告白
誰かの我儘のために生かされ殺され、結局その文化は脈々と受け継がれて現代も変わらずに存在する。光による種の多様化が起こっても、結局、本当に変わったのは個を構成する粒子の割合と、それが形作る容姿だけだったのだ。それを進化と呼ぶのなら、何て無駄な営みだろう。
なんとなく気分が悪いまま、僕はしばらく城内を彷徨った。体内時計で食事の時間を感じ、僕は無意識に食堂の前まで来ていた。隣のキッチンを覗くと、フリードリヒがパイ生地を一生懸命捏ねていた。いつも羽織っている身の丈に合わないマントを脱いだ彼女は、一回りも二回りも小さく見える。
「まだご飯の時間じゃないよ。」
僕の気配を察して、彼女は粉まみれの顔をこちらに向ける。僕は無言でキッチンに入り、彼女の前に片膝をついて、ハンカチで顔の粉を優しく払った。
「魔王様。どうかこの僕に、お手伝をさせていただけないでしょうか。」
僕はほとんど何も考えずにそう口走っていた。言い終わってから、慌てて心の中で、久々に味のあるものが食べたいから、と理由を後付けする。
「……いいよ。じゃあ、手を洗ってきて。」
腕まくりをして、手を入念に洗った僕は、改めて台の上を見た。小麦粉、卵、ミルク、バター、砂糖、そしてりんご。これだけごく普通の材料を揃えておきながら、全ての味を綺麗さっぱり無くすことができるなんて、一体どんな作り方をしているのか単純に気になった。
僕は彼女に指示されるがままにりんごの皮を剥いた。その間、彼女は卵黄と砂糖、小麦粉を混ぜ、そこに熱したミルクを加えて濾し、鍋に移した薄い黄色の液を火にかける。料理経験の少ない僕でも、ここまでで怪しい動きをしていないことが分かる。しかしこの時点で香ってくるはずの匂いは一切漂って来なかった。無意識に魔法で匂いや味を消してしまったのだろうか、などと考えながら、僕は切ったりんごを鍋に移す。
最終的に、僕が作ったりんごのコンポート以外の香りだけがキッチンを占領していた。それでも、久々に嗅ぐ果実の甘い匂いに、僕の久しく忘れていたあらゆる感覚が歓声を上げる。
「いい匂い。シェアトは料理が上手だね。」
上手に焼けたアップルパイを見て、フリードリヒは無表情の中に喜びを垣間見せる。僕は熱いのも忘れてパイを六等分に切り、手際良く一切れを皿に乗せた。
「まだご飯の時間じゃないよ。」
「作りたてを食べられるのは、作った者の特権ですよ、魔王様。」
僕は適当に理由をつけて、味覚を呼び起こしたい欲を満たそうとした。彼女も同じだったのだろう。すぐに「そうだね」と返し、急いでフォークを二本持って来た。
サクッと音を立て、フォークがパイに沈む。明らかに不公平な二等分の小さい方を僕が、大きい方をフリードリヒがフォークで刺す。
「では。」
「……いただきます。」
案の定りんごと砂糖の味だけしかしないそれは、アップルパイの最低基準をギリギリクリアしていないようなレベルだったが、それでも僕は一生懸命味わおうと噛み続けた。りんごの部分以外は普段と変わらず食感だけがある固形物だったが、口の隅々まで果汁が行き渡ってからは、そんなことは気にもならなくなった。
不意に服を掴まれ、僕はフリードリヒの方を見た。彼女も僕の顔を見ていた。目を見開いて、驚いた顔のまま、彼女は泣いていた。僕は慌てて片膝をついて彼女と同じ目線になるよう身を屈め、ハンカチで涙を拭う。それでも次から次へとこぼれ落ちる水の粒が、僕の焦燥感を煽る。彼女を泣かせたと知れたら、ロスト達に殺されるのではないか、と。
「魔王様、大丈夫ですか?」
「……………………シェアト、アップルパイ、美味しいね。」
嗚咽混じりの震えた声で、フリードリヒはやっと言葉を吐き出した。たったそれだけのことで、と、僕は一瞬安堵した。その瞬間、彼女の顔がグッと近づき、左に逸れる。僕の肩の上に腕を回し、縋るように抱きついてきた彼女の小さな体を、僕は黙したままそっと抱き返した。こんなにも誰かを哀れみ、愛おしいと感じたのは生まれて初めてだったから、きっと僕の腕は機械のようにぎこちなかったのだろう。それでも何とか彼女の背中を撫でた。僕の体温が、冷たい彼女の体に溶けて染み込んでいく。二人の間にある温度差が一定になるまで、僕は呼吸のない彼女の悲しいほど静かな体を抱き続けた。
