『火粉を払う、息を吸う 1』 史絵
2000年は、やってきた。ノストラダムスの大予言は外れ、世界は滅亡しないで済んだ。
────恐怖の大王、地球にやって来ず────
…………かのように思えた!
なんということだ。その3年後である。恐怖の大王がやって来たのだ。彗星である。
2003年。真夏。東の端は日本から、西の端モロッコまで、多くの人が彗星を観測した。ソレが天空に浮かんでいたときに引いたピンクがかった美しい尾は、複数に分かれており、さながら海洋を泳ぐある生物の触手のようだったのだ。そう、雄大な深海の皇帝、ダイオウイカである。ダイオウイカそっくりのその彗星に、「恐怖の大王」という名が付けられた。
しばらくして、世界中で既に起こっていた異変に、人々は気づき始める。世界に、「祈り」が散らばった。
最初、南のほうにある小国でソレは発現した。国教で、多くの人が毎日祈りを捧げている。二つの膝と手を地面につけ、柔らかく頭を下げる。
夏の遅い太陽がもう完全に沈んでしまったときだ。信仰が集中するそれ用の施設の中で、無数の信徒の一人が、祈りを終えて顔を上げ立ち上がったとき。喉が渇いた彼は水を口に含んだ。ごくんと大きな水の塊を一口で飲み込む。すると頬が膨らみ始めた。物理法則を無視した現象だ……。彼の口から、小粒のトパーズがあふれ出た。確認される最古の「祈り」だ。
特定の所作が、世界に影響を及ぼすようになったのだ。この日を境に、「祈り」は精神の救済を超えた。「祈り」の意味が変わった。
「祈り」は、ひとりひとり異なった。
例えば中国のこの少女。彼女は目の前に容器を置き、右手の親指を立て、左手で容器を包む。すると、みるみる容器の中が葡萄酒で満たされていった。まだ到底飲める年齢ではないから今のところ役には立たない。
極寒の国の奇妙な名前の湖の近くに住む一人の老婆。靴のかかとを踏むように靴を脱ぎ、43分以上ずっとまぶたを閉じてから目を開くと、半径65メートルに小雨が降る。周辺には大きな湖と住宅しかないため、豊穣にはつながりそうにないが。
サーフィンの盛んな暖かい国に住むある青年には、注意が必要だ。大豆を濾した汁を数滴床にこぼしたあと、両足の親指と人さし指を重ねる。そのとき左手で包んだものを、消滅させることができたのだ。今のところ、彼は消しゴムのカスやレシート、紙の切れ端、そしてカレーに乗っていたオリーブの実しか消滅させたことはないが。
おそらく全ての人間が自分だけの「祈り」を持っているだろうとされた。ただその「祈り」が判明しないこともある。まず一つ、ものごころがついていない人間。3歳以下が「祈り」を実らせた例はまだ確認されていない。しかしこういった者はいずれ成長すれば「祈り」を持つようになるだろう。
もう一つ、「祈り」の判明しないパターンがある。それは、「祈り」の手順が複雑すぎる、またはその過程で必要なものがあまりに希少・あまりに危険で用意できない、あるいはその両方を理由に、自身の「祈り」を調べることができない場合である。
現時点で確認されている最も複雑な「祈り」。(『ギネスブック2012』から引用。)グレイヴ、46歳、食品メーカー工場勤務。彼の「祈り」は、ガラスでできた容器に入った胡椒を、右手の薬指と左手の小指でつまむところから始まる(このとき舌は下の右から三番目の歯を舐めていなければならない)。それから23もの手順を踏み、最終的に猫の写真をポケットに入れながら地下鉄でキャンディーを嚙み砕くことで、「祈り」が実る。これによって、彼は次に開いた本(紙媒体)の見開き1ページを完全に記憶することができる。
