『火粉を払う、息を吸う 4』 史絵
史絵へのいじめが止んでからしばらく経った。
1年の頃のような生活を取り戻すことができたというわけだ。休み時間は図書館に駆け込み、誰にも邪魔されずに本を読む。放課後が来るとすぐに家に帰る。そして、テストセットを使って一日中自身の「祈り」を調べる。
2000年、外れたと思われたノストラダムスの大予言。しかしその3年後に恐怖の大王はやって来た。地球に接近した真っ赤な彗星「恐怖の大王」(真っ赤……深紅……というのは誇張で、実際のところは淡いピンク色だった)。それ以降、人類は「祈り」という新しい能力を経た。誰もが別々の「祈り」を与えられ、それは一生変化しないと考えられている。それから10年が経つ。まだたったの10年だ。しかし人々は、もうそれを受け入れることにして、受け入れ、また自身のアイデンティティにした。
チャイムが鳴った。4限目が終了した。
「(昼休みか)」
ここにいる史絵は、全く才能や精神は平凡なものだったが、少し一般から外れた特徴を持っている。ある特殊性。
「(図書館棟の階段で昼ご飯を食べよう)」
それは、「祈り」が毎週変化することだ。なぜなのか、本人も一切分かっていない。だからこそ、自分のことを知りたがった。だからあまり理解できる箇所の無い本を一生懸命眺め、また「祈り」を推定するテストセットを毎週使っているのだ。
それだけだ。それ以外は、なんてことはない、14歳の少女だった。最近の悩み事はいじめだったが、それももう解決した。
それよりもさらに最近のこと、彼女は新しい悩みができた。
「(う、図書館行きづらいなあ……)」
少しうつむいて廊下の灰色を見ると、眼鏡がずり落ちそうになり、あわてて顔を上げ前を向いた。ただこれから直面する悩みの種のことを考えると、心はうつむくばかりだ。あれは……
1時間ほど前にさかのぼる。3限目が終わった休み時間のことだ、いつも通り教室を脱出し、彼女は図書館に駆け込んだ。
いつも決まった席に着き、静かに本を読むのだ。この時も尻のなじんだ椅子に座った。目の前には、いつもいる謎の少女がいつも通りいた。話したことはない。たまにあくびの声が聞こえてくるくらいだ。気にせず本を読む。
休み時間終了が近づいてきたときだ。もう教室に帰らなければと、史絵が立ち上がったとき、後ろから大音量の音楽が流れてきたのだ。直後、がしゃん、と何かが床に落ちた音がした。振り向くと、分かった、あの謎の少女が音楽プレイヤーを落としたらしかった。拾ってやると、謎少女は小声で礼を言った。そこで適当に流れを終わらせて今度こそ教室に向かおうとしたときだ、謎少女は急に、「私に“祈り”について教えてほしい」と言ってきたのだ。そのときの会話がこれ:
「ま……待って!……あっ、その、」
「……」
「“祈り”!……今度、よければ、“祈り”について教えて、…ほしい…です」
「…分かった。今度、きっと。今はもう行かなきゃ」
「えっ や、やった」
「私は、史絵って言います。あなたは?」
「っ まくら!ボクは、まくらって言います!」
……
……というわけで、その場の勢いで、史絵は、この謎少女の申し出に「オーケー」を返してしまったのだ。なぜ承諾したのか、史絵自身よく分かっていない。なぜ謎少女が「祈り」について教えてほしいのか、それも申し込んだのが自分になのか、何も分かっていない。分かったのは、その謎少女の名前が「まくら」ってことと、彼女の一人称が「ボク」だということだけだ。
なぜ、あの謎少女…まくらは、私に、「祈り」のことを尋ねようとしたのだろう……
「あ、私がいっつも“祈り”の本を読んでるからか……っ!」
勘弁してほしい。読んでいるだけで、理解はできていないのだ。「祈り」が何なのか、そんなの私も分かってないよ……。
……
図書館棟に着いてしまった。階段に座り込む。少し埃っぽいが、人は少なく騒がしくないところが気に入っていた。朝コンビニで買ってきた惣菜パン、2つのうち、しょっぱい方を先に開く。コーンマヨネーズパンだ。手に油がつかないように気を付けながら、かぶりつく。
「(うま)」
3分の2まで食べたとき、足音が聞こえた。この時間に図書館棟に来る人間は珍しい。昼休みに本を読みにきた生徒だとしても、教室で昼食を食べてから来るのが普通だからだ。些細な程度だったが、足音はどんどん大きくなっていった。
「……」
もうこの時点で目星はついていたが、その方向を向いて確認すると、やはりそこには、まくらがいた。口は堅く結ばれており、どうも史絵のほうから挨拶しなければならない雰囲気だった。
「こんにちは」
「あっ、こ、こんにちは」
まくらは、まるで、同級生と話すのは本当に久しぶりでもう話し方は忘れてしまった、という感じでおどおどと返事をした。
確かに、そんなまくらと比べれば、史絵はまあコミュニケーション能力のマシな方かもしれない。でも一般と比べれば史絵だって会話は苦手なタイプだ。ここから、目の前に立つまくらと、どう話を展開すればいいのか分かるわけがない。
「(え…っと、この、まくらさんが、私に“祈り”について教えてほしいってことでいいんだよね。でも、教えるって、実際どうすればいいんだろう)」
「……」
「(というか、まくらさんはなんで昼休みにこっちに来たんだ?もう昼飯は食べ終わったのだろうか?早くない?)」
