プロローグ~2日目①ようこそ来世へ~
「将来の夢」、なんて言葉がある。
いわゆる人生目標を指すが、そのような贅沢品を持つ人間など、どれ程いるというのか。
少なくとも大島 双葉は、ただ漠然と生きてきた25年間のなかに、未だ目的意識を見出せずにいる。
彼女にとって人生とは、日々の積み重ねではなく、日々のやり過ごしであり、長い暇つぶしに過ぎなかった。
そんな双葉だって、どうせ明日も生きてはいくのだから、人並み程度には幸せを求めている。
だから彼女は人生に、自分なりの「努力目標」を設定していた。
それは、心残りのない終わりを迎えることだ。
出来る限り日々の中から後悔を減らし、そのまま死へと逃げ切ること。
思えば人生には、目標など掲げるまでもなく、死という最終到達点が平等に設定されている。
「この世界に未練はない、存分に堪能した。さて、死後の世界はあるのかな」
映画を見終わり、流れるエンドロール。本編の余韻に浸りながら、ポストクレジットに期待するような心持ちで、人生の終わりを迎えられるなら。
死という究極の未知ですら、希望に換えられはしないだろうか。
終わり良ければ総て良し。
そんな発想のなかで、双葉は小市民的な毎日をやり過ごしてきたのだった。
ついこの間までは。
――大島 双葉がこの未知にまみれた世界に迷い込んで、2日目になる。
次第に強まる雨音に気を取られ、双葉はキーボードを叩く手を止めた。
顔を上げると、窓越しに陰鬱な天気が窺えた。低く厚い雲に覆われた空と、その下の花畑。奇妙な形をした花々が、雨に打たれ首を傾げている。
「この世界にも雨は降るんだな……」
呟きは、静けさのなかへと消えていった。
行き場のない倦怠感から逃がれるように、ノートパソコンの電源を落とそうとしたとき。
「この世界について、また1つの仮説を思い付いた」
唐突な投げ掛けに、電源へと伸ばした手を止める。
机上のパソコンから部屋の隅に目を移せば、ベッドに寝転がりスマホを弄る少女がいた。
「まだ続けるの?眠るんじゃなかったの?」
「眠れるものならね。この世界では、やはり眠ることは出来ないようだよ」
この世界で唯一の知人、菊川 ユイ。
のそのそと上体を起こしながら、彼女は言葉を続ける。
「あまりに眠れないから、眠りとはなんたるかを考えていたんだ」
余計、眠れなくなりそうなものだ。
「そもそも睡眠とは、死の疑似体験だと思うんだよ」
返事も待たずに、ユイは続ける。
「怪訝な顔をするなよ大島くん。見なくても分かるよ。でもね、意識を手放す、という点で、眠りも死も似たようなものだと思わないかい?」
眠ることを完全に諦めたらしい。
ベッドに腰掛けたユイは、スマホを片手に、器用な体勢で靴を履き直している。
「どうやら科学的な話じゃないね」
「非科学的な世界にいるからね。大島くんは、夜更かしした経験はある?」
「人並みにはあると思うよ」
「どんなときだい?」
「思いふけったときとか、本に熱中したときとかじゃない。思い出せないけど」
ユイは、枕元に置いていた眼鏡を掛け直すと、したり顔で頷いた。
「つまりは、『明日』を先延ばしにしたいときだろう。充実感が足りず、その日に満足していないときだ」
理解はできる。出勤を控えた日曜日の夜に限って、ついスマホをいじり夜更かししてしまうものだ。
「眠るという選択は、否が応でも今日の未練を断つこと。そして、日々の締めくくりを重ねた先に、死が待っている。そう考えると日々の睡眠とは、未練のない永眠に向けた、予行練習とも言えそうじゃないか」
着地の見えないご高説に半ばうんざりしながら、双葉は結論を急かす。
「なにが言いたいの?」
「この世界ではどうして睡眠が不要なのか。それはやはり、ここがもう死後の世界なんじゃないかってこと」
雨足は、一向に弱まる気配がない。
この世界について、昨日からユイと沢山の仮説を交わしていた。情報量に乏しいなかでの議論はさほど建設的とも思えなかったが、他にするべきことも思いつかなかったのだ。
ここは、あの世。私たちはもう、死んでいる。
有力説の1つであり、昨日の放浪のなかで、幾度も頭をよぎっていた。
この世界は、異世界と呼ぶには、あまりに華がない。
魔法が使える気配もないし、空にドラゴンが飛んでいる様子もない。
かといって、現実だとは思えない。
人をはじめ、生き物がいない。そして驚くことに夜が来ない。極めつけに、眠気と空腹も訪れる様子がない。
この世界には、多くのものが欠落していた。
「外の空気を吸ってくるね」
返事を待つこともなくパソコンの電源を落とすと、双葉は席を立ち、軋むドアをこじ開けた。
雨の匂い。眼下には丘陵が広がり、彼岸花の絨毯が覆っている。
「あの世」説を安直なまでに主張する、どうにも陰気臭い光景である。
美しさより異様さが勝る景色の奥、丘のふもとに、古びた駅舎がうっすらと見えている。私たちが昨日、歩いてきた方向だ。
しばしの静謐のなかで、嫌な想像ばかりが去来する。
キィ……
背後から聞こえたドアの音で、双葉は我に返った。
「おーい、どこにいるの?風邪ひいちゃうよ」
私たちが昨日辿りついた、古びた掘っ建て小屋。大きさはコンビニ程度、年期の入った木造の平屋。
そのドアの隙間から、ユイがそろりと顔を覗かせた。
外に出てこないのは、スマホが雨に濡れることを恐れてだろう。
この世界でも風邪はひくのだろうか。興味はあったが、少なくとも寒さは感じる。
ユイは小屋の入り口にたたずみ、きょろきょろと辺りを見回している。
「ここにいるよ、今戻るから中に入ってくれない?」
双葉は入り口まで戻るとユイのスマホを取り上げ、文字を打ち込んだ。
これなら、パソコンからメッセージを送らずとも、私の言葉を認識することができるだろう。
「それとね、さっきの、ここが死後の世界だという話だけれど」
ユイがスマホに目を通したことを確認すると、文字入力を続ける。
「睡眠は永眠の予行練習だって、言っていたよね」
「正確には、書いたね」
「ここがあの世だとして、少なくとも私たちは『永眠』してないようだよ」
スマホを覗き込んでいたユイは、顔を上げた。
双葉を探すように視線を彷徨わせると、やがて目を閉じ、言葉を放った。
「なるほど。じゃあここからが、本番だ」
この世界で確かなことは2つ。1つ目は、今ここにいる私たち。
そして2つ目は、この世界についてまだ何も知らないということ。
厭世的な気分になるには、やや時期尚早なのだろう。
部屋に戻る。
ぶつかりそうになるユイを避けながら、双葉は窓際に接したデスクへと戻り、再びノートパソコンを立ち上げる。
「あっ」
お決まりの位置と化したベッドに腰を下ろしたユイが、何かに気がついたように窓越しの空を見上げた。
つられて視線を飛ばす。
「雨が上がりそうだね。止んだら、この世界とやらを少し散策してみようか」
スマホを見たユイはどこか呆気にとられたような表情を浮かべたあと、口元をゆるめた。
「賛成。あの世の散歩か。気分までは晴れやかにならないね」
「『あの世』か……。別にまだ死んだと決まったわけじゃないけどね」
「言葉の綾だよ」
「異世界かも知れないよ?」
「では間を取って仮称しよう。来世、と」
――失せもの その1「睡眠」
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