……それ以上に複雑な「祈り」を持っているのなら、見つける術はないと考えるのがよいだろう。
でも、それ以下のシンプルな「祈り」なら、どのようなものか分かる。ある方法で、「祈り」に必要なもの・手順を調べることができるのだ。約1週間に及ぶテストである。
Yes or Noで答える質問、パズル、パッチテスト、身体測定、夢診断、ほか様々な種類の測定・診断を組み込んだテスト。これをこなすことで、人々は自分の持つ「祈り」がどういったものかを知ることができる。発売元も知られていないが、そういうのを調べるテストセット……「祈り」推定テストセットというものがあるのだ。原理は不明。ただ、総当たりのような側面があることは確かだ。
「祈り」を推定するこのテストの欠点は、やはり複雑すぎる「祈り」は暴くことができないこと。そして、まあ、約1週間かかることだろう。……長い人生の内の1週間だ。それくらいは受け入れよう。
……
2013年、4月、第二土曜日。
午後の5時。
晴れ。
歯をかちりと合わせ、彼女は、スプレー型の筒に詰まった霧状の水を、頭に吹きかけた。それから左目を閉じて、3秒カウントする。思い切りジャンプして、滞空中に目を開く。……するとどうだろう、急速に手のひらが熱くなってきたではないか!直感で摂氏100度は超えていると感じたが、その熱さが痛いということはない。
かんかんにフライパン並みの発熱しているにも関わらず、彼女の手のひらは全く火傷する様子もなく、また熱い・痛いということもない。これは彼女が手の皮膚のぶ厚いびっくり人間だからではない。……フグがフグ毒で服毒することがないのと同じこと……「祈り」によって引き起こされる現象は、その「祈り」の主に直接危害を加えることがない、という世界の新常識に則っている。
「ふうう、」
用意していたバケツに手を突っ込む!じゅうううう!水が沸騰する!ああ、やはり摂氏100度はあったか、と分かる。
「……」
彼女はうなだれた。眼鏡がずり落ちてぽちゃんと水の冠を立て、長い髪までバケツを埋める水に落ちそうになる。顔をあげる。
「はあ……“祈り”の正体はこれか、“手のひらを超高温にする”」
彼女の名前は史絵。来週から新学年を控えた、新中学2年生の女子である。
肩甲骨をなでるくらいまで伸びたさらさらした黒髪の、少女だ。黒縁の眼鏡をかけている。裸眼視力はAからDでいうところのC。別にテレビやゲームが好きなわけではないから、恐らくこの悪めの視力は体質によるものだろう。特徴的な部分はこれくらい。他、体形から歯並びまで、どれも同世代の一般女子といった感じだ。
何の変哲もない。では「祈り」はどうだろう。「祈り」が出現して以降、人々は「祈り」を自身のアイデンティティにすることがしばしばあった。なんせ、この世に全く同じ「祈り」は二つと存在しない……全てが一点物なのだから。
彼女はこの一週間、自身の「祈り」が何なのかを調べるテストをしてきた。それで今日やっと特定した「祈り」の正体に…………落ち込んでいた。
史絵の「祈り」、それは、霧状の水を浴びたあと、左目を閉じてジャンプ、滞空している間に閉じた左目を開く。こうすることで、両手の手のひらを超高温にできる。
史絵の「祈り」:
①霧状の水を浴びる
↓
②左目を閉じてジャンプする
↓
③ジャンプによって滞空している間に閉じた左目を開く
↓
◎「祈り」が実り、両手の手のひらを超高温にできる
……
手のひらでもんじゃでも焼くのなら別だが、それ以外には役に立ちそうにない!なにより、危険だ!
