第3話~菊川ユイの1日目~
菊川ユイの記憶は、居酒屋やカラオケ店が立ち並ぶ新宿区の歓楽街、歌舞伎町より始まる。
歌舞伎町……一番街?
靖国通り沿いに位置する歌舞伎町の入口、アーチの前。
冷えた外気をその身に感じながら、ユイは独りたたずんでいた。
視線をアーチの先へと飛ばせば、路地の左右には飲食店が連なり、突き出す看板の奥には沈みゆく夕日が伺える。
……歌舞伎町。
何故僕は、ここにいるのか。
状況を整理できず、ユイはなかば放心状態にあった。
旅先の朝、見知らぬ布団で目を覚ました時の、刹那の混乱にも似た感情。
しかしいくら記憶を遡ろうとしても、答えを導く引っ掛かりは見出だせず、思考は空回る。
ここまでの道のり。朝からの自分。昨日までの自分。
懸命に過去を遡ろうとするが、頭はもやがかかったかのように鈍重で、なんの情報も引き出せない。
「記憶喪失……?『私は誰?ここはどこ?』ってやつか」
僕は……菊川ユイ。それは分かる。
ここ歌舞伎町も……なんとなく土地勘はある。少なくとも初めて来た場所じゃあない。
状況整理を試みながら、ユイは一人通りを歩いていく。
雑居ビルの影は長くなり、夕暮れの繁華街は廃墟と化したかのような静謐に包まれている。
静かだ……人がいないからか。
主と客を失った雑居ビル街はなお派手な看板を掲げ、ユイに文字情報を投げつける。音はなくとも、俗っぽい街並みにはやかましさを感じさせる。
巨大な怪獣の像が見えてきたところで、ふとポケットにわずかな重みを覚え、手を伸ばした。
スマートフォン?これは僕のものか?
パスワードはかかっておらず、開いたホーム画面には、電話とメールアプリの2つのみ。
電話アプリには履歴も連絡先も確認できず、それはメールアプリも同様であった。
誰か助けになりそうな人は……。
知人に電話をかけようとして、家族すら思い出すことが出来ない自分に気が付いた。
やけに薄暗く感じるな。
警察へ通話するにも、なんと相談したものか逡巡しつつ、スマホから目線を上げた先で、ユイは信号機の電灯が消えていることに気が付いた。
いや信号機だけではない。
夜の忍び寄る街並みをよく見渡せば、道脇の電灯や店のネオンサインにも、明かりが灯っていないようだ。
街に電気が通っていない……?
思えば人がおらず声はなくても、機械的な環境音は聞こえてきてしかるべきだった。
漫画喫茶に忍び込みスマホの充電を試すが、案の定であった。
当惑のなかでさ迷い歩くうち、陽は完全に沈んでいた。
街のビル群はシルエットのように浮かび上がり、窓ガラスの一つ一つはただ夜の闇を映すだけであった。
沈黙した元・眠らない街に見切りをつけ、ユイはオフィス街へと歩を進めた。
すると進行方向の先から、風に乗って、「ジリリリリ」と音が聞こえてくることに気が付いた。
駅の方向だ……。
発信源になにか突破口があることを祈って、ユイは必死に走った。
音を頼りに駆けつけた先には、ベル音を鳴り響かせる古びた公衆電話があった。
驚くことに電話ボックスには照明が灯っていて、闇夜の路地に浮かぶ様は不気味というほかなかった。
それでもユイは、迷わずボックスに入り、受話器を手に取った。
真っ暗な無人の新宿で、ただ一つ明かりをともし、ベルを鳴らし続けた公衆電話。
誰かが何かを伝えようとしている。それが自分へのメッセージだと疑わなかった。
「もしもし」
受話器に耳を当て、じっと返答を待つ。
すると、声というより音声とも呼ぶべき、無機質な呟きが返ってきた。
『形相壱。安全な場所』
「……。君は誰?」
返事はない。
「もしもし?聞こえる?」
沈黙。会話の通じる相手なのだろうか。どうしたものかと思いあぐねていると、やがて受話器の先から「プー、プー」と音が聞こえてきた。
どうやら通話が終わったらしい。
失望のなかユイが受話器から耳を話したとき、突如、背中越しに光を感じた。
慌ててボックスを出たユイは驚いた。
外壁に阻まれ見通すことは出来ないが、そう遠くはない場所から光の柱が立ち昇り、新宿の夜空に向けて輝きを放っている。
柱のもとは、駅の方向だろうか。
いよいよファンタジーの色を濃くしてきた非日常事態を前に、ユイは、なにかに導かれていると感じていた。
先の公衆電話から聞こえてきた声を鑑みれば、安全な場所を指し示しているのかもしれない。
光の柱へ向け歩き出したユイは、再び驚愕し、悲鳴を上げることになる。
誰かに肩を、叩かれたからだ。
大島双葉と名乗る生物……人間と仮定すれば透明人間の言葉には、不可思議な点が多かった。
まずその透明人間は、この状況についてユイへ情報を求めた後で、スマホを通じてこう語った。
『人を探して山手線を一周してみた』のだと。
その一周に要する行動力と時間があるならば、まず家族や知人を訪ね周るのが尋常ではないか。天涯孤独の身という可能性もあるが、ユイの状況に照らしてみれば、その行動には一つの予感を感じさせた。
大島双葉もまた過去の記憶を欠落しており、その事実すら認識していないのではいか、と。
自信と概ね同じ立場ではないかと当たりをつけたユイは、光の柱が立つ新宿駅へと同行を求めた。
しかし返ってきた言葉は『どうして?』であり、ユイの当惑は、次の言葉でさらに深まることとなる。
『街にあるパソコンや通信機器を触ってみたけど、どれも何故か電源が入らなくて』
『どれも何故か?』……大島双葉の表現はまるで、新宿が停電状態にあることを念頭に置いていないようだった。信号機やネオンサインの消えた夜の新宿を歩けば、状況は一目瞭然であるのに、だ。
この透明人間と自分では、世界の認識が少し違うのではないか。
ユイにとって大島双葉とは、この世界の現況と等しく、未知なる存在であった。
そして新宿駅に訪れた電車が導いた先で、その答えは早くも明らかとなった。
双葉は、闇夜のなかで丘陵に立つ建物をふもとから視認すると、危なげなく辿り着き、そのうえ電気も点けずに小屋の中へ入ろうとする。
ユイは理解した。
この透明人間は、「暗さ」を認識していないのだ、と。
――失せもの その4:明暗