【コミカライズ】婚約者を借りパクされましたが、もう返さなくて結構です
「ねえ、エスカ、おねがぁい」
友人のミーナ・ランダル伯爵令嬢に甘えた声で懇願されて、エスカ・ダズロー伯爵令嬢はため息をついた。
「そんなこと言われても……」
ミーナは長いまつげで縁取られた大きな瞳を潤ませ、上目遣いでエスカを見つめている。
「ねぇ、本当にお願い。一回だけでいいの。パーティーにエスコートなしで一人で行くなんて、とても恥ずかしくて。このままだと、心がぼろぼろになっちゃうの」
「助けてあげたいのはやまやまだけど、婚約者を貸してくれだなんて……」
ミーナの言い分はこうだ。彼女は最近クロップナー公爵家の令息と婚約したばかりなのだが、彼は長らく海外に留学しており、このたび家督を相続するために帰国してきたのだが、顔を合わせたのはほんの数回。
「だって、クライド様ったらお顔が怖いし。いっしょにいると、心がしゅんってなっちゃうの」
「婚約者と一緒に歩きたくない」と言うだけならば、エスカも咎めはするだろうが、問題はミーナの婚約者、クライド・クロップナーは仕事人間で、全くミーナのことを気にかけないと言うのだ。
「地位とお金はあるけれど、仕事仕事仕事で、話していてもつまらないし、服はダサいし、髪の毛は伸び放題だし、ケチだし。誘っても来てくださらないわ」
ミーナは子リスのように頬をぷくっと膨らませた。
「それでも婚約者がいるのに、婚約者がいる男性を伴ってパーティーに出席するのは……」
「いいじゃないか、エスカ」
エスカとミーナ、二人の会話に割り込んできたのは貸し借りされる当本人であるロナルドだ。
「君の友人が困っていると言うのなら、僕は助けたいと思うよ。エスカはそうじゃないの?」
「もちろん、ミーナを助けたいわ」
「ならいいだろう。クロップナー公爵家の仕事人間ぶりは有名だ。僕がミーナを連れていたところで『ああ、あちらさんはお仕事だな』と思われて、誰も僕たちをとがめはしないさ」
二人がかりで大丈夫、考えすぎと言われると、エスカは頷くしかなかった。
* * *
パーティー当日、エスカは不安げな顔でロナルドを見送った。
「エスカ。まだふてくされているのかい?」
「ふてくされてなんていないわ。あなたとミーナが変な噂になるんじゃないかと思って心配なのよ」
「大袈裟だなぁ。君は心配性なんだよ」
ロナルドはエスカの肩をポンと叩いて馬車に乗り込んだ。扉を閉めた瞬間に、ミーナのはしゃいだ声が聞こえてくる。
「私の婚約者が、ロナルド様みたいな素敵な方だったらいいのに」
後日、パーティーはとっても楽しかったと、エスカはミーナから礼を言われて、これでその話題は終了のはずだった。
しかし、エスカの不安は的中した。あの夜以降ミーナはパーティーと称して頻繁にロナルドを呼び出すようになった。
二人は急速に接近し、人目もはばからず目を合わせたり、手を取り合ったりするようになっている、とエスカは人づてに聞いて耳を覆いたくなった。
──ミーナに注意しなくては。
「エスカ、ロナルドのことだけれど……」
「ああ、エスカ。ちょうどよかった。五日後に、またパーティーがあるの。ロナルド様も楽しみにしているみたい」
「ごめんなさい、ミーナ。もう、そういうのはなしにしましょう」
それに、五日後は私の誕生日なのよ、あなたは忘れているかもしれないけれど。とエスカはミーナに伝えたいのをぐっとこらえた。
「え? そういうの、って?」
ミーナは何の話題かわからないとばかりに、小首をかしげた。
「ロナルドのことよ。もう、あなたに貸すことはできないわ。そもそも、人間を貸し借りするなんて間違っていたんだわ」
「ひどいわ、どうして今更そんな事を言うの? 友達だと思ってたのに、エスカは私がひとりぼっちでみじめな壁の花になっていても平気なのね」
ミーナは真新しい指輪のついた手を振り回しながら早口でまくし立てると、もう用事がないとばかりに去ってゆき、エスカはため息をついた。
──もともとミーナの結婚相手、クロップナー公爵家の方が格上。お父上が玉の輿だと喜んでいたから、仮にミーナがロナルドに心を奪われていたとしても、それは一時の気の迷いに過ぎない。元々ミーナは無邪気で、友人が持っているものをなんでも真似したがる子だった。
──結婚前の火遊びにもならない戯れで終わるはず。だって、私たちは大人だもの。
エスカが自室に戻ると、花束と一緒に、エスカ宛ての封書が一通届いていた。差出人を見てエスカは首をかしげる。
──どうして、この人が?