「ああ~…!ハズレだ!」
「一週間返してよ……!」
怒りに任せて、簡易版「祈り」推定テストセットを雑に片付ける。
「くそ!備品が多いし、収納する箱がでかい!」
もう半年も使っているためかなりボロボロだ。そろそろ新しいのを買うべきだろう。
シャワーの音が止んだ。風呂に入っていた父が、洗い終わったのだろう。
しばらくして、廊下にスリッパの音が鳴り始める。ぺた、ぺた。この部屋に近づいてくる。
コンコン。
「……はい、どうぞ」
ガチャ。部屋の扉が開く。
「史絵~!風呂上がったぞ~!次、入ってしまいなさい」
彼女の父親が、笑顔で言った。すこしベッドで横になろうとしていたが、仕方ない。
「あー…分かった」
すく、と立ち上がる史絵を見て、ふと呼び止める。
「もしかしてテストしてた?」
簡易版「祈り」推定テストセットの、小さな備品がいくつか出っぱなしだった。それが父の目に入ったのだ。
「うん」
父は興味津々で尋ねる。
「どうだった?どんな“祈り”?」
「……はあ。手のひらが超高温になる」
恥ずかしい。もっとかわいらしい「祈り」がよかった。
「ぎゃははははあ!」
「ッ!笑うなっ!ああ~~!またハズレの“祈り”引いたぁ~~!」
ぽん、と手を肩に置いてくる。そのまま父は笑顔を変えない。
「まあいいじゃないか」
こいつは自分の「祈り」に納得しているから、他人事なのだ。わざとらしくあきれた声を上げて、そのことを問うてみる。
「……父さんの“祈り”はなんだっけ」
だが父は遠慮する様子もなく、
「俺?なんで急に俺のこと?」
「いいから!」
「俺はーあれだろ?だから、口を閉じながら、手を背中の後ろにまわして組むと、髪付近にあったかい風が吹いて、いい感じに髪が乾く」
ふぁさ。そう言って、この場で実演してみせた。さっきまで風呂上がりでびちゃびちゃだった父の髪が、みるみるいい感じに乾かされてくる。
「なんで父さんがそんないい“祈り”持ってんの!?」
父の「祈り」:
①口を閉じっぱなしにする
↓
②手を背中の後ろにまわして組む
↓
◎髪付近にあったかい風が吹いて、いい感じに髪が乾く
……うらやましい。
「祈り」は一生モノだ。判明すればもう手順も、実ったときの効果も、生涯変わらないし、失われることもない。
史絵の父は生涯、「口を閉じながら手を背中の後ろにまわして組むと、髪付近にあったかい風が吹いて、いい感じに髪が乾く」という「祈り」を使うことができる。なんて便利なことだろう。簡単な手順を踏めば、いつでも髪を乾かせるのだ。
彼の「祈り」の内容が変わるということはないし、無くなるということもない。簡単な手順を踏めば、いつでも髪を乾かせるのだ。
「祈り」は一生モノだ、ふつう。
「祈り」は一生変わらない、ふつう。
いつまでも持ち主と共にある。
何歳になろうと、自分の「祈り」を振る舞えば、その実りを、その恩恵を受け取ることができる。
「そう落ち込むな。史絵、お前は特別なんだから。だろ?」
「う、そうだけど……」
「だってお前は、恐らくこの世界で唯一……“祈り”が週をまたぐごとに変化するのだから。どうせ今週もあと少しで終わる。そうすればまた…」
「分かった分かった。お風呂入ってくる!」
「祈り」は一生モノだ、ふつう。
「祈り」は一生変わらない、ふつう。
……しかし、彼女は違った。
史絵は世界で唯一、「祈り」の内容が一週間で変わってしまう人間だった。
彼女は、毎週、自身の「祈り」を調べるのに一週間ほどかかけている。そしてそれを欠かしたことはない。
特殊な存在なのかもしれないが、彼女の願いは一般的なこの国の思春期たちと、そう大差はないだろう。
「(自分が何者なのか、知りたい)」
それだけだ。
““今週の”” 史絵の「祈り」:
①霧状の水を浴びる
↓
②左目を閉じてジャンプする
↓
③ジャンプによって滞空している間に閉じた左目を開く
↓
◎両手の手のひらを超高温にできる