第1話~大島双葉の1日目(上)~
世界一の乗降客数を誇る東京・新宿駅、ある平日の朝のこと。
冬の接近を感じさせる冷たい風が、山手線のホームを吹き抜けていった。
やがて、冷やされた空気を押し退けるように、電車が滑り込んでくる。ドアから、疲れた顔の人の群れを吐き出していく。
無機質で、しかし統率のとれたような行進が、何万回目かの出勤風景を形づくる。
南口の改札から流れ出る人混みのなかに、肩で風を切って歩く一人の女性の姿があった。
身長は165センチ程度、すらりとした体型に、パンツスーツが似合っている。かわいいというより、綺麗と表現されるような、凛とした顔立ち。
大島双葉25才、社会人3年目の秋。彼女もまた、出勤の途上であった。
今日は仕事を早めに切り上げて医者に行こうだとか、そんなことを考えながら、職場へと歩みを進めていた。
駅を出て、3分も歩いただろうか。違和感が、双葉の足を止めた。
人がいない……。
いつからだろう、見慣れたオフィス街が静謐に覆われている。
後ろを振り返り、辺りを見回すも、やはり人の気配はない。
駅の人波は、どこへ消えた。
今日は平日のはず……。
日付を確認しようとリュックを漁る。スマホが見つからないことに気が付くと、たらり冷汗が垂れた。
困惑が不安へ、そして恐怖へと転じることに、さして時間はかからなかった。
静まり返った交差点、行き交うもののない道路、無人のコンビニ。
高まる動悸を感じながら、足を速めて職場を目指す。
事件?ドッキリ番組?それとも夢?
がらんどうになった職場をあとにした双葉は、半ばパニックになりながら、無人駅と化した新宿駅ホームの椅子に腰を下ろした。
……怖い。
一体なにが起こっている?人はどこ?消された?ここは危険……?誰か……。
人とインターネット、2つの繋がりを絶たれた今、双葉は独りの人間の矮小さを痛切に感じていた。
無力感を懸命に振り払うが、頭にもやがかかったように、思考が働かない。
心因性のものだろうか、眩暈までしてきた。
頭のふらつきが収まるまで、双葉は電車が訪れる気配のない線路を眺めていた。
……当面の目標は、他の人間を探すこと。
食糧は……コンビニから拝借しようか。
徐々に落ち着きを取り戻しながら、双葉は行動計画を立て始める。
途方に暮れたときは、まず小さな目標を設け、その達成のためだけに体を動かす。
その繰り返しこそが立て直しのコツだと、双葉は考えている。
辺りを闇雲に歩き回っても非効率と考え、自転車を拝借し、山手線の路線沿いを探索してみることにした。
山手線を一周し、双葉が再び新宿に帰ってきたのは、それから約7時間後のことである。
およそ散策には適さないスーツ姿に加えて、人の気配や連絡手段を求め多くの寄り道を挟んだにしては、探索は想定を超えてスムーズに進んだ。
不自然なほどに身体的疲労を感じなかったためだ。
調達した食料も、喉の渇きや空腹を感じなかったため、手をつけずにいた。
残念ながら想定通りだったことは、人の気配を認められなかったことである。
いや人間どころか、鳥や野良猫といった野生動物さえ見つからなかった。
そもそもここは現実の世界なのだろうか?
