第2話~大島双葉の1日目(下)~
大島双葉は電車が苦手である。渋滞に並ぶ車のなかや、トイレのないバスも同様だ。
閉塞感、換言すれば逃げ場のなさを意識してしまうからだ。
急激な体調悪化、例えば突発的な吐き気や便意を催したら、どうすればいいのだろうか。
意識すると冷や汗が出て、動悸がする。
暴走した恐怖感から、自己実現的に体調が悪くなるという悪循環。
所謂パニック障害の一種とも思えたが、病院に行くことはなかった。診断が下され、この苦手意識が「病気」として確立してしまえば、自然な回復から遠ざかる気がしていたからだ。
それでも双葉は、この電車に乗り込む他なかった。
ユイが、なんの説明もなく車内へ飛び込んだからだ。
感じたのは、不安のまえに不信感であり、苛立ちだった。私の声は彼女には届かず、彼女の声は私に届く。意思疎通を図る唯一の手段は、彼女が持つスマホのみ。
理不尽な状況への鬱憤を知らずユイに向けつつ、双葉は乗車した。
菊川ユイは、自身を楽天的かつ好奇心の強い人間だと自負している。
やるべきか、やらざるべきか。
2択のなかで迷いが生じたのなら、何事も基本的には「やるべき」だと考えている。
ささやかではあるが信念であり、例外は1つしかない。
ご飯を大盛りにするか否か迷ったときだ。
だから、駅のホームに現れた見慣れぬ外装の電車に、なかば反射的に乗り込んでいた。この状況を変える手掛かりが走り去ることへの恐れが、なによりユイを強く突き動かした。
車内は暗く、乗客はおろか運転手すら乗車していないようだ。
罠の可能性は無いか。大島双葉とやらは同乗するだろうか。
考えを巡らせたのは、電車が走り出してからだった。
背もたれに体を預けて間もなく、肩を叩かれる感触を感じたので、ユイは虚空へとスマホを差し出した。
「電車が来ることは知っていたの?私たちは、何処へいくの?」
宙にスマホが浮かび上がり寸刻ののち、文字の打ち込まれた画面が向けられた。
ユイはこっくりさんを連想しながら、空中のスマホに向かって言葉を投げる。
「なにかが起きることは察していたよ。行き先は……恐らく安全なところ、かな」
「菊川さんを信頼したいから、知っていることを教えて欲しい。そもそも公衆電話で誰と話していたの?」
掴み所のない答えを嫌ったのだろうか、その文面からは苛立ちが感じられる。
「『信頼したい』か……。体よく説明責任を押し付けないでくれ。スマホの電池がもったいないから、今はただ付いてきて」
そう吐き捨てると、スマホを取り上げ、瞼を閉じた。
時間が止まったかのような、静寂が訪れた。
これで大島双葉は、僕の言葉を待つことしか出来ない。
先行き不安はお互い様だ。情報量で僕が優位にあるとでも?
僕は君の性別、見た目……いや人間かどうかすら分からないんだ。
「信頼関係の第1歩は、君が踏み出せ」
電車が、音も無く速度を落としていく。
滑らかな動きで駅のホームに吸い込まれると、ドアが開き、再び走り出すことはなかった。
歴史を感じさせる木造の駅舎、電灯は消えている。山手線の駅ではないことは明らかだった。
看板に目をやるが、駅名は掠れ、月明かりの中かろうじて読み取れた文字は2文字。
「お」……「こ」……?
