玩具
エラトステネス。光の時間か闇の時間かもよく分からない中途半端な暗さのその国は、生きる屍、通称ロストで満ちていた。ロストは人のように生活しながら、星の民を使役し、痛めつけ、笑っている。その異様さと残酷さは、社会科の授業で習った以上のものだった。僕とフリードリヒを乗せた馬車は石造の街を駆け抜け、荒野に出る。その先にはくすんだ緑と城のようなものがぼんやりと見えた。この国の南部は港と石畳の市街地が多かったが、北部、ブランデンブルク領は逆に緑豊かで、農村が多い様子だ。寒さによる霜のせいで、どこか彩度が低くくすんだような色合いの風景を眺めながら、僕はこれからの生活に嫌々思いを馳せた。
「おかえりなさいませ、魔王様。」
僕たちを出迎えたのは二メートル以上はある胴長の細い体をした首のない影だった。道中で同じような異形のロストを見てきたのであまり驚かなかったが、あの機械人形を思い出させる体格で少し怖気付いてしまった。
「ただいま、せばすちゃん。」
せばすちゃんと呼ばれたロストは、三本に分かれた大ぶりな枝のような右手を腹辺りに添え、恭しくお辞儀した。
「また新しい玩具を買ったのですか。」
「うん、前のは捨てておいて。」
かしこまりました、と再び一礼して、せばすちゃんは城の奥へ消えていった。僕は紐で引かれるがまま、フリードリヒの部屋へ連れて行かれた。途中、何かの肉片のようなものを持ったせばすちゃんとすれ違い、心臓が爆音を一つ立てて跳ね上がる。僕は心臓が出てこないように口を強く押さえた。そして絶対に気にしてはならないと思い、脳裏に焼きつこうとする今の光景を追い出そうと首を振った……。
「さて、まずは烙印をつけて、綺麗なお洋服を着せてあげなくちゃ。」
フリードリヒは王笏を振りかざした。それと同時に、奇妙な形の王笏は、彼女の小さな手には少し不釣り合いな大きな木製の判子に姿を変える。僕は烙印と聞いて、思わず小さな悲鳴をあげて後退りした。
「……押さえつけておいた方がいいかな。」
彼女がそう言うと、どこからともなく女中姿の影が数人現れ、僕を仰向けに寝かせて動かないように羽交い締めにした。あまりに急なことに抵抗できず、呆気に取られる僕の上に跨がり、フリードリヒは口を不気味な三日月型に歪めた。それが彼女の精一杯の優しい顔であることも知らず、僕は恐怖で叫び声を上げた。振り解こうともがいてみたが、女中のロストは異様に力が強く、腕や足に走る痛みで動く気力を削がれる。彼女たちの顔のない顔が、全て僕の方に向けられる。無情な黒い顔達の、その妙な冷たさ……。
「よし、左にしようか。」
けたたましく叫ぶ僕の口を片手で塞ぎ、フリードリヒは僕の左頬に判子を押し当てた。見た目は確かにただの木製の判子だったはずなのに、それが触れた部分が急激に焼けつくような痛みに襲われる。ちくちくと刺さるような痛みが、熱を持って加速していく。それを冷まそうと、僕の涙腺が勝手に放水を始めた。しかしその水も、やがて熱を帯びて痛みを助長し始める。嫌だ、痛い。熱い。怖い。僕の無様な叫び声が、彼女の掌に吸い込まれて消えていく。
「……うん、上手にできた。これできみは正式にぼくの玩具になったね。」
涙で歪んだ視界の中で、歪んだ彼女が笑っている。それを最後に見た後、僕の世界は暗転した……。
それからはあまり記憶に残っていないが、体を綺麗に洗われ、真新しい服を着せられて、いつの間にか先ほどとは別の部屋で、呆けたままソファーの上に座っていた。
「シェアト、大丈夫?」
フリードリヒが部屋の扉を両手で押し開けて入ってきた。判子が王笏に戻っているのを真っ先に確認し、僕は安堵のため息を吐く。
「ごめんね、あんなに痛がるとは思ってないなくて。そういえば、星の民って痛みに弱いんだったね。すっかり忘れてたよ。ごめんね。」
そう言って、彼女は僕の目の前に立った。嘘だ、あれだけ楽しそうに笑っておいて。謝る気などさらさら無いはずだ。
「……あなたは、星の民ではないのですか。」
「ずっと前はそうだった。でも今は違うね。」
彼女が何であろうと、もうどうでも良かったのに。僕はぼんやりしている頭の中が晴れ上がるのを待ちながら、彼女の話を聞いていた。