次の目標は……脱出方法を探ることだろうか。
なんとはなしに再び新宿駅の方向へ歩を進めていた、そのときだった。
風にのって、微かな物音……いや誰かの話し声が聞こえた気がした。
距離は近い。
小走りになりながら、声の聞こえた方向へ狭い路地を曲がる。
視界に飛び込んだのは、道路脇に設置されている古びた電話ボックスと、中から出てきた少女だった。
「ね、ねぇ!どこから来たの!?」
思わず裏返った声が、路地裏に響いた。
返答はない。
私より2回りは小さいだろう、パーカー姿の小柄な少女は、一本に束ねられたおさげがみを揺らしながら、こちらに向かってくる。
距離が縮まるにつれ、眼鏡越しにパッチリとした目が覗く、美少女といえる顔立ちが伺えた。
「突然ごめんなさい。あ、私、大島と言って……」
歩みを止めない少女に戸惑いながらも、双葉は再度声をかける。
しかし少女は身じろぎはおろか、表情1つ変える様子がない。
耳が聞こえない……?いや、そもそも視界に入っているはず……。
「あ……あの……」
すれ違いそうになる少女に焦りを感じ、思わず肩を掴む。
「ぬわーー!!」
少女は、雷にでも打たれたかのように飛び上がると、大きな目をさらに見開き、ビル街に響き渡るような悲鳴を上げた。
想定外のリアクションに、双葉の心臓も跳ね上がる。
立ち止まった少女は、息を整えると、眉間にシワを寄せ、視線を遠いところに飛ばし、再び沈黙した。
少女の視線の先には、特別なにもないようだった。
静かな時間が続く。再び触れてもよいものか。
少女の横顔を見つめていると、落ち着きを取り戻した柔らかな声が聞こえてきた。
「君が人間で、かつ僕に敵意がないのなら、肩を2回叩いてくれないかい?」
大人びた口調に、あどけなさを残した声色がミスマッチだ。双葉は、ゆっくりと少女の肩を2回叩く。
「僕の声は聞こえているのか……。僕は君の姿が見えない。既に話し掛けてくれているのだとしたら、恐らく声も聞こえていない。そうだな、このスマホに文字を打ってみてはくれないか」
少女はパーカーのポケットからスマホを取り出すと、電源をつけ、前方へ差し出した。
双葉はスマホを拝借すると、要点だけ伝わるよう文字を打ち込む。
「私は大島双葉。今日の朝から、あなた以外に人が見つからない。あなたのことは見えているし、声も聞こえている。この状況について、なにか知ってる?」
少女はスマホに目を落とすと、再び虚空へと目線を上げ、言葉を選ぶように喋りだした。
「えーと……まずは初めまして、僕は菊川ユイ。この状況、つまり人が消えてしまった理由は、僕にも分からない。君こそ何か情報は?今まで何を?」
「人を探して……」
口に出してから、何故かユイの耳には聞こえていないことを思い出し、双葉はスマホへと書き込んだ。
「人を探して山手線を一周してみた。でも人はいなかった」
「山手線を一周!?……まぁ、そうだろうね。取り敢えず、あそこまで行ってみない?」
ユイの細い指先が示す方向には、新宿駅がある。
「どうして?」
「どうしてって……。まぁ、取り合えず付いて来て」
「いや待って菊川……さん。そのスマホで警察とかに電話は出来ないの?私のスマホは何処かにいってしまったし、街にあるパソコンや通信機器を触ってみたけど、どれも何故か電源が入らなくて」
「何故もなにも……。いや、何度か試したけれど電話は誰にも繋がらなかったよ。バッテリーに限りがあるから、どうしても伝えたいことがある時だけ肩を叩いてくれ。スマホを貸すよ」
ユイの引っ掛かりのある言葉と、その強引な姿勢に、双葉は思わず眉を顰める。
バッテリーについても充電という考えが頭によぎるが、賢そうな彼女のことだ、とうに試した後だろう。
双葉からスマホを受け取ると、ユイは言った。
「えーと、今後、賛成は肩を2回、反対は肩を3回叩いてもらうことにしようか」
今日3度目の訪問となる新宿駅の山手線ホームを包む空気は、一層冷え込んでいた。
途中、コンビニから拝借した筆記具で筆談を試みたが、彼女のスマホに打ち込まれる文字以外は、ユイの目に見えないようだった。
透明人間にでもなったような気分だった。
それとも、私とユイ以外の、総ての人間が透明になってしまったか。
双葉は、ユイに訪ねたいことが山程ある反面、その肩を叩けずにいた。
スマホの電池もさることながら、その横顔は、なにかを待っているように見えたからだ。
しばしの静謐。破ったのはユイの方からだった。
「内側まで、下がった方がいいよ」
「……なんのこと?」
反射的に口から出た言葉は、ユイの耳に届くことはない。
だが、その意図は直ぐに明らかになった。
ブレーキ音を轟かせ、ホームに電車が姿を現したからだ。
――失せもの その2:「人間」