ホームの外は、密度の濃い闇に閉ざされている。
夜の暗さに目が慣れてくると、暗幕の垂らされた景色の遠くに、重なりあう丘のシルエットが浮かび上がってきた。
探索は、夜が明けてからでよいだろうか。
好奇心とリスクを天秤にかけ、しばらく逡巡していると、服が引っ張られる感触があった。スマホを取り出すが、その力は弱まる気配が無い。
なるほど、付いて来い……と。
ユイは、何度も転びそうになりながらも、誘われるまま駅舎を後にし、丘を登り始めた。道中は草花に阻まれ決して歩きやすいとは言えなかったが、雲の隙間より青白く照らす月光を頼りに、黙々と足を動かした。
頂上が近づいたのだろう傾斜が緩やかになったところで、一階建ての小さな家が現れた。いや、家というよりは小屋に近いだろう粗雑な建物で、外壁はところどころ塗装が剥げていた。
目前の扉が、軋む音を立て開いていく。大島双葉が開けたのだろう。
急き立てられるように中へと手を引かれながら、反射的に玄関横にあったスイッチを押すと、電気が点いた。
まさか電気が通っているとは……。
屋内は思いのほか綺麗で、部屋の片隅にベッドが一つ備えられている。中央には大きなテーブルと椅子が1脚、机上にはノートパソコンが置いてあった。
明かりにようやく目が慣れてきたとき、椅子が動き、ノートパソコンが起動した。キーボードがカタカタと動きだし、デスクトップ上に作成されたテキストファイルに文字が打ち込まれていく。これは、大島双葉のメールアドレスか。
ベッドの下にコンセントを見つけだし、スマホの充電器を繋いだ。
充電されていくバッテリーとともに、先ほどまで焦燥に駆られていた心までも、満たされていくようだ。
「まず、付いてきてくれてありがとう。最終的に先導されるとは思わなかったけれど」
ユイが双葉のアドレスへメールを送付するや否や、パソコン上にwebメールの画面が表示され、しばらくするとユイのスマホに返信が届いた。
「こちらこそ、ごめんなさい。明らかに怪しい小屋があったから、入ってみちゃった」
「……怪しいとは?」
「駅周辺は見渡す限り花畑だったんだけど、1つだけ建物らしきものがあったからさ。人に会えるかもと思って」
「……なるほど」
「電気もインターネットも問題ないんだよね?そろそろ話を聞いてもいい?」
「もちろん」
「まず私と会う前、公衆電話で誰かと話してた?」
「話していたよ」
「相手は?仲間?」
「いや、見当もつかない」
ベッドに腰を下ろすと、スマホを片手に大島の応答を待つ。
「菊川さんはスマホを持っていたのに、公衆電話で通話していた。それはつまり、公衆電話から電話がかかってきたということ?」
存外に理性的な人間のようだ。大島双葉の人物像を改めながら、ユイは質問を返す。
「その通りだけど、すんなり信じてくれるんだね。スマホを持っているからといって、公衆電話から通話しないとは限らないし、そもそも僕がその通話相手となにか共謀しているのかも知れないよ」
「だとしたら、少し回りくどいと思う。菊川さんがこの状況を仕組んだ側で、かつ害意があるなのなら、私を見えないという設定や、この小屋までの案内に意味があるとは思えない。いや害意とは別の目的があるのかもしれないけど……」
「けど?」
「ただでさえ、分からないことだらけなんだから。あなたは味方で、かつ真実を話してくれると仮定しないと、にっちもさっちも行かないよ」
「ごもっとも。僕は君の味方だとも」
「いや私たぶん年上……25歳なんだけど……」
「とすると社会人ということ?」
「そうそう。いや、だから『君』じゃなくて……」
「社会人か……。なら大島君、次は僕が尋ねる番だ。通話内容についてはその後でもいいよね」
「……。うん」
「君、スマホに『山手線を一周した』と書いたよな?『スマホで警察とかに電話出来ないか』とも」
「そうだけど……」
「今日は平日だ。君は恐らく新宿に出勤してきたのだろう。ならば家は通勤圏内だ」
「君は何故、山手線を一周する前に、家に帰ろうとしなかったんだ?」
動きを止めたキーボードを見つめながら、ユイは言葉を続ける。
「そして、今もそうだが。家族に連絡をして、安否を確認したいとは思わないのか?」
――失せもの その3:記憶