、そこは草と土と汚い川の河川敷だ。重い荷物を持っている。気を付けて階段を下りる。真ん中あたりまで下りると、斜め前方に、体育座りしているまくらがすぐ近くになった。
「おーい!」
本格的に会話し始めてまだ一日も経っていない相手に、この呼びかけは失礼だったろうか。史絵は少し後悔したが、もう発した声は取り消せない。史絵のそれなりに大声の「おーい」が河川敷のゆるやかな斜面の上に弾ける。ばっ、とそのヘッドホン少女はこちらに振り向いた。まくらだ。
まくらはヘッドホンを取り外し、少し前髪をいじり、小さく口を開いた。
「史絵、……さん……」
まくらはまだ「さん」抜きで人名を呼ぶことに遠慮している、怖がっているようで、「史絵」と言った後にの後に消え入るような「さん」が聞こえたが、史絵は聞こえないふりをした。
「こんにちは、まくら。“祈り”の推定テストセット持ってきたよ」
今はまだ明るいし、何と言っても春だ。まだまだ暗くなる気配はない。だが、風が強くなると体が冷える。川の近くの方が風が吹くのだろうか、そんな理科的な知識は二人の少女には無かったが、二人とも少しづつ強くなってきた風を感じていた。さっきまで暑かったので、これが丁度いいくらいだ。
「じゃあ、私はできる限りまくらが“祈り”を見つけるのを手伝うことにするよ」
「ありがとう!本当に」
河川敷の下まで来た。すぐそこに濁った川がある。ダメだけど、最悪、何かが燃えたり爆発したりしてもいいわけである。近くに川があるところに人間が住んできたわけだ。
さあ「祈り」の見つけ方を教えてあげよう、……と言っても、史絵に教えられることなんて実のところほとんど無い。推定テストセットに入っている取扱説明書兼指示書の手順に従うだけでいいのだ。
「というわけで、この本の指示に従って進めるだけでいいんだけどね」
ぼす……。分厚い、取扱説明書兼指示書を手渡す。ページをめくらせてみる。これは簡単に言うと、何度も何度も分岐して分岐してし続けるゲームブックなのだ。
「うん?」
まくらは不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの?」
「あ、いや……。その、“祈り”を実らせる手順は無秩序……前後の動作になんの関連性もないはずなのに、どうしてこんなチャートのようなものをなぞって推定することができるんだろう?」
当然の疑問だ。
「それについては、図書館の本にもあまり書いてないね。今から、説明するよ」
無秩序のものを推定することはできない。だから、
「無秩序である“祈り”の手順は推察することはできない。……それはほぼ正しいんだけど、ここに2つの例外的な考慮点があるの」
史絵は、草上に置いたテストセットケースをなでながら、ゆっくりと説明した。
「それは、まず①……“祈り”の手順の内容は正確ではなくてもよい、ということ!」
「ど……どういうこと?」
‐①「祈り」の手順の内容は正確ではなくてもよい
「例えば。例えばね、瓶のコカ・コーラを飲み干してから、レシートの裏に花丸を描くと、目からビームが撃てる、という“祈り”を持つ人がいるとする」
「うん」
「このとき、その人の“祈り”を実らせるには必ずしも、瓶のコカ・コーラやレシートや花丸は必要ではないんだ」
「え!?それだと手順が達成されないんじゃ…」
「いや、できる。このケースならきっと、水を飲んでから、紙の裏に丸を描く、で“祈り”が実るはず」
史絵は説明を続ける。
「つまり、“祈り”の手順は大雑把にやっても、まあ実りはするんだよ。正解の行動を内包してさえいればいい。この場合、瓶のコカ・コーラを飲み干すということは水分を摂取するといえるし、レシート裏に花丸を描くということは紙に丸を描くといえる」
言葉で言っても分かりづらそうだ。史絵は持ってきたペンと紙に図を描いてみる。