「ロストになったらね、ずっとご飯を食べなくていいの。ずっと寝なくてもいいの。だからね、ずっと遊んでていいんだよ。最初はすっごく嫌だけど、だんだん楽しいって思うの。怖いのも、痛いのも、辛いのも全部全部忘れていって、最後には楽しいとか嬉しいとか、そういうのしかなくなっちゃうんだよ。素敵だよね、そう思うよね。」
「……ええ、とても……素敵だと、思います。」
そんなありきたりな返答でも、フリードリヒは喜んだ。ヘドロのような濁った瞳でも、壁のような無表情でも、確かに喜んでいると分かる。それが僕のエゴだとしても。
「お腹すいた? お腹すいたよね? ぼくね、シェアトにご飯作ってあげたんだよ。……『立って』。」
僕の返事を待たず、彼女は僕の手を引っ張る。不意に左頬が痛み、僕は無理やり立ち上がった。いや、正確には、フリードリヒの言葉に反応して烙印が熱を持ち、彼女の魔力が体を駆け巡り、神経に作用して体が動いたように感じた。そうして慌ただしく立ち上がった瞬間、痛みが瞬時に消え去ったのだった。
「じゃあ行こうか。」
今度は自分の意思で、僕は動いた。従わなければまた痛みに襲われる。彼女の温度のない掌との間に、じわりと汗が滲む。ダイニングルームに連れて来られた僕は、案内されるがままに大きな長いテーブルの一番端の席に座らされた。薄暗い部屋の中、銀の燭台に灯る赤黒い炎だけが光源で、テーブルの隅から隅までびっしりと置かれた料理皿の存在をぼんやりと認識したが、そのほとんどがよく見えない状態だ。
「好きなのを食べていいよ。」
フリードリヒは僕の隣に椅子を寄せて座った。一番近くの皿を見ると、アップルパイのような形をしたものが乗っている。僕はそれを一切れ食べてみた。
「……味が、無い。」
うっかり口が滑り、僕は慌てて取り繕うとして彼女の方を見た。しかし、彼女は怒るでも悲しむでもなく、頬杖をついて皿を眺めている。
「色と形は覚えてるけど、味と匂いが思い出せないの。材料はちゃんと合ってるはずなのに、おかしいよね?」
こんなに完全に素材の味を殺せるものか、と、僕は心の中で言い返した。しかし、僕は持ち得る全ての優しさで目の前の物質を食べ、皿を一枚だけ空にした。テーブルの上をよく見ると、アップルパイがいくつも点在していることに気がついたからだ。きっと味を思い出そうとして、何度も焼いたのだろう。食感のあるパサついた水のようなその物質を、僕はもうそれ以上食べる気にはなれなかった。
「お腹いっぱい?」
「……はい。」
フリードリヒはその答えに満足して、椅子から降りた。
「あとはそうじちゃんが食べてくれるからもういいよ。ごちそうさましようね。」
僕はまた、手を引かれて立ち上がる。それを見計らって、ツノの生えた大きな芋虫のような影が二匹、テーブルの上に這い登った。あれもロストの一種なのだろう。それらは必ず二匹で行動する習性があるらしく、一組、また一組とテーブルの上に登っていく。そうじちゃん、と呼ばれたそのロストたちは、残った料理を片っ端から食べていった。その様子を見送りながら、僕らは部屋を後にした。
「さて、星の子は寝る時間だよ。明日は面白いものを見せてあげるから、今日はもうおやすみなさいしようね。」
僕はまるで人形のように乱雑にベッドに押し込められて、子供のように胸あたりをトントンと軽く叩かれる。仕方なく僕が眼鏡を外して目を閉じると、彼女は満足げに僕の頭を撫で、音を立てないように静かに去っていった。ああそうか、全てままごとなんだ。彼女は人形遊びがしたいだけ。……どこまで行っても、僕には人形にされるしかないのか。それでも、あの家の操り人形になるよりは楽でいいかも知れない。でも、誰かの思い通りにさせられるのは性に合わない。利用されるより利用する方がずっと気分が良い。そうだ、フリードリヒにもっと気に入られて、いずれ僕が主導権を握ればいい。簡単なことだ。女なんて、特に子供なんて、捨てられたくないがために、好きな奴の言うことを何でも聞く単純な生き物だから。……ああ、ロストだからもう死に物か。細かいことはさておき、とにかくその時まで、嫌でも媚を売って、耐えて、耐えて、耐えるんだ。いつか絶対、あいつのことを「可哀想」って見下してやるんだ……。