エスカは丁寧な手つきで封を切った。中身は短い手紙と、パーティーの招待状が一枚。
『親愛なるエスカ・ダズロー様。不躾な手紙をお許しください』
『あなたの婚約者が浮気をしています。五日後、パーティーにお越しくださいませんか。そこで真実をお伝えします』
エスカは差出人の名前をもう一度見て、封筒を机の中にしまい込んだ。
* * *
エスカはひとり、パーティー会場の前で、立ち尽くしていた。
出席すると伝えた誕生日会当日のパーティー。待ち合わせの場所にロナルドは来なかった。
毎年贈られていた誕生日の花束も、メッセージカードも届かない。使用人に尋ねても既に外出したと言うし、事故にあった、急な仕事が入ったなどの連絡はエスカのもとには入ってきていない。
──私は、後回しにされたのだ。
エスカの目尻に、じわりと涙が浮かんできた。けれど、手紙の主の真意を確かめるために、エスカはひとりパーティー会場への階段をのぼった。
「……」
会場に足を踏み入れたエスカの視界に飛び込んできたのは、腕を絡ませて見つめ合うミーナとロナルドの姿だった。二人はどう見ても恋人同士にしか見えない。
「ミーナ! ロナルド!」
するどく声を上げると、ミーナはふりむいて、にこりと笑った。
「これはどういうことなの? ロナルドは私の婚約者だって知っているでしょう。それに、あなたにも婚約者がいて……」
「だってぇ、私の婚約者はダサいんだもの。かわいい私には似合わないわ」
「な……」
ミーナが何を言っているのか、エスカには一瞬、理解できなかった。
「次期公爵とはいっても仕事人間だし、見た目がダサいし、話がつまんないんだもん。ロナルド様の方がお顔が素敵だし……私たち、とっても『合う』のよ。色々とね」
ミーナはロナルドの胸に頬を寄せて、うっとりと熱のこもった視線でロナルドを見上げている。
「そんなこと……」
「決めたのは、ロナルド様よ?」
ミーナが勝ち誇ったように腕をのばして、ロナルドの頬を撫でた。細くて華奢な指には金の指輪が光っている。
「……すまない、エスカ。真面目な君といると、時たま息が詰まりそうになる。でもミーナは僕の魂に自由をくれるんだ。僕はミーナを愛してしまった。僕は彼女と結婚するよ。さようならだ」
ロナルドはあっさりと、長年の婚約者であるエスカを切り捨てた。
「そんな……」
「婚約者の貸し借りなんて、そんなこと本当にできると思ったの? バカね、エスカったら、勉強ばっかりで、ほんとにおバカさん」
ミーナの高笑いが、なぜだか遠くに聞こえた。
「パーティーに一人でいるなんて、かわいそう。代わりに、クライド様をあげる。エスカにはぴったりだと思うわ」
ミーナの言葉に顔をそむけて、エスカは庭園へと逃げ出した。
* * *
「どうして、こんなことに……」
自分が情けなくて仕方がなかった。婚約者を貸してくれと言われて、了承したのが間違いだったのか? それとも、それより前から二人は繋がっていた──?