「水を飲んでから紙に丸を描いたということは、大目に見れば瓶のコーラを飲んでレシート裏に花丸を描いたと言えないこともない、ということだね」
「思ったよりガバガバなんだね」
「そうだね。……ただ、こういった大まかな括りを手順に見立てた場合、“祈り”の効力はとっても弱まる。だから本来なら目からビームが出るところが、目がちょっと光るようになるだけで済まされたりね……」
「へえぇ。」
「それで、続いて考慮点②。これは本当に些細なことだから、集中しないと実感できないんだけど……“祈り”は、正しい手順を踏んでいるとき、なんかこう、感覚で分かるものなの。こう、そわそわするっていうか」
‐②正しい「祈り」の手順を踏むとき僅かにそのことを体感できる
この②の考慮点だが、これはどの本にも書いていないし、推定テストセットの指示書にも書いていないことだ。史絵が独自に発見した、「祈り」に関するルール。毎週「祈り」が変化する史絵はその度に、毎週自身の「祈り」を調べて推定してきた。その中で見つけた、気づいたことだった。
「?……なんだか、よくわからないな……どういうこと?」
「ええと、説明が難しいな……。“祈り”の手順は、無限通りの人間的行動から特定のものを選び、それを繰り返すことだと言えるよね?例えば水を飲む、左手で髪をなでる、本を開く、丸を紙に描く、とか。そうして様々な行動を試しているうちに、ある行動で、『なんかこの行動がしっくりくる気がする』みたいなのを感じるの。本当に僅かにだけど」
「えーどんな感覚なんだろう」
「表現しがたいよ。わくわくするっていうか、そわそわするっていうか」
「あれ、史絵はまだ自分の“祈り”が判明してないんだよね?なのにその感覚は分かるの?」
「ああ、うん。途中までの手順は判明しているからね」
噓は言っていない。今週の「祈り」は、まだ途中までしか手順が判明していない。
それでは実際に取り組んでみよう。
「それじゃこれからまくらは、本当に様々な行動を試すことになると思う。そのとき一回一回を、本気で集中してみて。ある行動のとき、ほんの僅かに体がわくわくする時がくるから」
「分かった」
「そういうときとか、伝えたいことがあるときは、私に教えてね」
「ありがとう、史絵!」
手を振って、史絵はまくらからちょっと離れる。といっても数メートルくらいだ。まくらを見守れる位置。
「さて、」
史絵は史絵で、やることがある。そう、今週の「祈り」を推定するのだ。今週はまだ、途中までしか手順が判明していない。
今週の史絵の「祈り」(まだ手順の途中までしか判明していない):
1.右側の上下の犬歯を合わせてカチリと音を立てる
↓
2.スチール缶に入った飲料を開封せずにひっくり返す
↓
3.左手でズボンの裾をまくる
↓
…
…
現時点ではまだここまでしか分かっていない。犬歯を合わせてカチリと音を立て、未開封の缶ジュースをひっくり返し、史絵は体を曲げて左手でズボン裾をまくった。ここまでは分かっている。
「(さて次は何だろう)」
試しに、史絵は持ってきた、亀田製菓のソフトサラダせんべいを齧ってみる。……僅かに、ほんのちょっとだけ、頬が暖かくなり心臓の鼓動がどくんと大きくなった!……気がする。なんとなく、体のわくわくが強くなった、気がする。
「これか……!」
毎週行われる史絵の「祈り」推定に、ソフトサラダせんべいは頻繫に登場する。ソフトサラダせんべいを齧ることで体に変な感覚がするということは、“物を食べる”ことが「祈り」の手順に組み込まれている可能性が高い。
「(4番目の手順は、『何か食べる』でほぼ確定だな。それが甘いものなのか、辛い、しょっぱい、酸っぱい、苦いものなのかを次は調べよう)」
そして、史絵は鞄から、塩、七味、砂糖、レモン汁を取り出した。これから順番にせんべいにふりかけて、いただくのである。