続く沈黙が終わらない内に、史絵はメロンパンも食べ終わってしまった。小さく「ごちそうさま」と言う。もしかして、まくらは食べ終わるまで待ってくれていたのだろうか。
「あの……まくらさん、ですよね」
「はっ はい!史絵さん…!」
「お昼ご飯はもう食べたんですか?」
「食べました」
史絵は階段に座ったままで、それをまくらは見下ろす形で立っている。まくらの外見……学校が指定した制服(春夏仕様)を着ているので、ここの生徒だとは思うのだが、ふと足元を見てしまう。……サンダルみたいな生徒用上履きを履いていない。1年生なら赤、2年は青、3年は緑の上履きを履いているはずなのだ。しかし彼女は……まくらは、渋い深茶色の事務員用スリッパみたいなのを履いていた。“靴”なんか服装全体の1割もないパーツだ、そこに違和感があろうと些細なことなのだが、史絵は少し気になった。そして、聞いてしまった。
「あれ、上履き。学校指定のを履いてないんですか?」
「……ああ、不登校ですので」
答えになってない。……まくらは、この短い台詞で「自分は中学入学時点から不登校で制服以外の学校指定アイテムを持っておらず この事務員用の渋スリッパは保健室の先生から借りている」と説明しきったつもりだった。しかし言葉足らず、そんな圧縮言語で史絵に真意が伝わるわけがなかった。
「?そうですか」
それに「不登校」なんてワードを出すものだから、史絵も「なにか重い事情がありそうだな」と感じ、追及できなかった
「……(不登校?いや、今学校にいるし…というか、毎回昼休みに図書館で見かけるけど…それは登校ではないの?そもそも、不登校とその渋い色のスリッパに何の関係が?)」
「……」
史絵が、すく、と立ち上がると、たったそれだけでまくらは小動物のように僅かに揺れた。過剰な反応だ。同世代の人間と接することが全くなかったのだろう。それとも、歳差に関わらず、人間そのものに苦手意識を抱いているのかもしれない。
「あの……なんで、私に“祈り”を尋ねようとしたのですか」
「えっと、いつも目の前で“祈り”の本を読んでたから、詳しいかなと思った…からです」
「あまりその期待にこたえることができそうには感じないけど」
空気は重かった。どちらも他人との距離を測るのが上手なタイプではない。両者の口から出るのは、正しい敬語とは言えない、取り繕った下手な敬語ばかりだ。自分に敵意がないことを過剰に示すためだけに使われる、不自然な丁寧語。むしろ僅かに癪に障る。それを史絵は感覚で理解していたが、自分だってそうしなければ他人とコミュニケーションが取れない。
だがこれからそれなりの時間を関わるというのなら、こうしていつまでも気まずいままではいられない。少し勇気を出してみよう。史絵は息を吸い込み、それを吐くように言葉を出した。
「少し歩こうか……あ、ため口でいいかな?」
「うん……はい」
「そっちもため口でいいよ」
「……うん」
「それと、よければ、さん抜きで呼んでもいいかな。私のこともそうしてほしいし」
「うん。……史絵?」
「ありがとう、まくら」
会話の弾はある。「そういえば」といった感じで始める。
「図書館で、音楽聞いてたよね」
「ああ、うん」
か弱い声はやはり小動物を彷彿とさせた。
「あれは、ピロウズ?っぽかったな。合ってる?」
まくらは図書館に音楽プレイヤーを持ち込んでいる。前の休み時間にそれから大音量で漏れた音楽は、曲名までは分からなかったが、ピロウズというバンドのなんかの歌だったと思う。史絵は邦楽に詳しいわけではないし、ピロウズが特別好きなわけでもなかったが、よく『Funny Bunny』という歌は聞いていた。ピロウズの歌だ。家にある少ないCDのうちの一つがそれだったから、よく聞いた。『Funny Bunny』ではなかったが、まくらの音楽プレイヤーから流れた歌は、ピロウズの歌い方に似ていた。
「えっと、それ、前の時間に図書館から出るときもいってたけど、ピロウズってなに……ですか?」
「バンド名!……あれ?まくらが聞いてたのって、ピロウズじゃないの?」
「あ!あのうるさくしてしまったやつ!ごめん、なさい、あの歌、ボクも、曲名もバンド名も知らないんだ……」
廊下に二人の足音が響く。ここは図書館棟。あまり人は来ない。
「へえーミックスリストで音楽を聴いてて、あの歌は今日初めて聞いたとか?」
「いや、もうずっと聴いてる。6年くらい」
「へえー……そんな長く……」
不思議な子だ。史絵はそう思った。ふつう、6年も聴いている音楽なら、曲名くらい知っているに決まっている。というかその歌の全てを愛しているのでもなければ、6年間も同じ歌を聴かないだろう、ふつう。なら、「曲名もバンド名も知らない」あるいは「6年間も聴いてる」というのは嘘か。……いや、そうは見えなかった。まくらは、本当にあの歌をずっと聴いてきて、でも曲名もバンド名も知らないのだ、きっと。史絵は直感で、きっと本当にそうなんだと感じた。
「えっと、なんでそんな歌をずっと聴いているの?」
史絵が尋ねると、まくらは頭を少しうつむけた。
「あの音楽プレイヤーには、それしか入ってない……それと、」
「それと?」
「それと……ボクの父さんが、あの歌が好きだったから」
「ははは、なるほどね。分かる。親が好きな歌って、結局慣れるまで耳にするから、嫌いじゃないんだよね」
会話は弾まなかったが、史絵はまくらのことを少しづつ理解できている感覚を、胸の奥で感じた。この子は普通の、同世代の女の子だ、と。