「……あのね、ぼくね、殺されちゃったんだ。」
彼女の弱みなど、もうどうでも良かった。僕は不用意に差し伸べた優しさの代償を払うために、彼女の言葉を受け止めるように深く頷いた。
「名前を絶やしちゃいけないんだって。みんな死に続けるのを怖がって、ぼくだけが殺されちゃった。面白いよね。」
面白いものか、と思いながらも、僕は意思に反して頷いた。この境遇の奇妙な不一致を、僕は少しもどかしく感じていた。抵抗できなかった彼女の痛みと、逃げ出した僕の痛みは完全に別物だ。
「お父さんと、お母さんと、おじいちゃんと、おばあちゃんと、執事のおじさんと、メイドのお姉さんと、庭師のお兄さんが、お人形のお家にいるぼくを引っ張り出して、ぼくはみんなに殺されちゃった。魔法陣の上で、いっぱい殴られたよ。いっぱい刺されたよ。いっぱい切られたよ。でもね、ぼくは黙ってた。みんなのことが大好きだから黙ってた。痛くても、苦しくても、悲しくても、憎くても、ずっと、ずっと黙ってたんだよ。」
僕は畑で見た収穫の光景を思い出した。あの時見た赤黒い八体の獣は、彼女を殺した大人達の投影だったのだ。全てはやり場のない怒りや悲しみをぶつけて心の安寧を得るための儀式。子供が物に当たるのと同じ、ただの八つ当たりだ。復讐したくてもできなかった。彼らのことが大好きだから……。
「わがままでいいから、悪い子でいいから、ぼくは生きたかった。毎日お話を聞きながら眠って、毎日美味しいものを食べて、毎日光の中で走り回って、毎日、生きたかった。大好きなみんなと、ずっと一緒に生きたかったんだ。」
彼女が体重を預けてくる。僕はそれに応えようと、彼女の頭を撫でる。手のひらに、僕が今与えられるだけの愛を込めて。いつの間にか僕も泣いていた。同時に、彼女の無垢な願望を捨てさせた、顔も名前も知らぬ大人達に激しい怒りを覚えた。
「……シェアト、ぼくは悪い子になっちゃったよ。ずっと我慢してきたのに、ご飯を食べちゃったよ。死んじゃった人は、ご飯を食べなくていいのにね。」
「魔王様は何も悪くありません。唆したのは僕です。あなたは何も悪くないんだ。」
彼女は顔を上げ、僕を見つめた。鼻先が触れるか触れないかという距離にいる、呼吸のない彼女の顔。可哀想に、貪欲な黒い瞳が小さく揺れている。
「もう二度と食べないから、ぼくを嫌いにならないで。お願い……。」
……ああ、可哀想に。僕をあの大人達と同じだと思っている。違う、僕はあなたの欲望を満たしたいんだ。伝えなければ。僕が、僕だけが魔王様の味方であると伝えなければ。
「……魔王様、どうかご自分に正直になってください。我慢できなかったからと言って、僕はあなたを嫌ったり、我儘だと罵ったりはしません。」
僕は彼女の頬に触れた。微かに温くなった柔肌に、僕の手の熱が移動して、やがて均一になる。
「僕はロストの体の仕組みについてあまり詳しくないのですが、食事や睡眠が一切出来ないわけではないのでしょう?」
「……ぼくはできる。でも、必要ないんだ。」
悲しげに吐き捨てる彼女に、僕は優しく微笑む。
「『必要ない』というのは、『やってはいけない』ということではないのです。寝てもいいし、寝なくてもいい。食べてもいいし、食べなくてもいい。全て、あなたの御心のままに、自由に選択して良いのです。」
「…………本当に、それでいいの?」
まだ懐疑的な彼女に、僕は「それで良い」と強く肯定した。誰かに都合の良い存在になるために、自分を騙し続けることに意味などない。その事実を、僕は誰よりも理解していた。
「……じゃあ、今度から、一緒にご飯を食べようね。」
「はい、魔王様。」
僕はゆっくりと頷き、彼女の唇に優しく口付けをした。まだ唇に微かに甘みが残っていたために、僕たちは空腹の存在を思い出した。