冷静になろうとしても、こぼれてくる涙と嗚咽が止められない。
ひとり泣き濡れるエスカのもとに、ハンカチがそっと差し出された。
「大丈夫ですか?」
「あなたは……?」
ハンカチを差し出してきた背の高い青年に、エスカは見覚えがなかった。
身のこなしや服装から身分の高い人であろうと推測はできるけれど、エスカの記憶にはない。こんなに立派な方を見かけたら、すぐに覚えるはずだとエスカは思った。
「はじめまして、クライド・クロップナーです」
「あなたが……」
手紙の差出人はクライド・クロップナーだった。彼がエスカをこの場に呼び出した張本人なのだ。
「辛い場面を見せてしまって、申し訳なかった。もっと早くにお声掛けをするつもりだったのですが」
「いいえ。一人だろうが、二人だろうが同じです。婚約者と友人を一緒に失ったのですから」
エスカは受け取ったハンカチで涙を拭った。嗚咽が止まると耳にワルツの音が流れてきて、楽しい思い出を彩っていたはずの音楽が、今のエスカにはとても悲しく聞こえる。
「……あなたも、婚約破棄を?」
「最初から、婚約などしておりませんよ。彼女が勘違いをしていただけです」
「婚約など、していない……?」
クライドはエスカの瞳を見つめて、にっこりと笑って、手を差し出した。
「何の慰めにもならないかもしれませんが、私と踊っていただけませんか。損はさせません」
今までのエスカなら、そんな気分になれるはずもなかった。けれど、今のエスカとクロップナー公爵令息は同じ、婚約者に不貞をはたらかれて、侮辱された立場なのだ。
「……ええ、わかりました。クロップナー様。よろしくお願いしますね」
「あなたの強く、そして広い心に敬意を払います。私の事はどうぞクライドとお呼びください」
もうどうにでもなれ、とエスカはクライドの手を取った。それに、クロップナー家の仕事ぶりは有名だ。わざわざパーティーに呼び出したうえ、損をさせないと宣言したことに、エスカはほんの少しだけ興味があった。
* * *
エスカとクライドがダンス真っ最中のパーティー会場へ舞い戻ると、先ほどのエスカとミーナ達のやりとりを見ていないはずの人々までが、二人に注目した。クライドの外見は非常に目を引くからだ。
「さぁ、エスカ。踊りましょう」
「こんな明るいところで、化粧も崩れているし……」
「だからこそです。動いていれば、誰もあなたの泣き顔を見る事は出来ない」
クライドはエスカをやさしく抱き寄せた。
「エスカ、誰、その人!」
先ほど小馬鹿にしたのをすっかり忘れたのか、ミーナが勢いよく駆けよってきた。
「こんばんは。彼女とは、先ほど意気投合しました。実は、前々からエスカ・ダズロー伯爵令嬢の事を素敵だなと思っておりまして。今日はお一人だと言うので、勇気を振り絞ってお声がけしてしまいました。是非結婚を前提としたお付き合いをさせていただければと思って、こうして口説いている最中です」
──この人、何を言っているのかしら。
エスカは自分の顔が赤くなるのを感じた。クライドは何か理由があってこんな事をしているのは間違いがないのだが、大真面目な顔でそんな恥ずかしい事を言わなくてもよいではないの、と感じてしまう。
クライドがにっこりと微笑んで、エスカがぎこちなくそれに合わせると、ミーナはぱちぱちと、信じられないものを見るような目で瞬きをした。
「エスカがこんなに立派な方と……? ひどいわ、私に紹介してくれなかったなんて。それに、あなたにはロナルド様という婚約者の人がいるでしょ。二股はダメよ。エスカったら、はしたない……」
さきほど勝利宣言をしたばかりなのに、ミーナはロナルドを返品して、今度はクライドを自分の元婚約者だと知らずにターゲットに定めたのか、エスカとロナルドの間に割って入ろうとした。
「お忘れですか。私はあなたの『元』婚約者ですよ、ミーナ・ランダル」
「は? あなたが……クライド様? 見た目が全然違う……」
泣き濡れて敗走したはずのエスカがすぐにロナルドよりも遙かに立派な紳士を連れてきて、それが自分の婚約者だと言うのだから、ミーナは傍目から見てもわかるほどに狼狽していた。
「仕事中に毎日おしゃれをする必要ないでしょう? それに、あなたとうまくいきたくはなかった」
さすがに侮辱されていると理解したのか、ミーナの顔が真っ赤になった。
「何よ、バカにして。それに……そうよ、ふたりは浮気じゃない!」
「そうだ! 二人はつながっていて、僕たちのことを馬鹿にしていたな。いや、エスカ。お前はクロップナー公爵に乗り換えるために、僕にミーナを押しつけたんだな。なんて小賢しい悪女だ……」
エスカがクライドに乗り換えた事が気に入らないのか、ミーナとロナルドがそれぞれエスカを攻撃しはじめた。ぴいぴいと騒がしいのをクライドが手で遮る。
「浮気じゃないか? それはこちらの台詞ですし──ミーナ・ランダル。あなたはこんな所にいないで、すぐにご実家に戻られた方がいい。まあ、すでにランダル家の汚職事件について捜査の手が入ったあとですが」
「な、なんでその事を……?」
「言ったでしょう。『仕事が大変だ』と。骨が折れましたよ。本当にね」
ミーナはするどい叫び声を上げて、走り去った。どうやら心当たりがたくさんあったらしい。
「私は王命を受けて、ランダル伯爵家の調査をしていました。そのついでにミーナ・ランダルに近づいたのですが──いやはや、趣味は人それぞれですね」
「お前、ミーナを騙したのか!」
ロナルドがクライドに食ってかかろうとしたが、クライドはそれをなんてことのないようにかわして、ちらりと腕時計を見た。
「ロナルド、あなたも戻った方がいい。勝手に婚約破棄を進めた事にお父上が大変お怒りで、『あのバカ息子はダズロー家から援助を受けているのを知らんのか。廃嫡するしかない』と仰ってましたよ」
クライドがにこりと微笑むと、ロナルドの顔面は蒼白になり、体がぶるぶると震えはじめた。エスカはロナルドとミーナがたとえ一時的に惹かれ合ったとしても、人間としての誠意を持って一線を越えずに踏みとどまりさえすれば、婦人として目をつぶるつもりだった。
──けれど、さすがにもう、ね。
「え、エスカ。申し訳なかった。あの女が僕を誘惑して……そんなつもりじゃなかったんだ。そう、家が事業に失敗して火の車なのは知っているだろう? だから……だから羽振りの良いランダル家に……これは僕と君との結婚生活の為でもあるんだ」
「もういいわ」
エスカはロナルドの言葉を遮った。これ以上は見苦しい。エスカには死体を蹴る趣味はない。
「も、もう、いい?」
ロナルドは許されたのかと、一瞬安堵の表情を見せた。
「あなたの言葉は聞きたくないから。さようなら」
エスカが背を向けると、ロナルドもまた、ミーナと同じように情けない叫び声をあげて走り去っていく音が聞こえた。
* * *
「……先ほどのお話、本当ですか」
パーティーが再開され、二人の悪意の余韻がなくなってから、エスカはゆっくりと口を開いた。
「ええ。一から十まで、すべて本当です」
「そうですか……」
エスカは静かに目をつぶった。喪失は辛い事だが、乗り越えられない事ではない。一呼吸置いてからゆっくりと目を開くと、エスカを心配そうに見つめるクライドと目が合った。
仕事人間と言われていたけれど、優しい目をしている、とエスカは思った。
「彼らの事はもう忘れて。このままパーティーを続けませんか?」
「……いえ。もう十分です。本日はご招待いただき、ありがとうございました」
エスカは気丈にふるまって、クライドに背を向けた。あまり彼を見ていると、ひとりになった時によりさみしさが募りそうな気がしていた。
「エスカ、ごめんなさい。待ってください、エスカ」
クライドに引き留められて、エスカは思わず立ち止まった。
「今夜はあなたの誕生日でしょう」
「誕生日の贈り物はもう、いただきました」
自分の事を大切に思ってくれない人たちと縁を切ることができたし、彼らにはこれから相応の天罰が下るだろう。
「抱えていた心のもやも、あまりの事で吹き飛んでしまいましたし……十分です。不幸の芽を摘むことができたと思えば、こちらがお礼を言いたいぐらいです」
「……それではこちらの気が済まないのです」
クライドは懐から小箱を取り出した。中には遠目からでもわかるほどにまばゆく輝く指輪がひとつ、おさまっている。エスカがあこがれていた、王都で一番有名な細工師の作品だ。
「先程の言葉、全てが真実──あなたに関しても」
「全て、が……?」
クライドは先ほど、エスカと意気投合したから結婚を前提に付き合いたい、と口にした。
「ミーナ・ランダルのことを調べるうちに、エスカ。あなたのことを知るようになりました。私の心はあなたにあります」
クライドは跪き、エスカの手を取った。
「そ、そんなに急なこと……」
エスカは狼狽した。てっきり、二人をやりこめるためのお芝居だと思っていたのに、前からあなたを想っていたと言われても──。
「私はあなたを知っている。どうか、私をあなたに、知ってもらうための機会をいただけないでしょうか」
クライドの真剣な表情をじっと見つめてから、エスカはためらいながらも、小さく頷いた。
「……ええ、これから教えてください。ゆっくりと」
エスカはクライドの手をそっと握り返した。クライドが嬉しそうに──今日一番嬉しそうに、指輪をエスカの指に嵌める。
エスカの人よりも細い指にぴったりと指輪が嵌まった。特注品のようだ。
「……あら、本当に私を知っているのですね」
「もちろんです。でも、もっと色々な事を、直接あなたからお聞きしたい」
クライドがそっと手の甲に口づけて、エスカはやさしく微笑んだ。
後日、エスカ・ダズロー伯爵令嬢と、クライド・クロップナー公爵令息の婚約が発表された。
お読みいただきありがとうございました。下の☆☆☆☆☆で評価いただけるととても嬉しいです!また、新作の短編「殿下、予言にある『滅びの魔女』は婚約者の私です。」を投稿しました。そちらも読んでいただけると嬉しいです!