邂逅
「……兄様は、どうしてお父様達の言うことを聞かないのですか?」
課題をやる手を止め、エニフが顔を上げる。僕は眼鏡を指で軽く押し上げ、本を読むふりをしながら、彼の方を向かずに答える。
「聞く必要があれば聞きます。」
それ以上でもそれ以下でもなく、僕はただ思ったことを口にした。きっと望んだ答えではなかったのだろう、エニフは視線を少し泳がせてから俯いた。
「兄様は、やっぱり賢いですね。」
エニフはそう呟きながら口端を歪めた。この時のことはよく覚えている。エニフがテオフィルス魔法学校初等部に通い始めた頃、僕が初等部の生徒会長になった頃の記憶。
僕は学校では優等生だった。子供らしいことがあまり出来なくて、周囲より幾分賢く、統率力があった僕は、歴代のペガス家の子供がそうして来たように、常に誰かの上に立ってきた。そうして自ずと生徒会長に選出された。しかし、僕が持て囃されたのは学校にいる時だけで、家に帰ると僕はほとんど居ない者のように扱われた。最低限の衣食住だけを与えられるだけの牢獄。それでも僕は、弟のように大人達に媚びへつらうよりはマシだと思っていた。『良い子』であるエニフには、望むものは何でも与えられた。僕は彼と関わらないように隔離されていた。僕の叛骨精神に感染しないように、と。自分たちが操る人形の本心も見抜けないくせに。
この日は珍しく、エニフが僕と一緒に勉強したいと言ったために、父の書斎を二人で貸し切ることになった。僕たち以外に誰もいない。二人きりでいるのは本当に久しぶりで、最後に話したのはエニフが物心つく前だったと記憶している。彼に合わせて、僕は赤子の言葉で会話した。今では言語を駆使し、何の可愛げもない言葉を二、三、お互いに吐いて拾ってを繰り返すだけだった。
「……言うことを聞いていれば、何でも手に入りますのに。」
「そうしたければどうぞご自由に。僕は結構です。」
最後にそんな会話をして、僕の意識は覚醒へ向かう。
…………カシャン、カシャン、カシャン。
規則正しい間隔で鳴る金属の擦れる音に、僕は目を覚ました。見上げると、少なくとも身の丈二メートル以上はある大きな機械人形が、僕を見下ろして顔のない頭を歪めて笑っていた。
「おや、これは美しい星の子供。星の子供が落ちている。」
ノイズ混じりの機械音声が、僕にはとてもおぞましく思えた。しかし、逃げる体力もなく、微妙にズレた眼鏡を定位置に押し戻す事もできず、ただ黙ってそいつを見つめる以外にどうしようもない。機械人形はそんな僕の首根っこを掴み上げ、丸いプラズマの顔をグッと近づけると、
「これは観賞用だろうか。観賞用だろうか。うむ、静かな子供は観賞用に限る。」
と、ぶつぶつ呟いた。そうして、ひとしきり品定めをした後、何の抵抗も出来ない僕を乱雑に袋に入れて、機械人形はまた体の金属を鳴らして歩き出した。
袋から脱出した時には、僕はすでに薄暗い檻の中にいた。機械人形は人売りだと、僕は理解しながらもどこか現実味がなく感じて、暴れるでも叫ぶでもなく、ただ呆けたようにぼんやりと檻の外を眺めていた。檻の外は若干明度が高く、無機質な石造の壁が白っぽく見える。
「……アア、お得意様がおいでになった。皆々、歓迎を、歓迎を。」
あの機械人形の声だ。僕は急に心臓を握りつぶされたかのように感じて、咄嗟に胸を押さえた。
「マシーナ、今日はどんな玩具が揃っている?」
不意に廊下の向こうから聞こえる女児の声。口ぶりから、僕のように捕まっている子供の声ではない。どうやら買い付けに来た“お得意様”のようだ。
「フリードリヒ・フォン・ブランデンブルク様、本日もご来店いただき誠にありがとうございます。ええ、ええ、本日は大変面白い玩具を仕入れたのでございます。とても貴重な代物でして……、ぜひ、あなた様にのみ、ご紹介させていただきたく。」
「ほう、それは楽しみだ。」
小さな足音と軋む機械音が、こちらに近づいてくる。僕は暴れる心臓を押さえつけながら俯いた。それとほぼ同時に、足音が僕の檻の前で止まる。
「こちらにございます。」
「なんだ、ただの星の子ではないか。」
幼い声にただの星の子、と言われ、僕は急に腹が立って顔を上げた。お前に何が分かる、と怒鳴りつけてやろうとした。しかし、罵詈雑言は即座に喉の奥で萎んで、代わりに小さな呻き声が吐き出された。目の前には十歳にも満たないような小さな少女。奇妙な形の王笏を持ち、ハートのような紋章の描かれた王冠を被った幼い彼女の、宵闇よりも黒い穴のような生気のない瞳。その目の絶望的な暗さと、威圧感と、見下すような温度のない視線が、僕の首を優しく締めたのだった。
「こちらの商品、なんと、あの、ペガス家の長男にございます。」
機械人形が目も口も鼻もない顔でニヤリと笑った。素性が知れていることに驚いた僕の喉が一気に開いた。が、すぐに冷静になって言葉が漏れないように唇を噛む。素性を知った上で僕を捕まえたと仮定すると矛盾が生じるからだ。あの魔法陣は星の力を宿した肉体と血液さえあれば発動する。つまりこうして檻に入れて、わざわざ取引をする必要はない。それにペガス家は外部に弱みを握られることを警戒して、身内以外の業者を挟んでの取引は一切しないはずだ。現在の状況は最悪だが、最低でも奴らに捕まりさえしなければいい。僕は成り行きに身を任せようと、石畳に視線を落として彼らの会話に耳を傾けることにした。
「ほう。それは確かに、貴重な品だな。星の力を持つものが市場に出回るとは。」
少女が僕を見つめる。人を売り買いしたことはないので、相場など勿論分からないが、彼らにとっては家柄よりも星の力の方が重要であるらしい。……どっちにしろ、こいつらもあの大人達と同じなのだろう。何より重宝されるのは伝統ある強大な力と、それを使役する傲慢さ……。
「ええ、ええ。ご覧ください、あの忌々しい翼を。片翼であるということは、おそらく全ての力を受け継いだわけでは無いのでしょうが……。」
「ああ、なるほど。やけに弱々しいのはそういうことか。……あの黒き炎の夜を思い出すな、マシーナ。あれの稲妻には相当苦しめられたぞ。」
この時の僕には、彼らの会話の意味が分からなかった。理解できなかった僕は苦し紛れに、僕が不完全に星の力を継承したことを二人が察した要因に触れた。翼のような形状の左耳、背中の左側に生えた小さな翼。本来ペガス家では、正常に星の力を継承した者は翼が左右対称に生えた状態で生まれてくる。しかし、星の力を分け合って生まれた僕らは違う。僕には左に、弟には右に翼があった。不完全の象徴であるそれが、僕は何より気に食わない。こうして見知らぬ相手にすら欠点を悟られてしまうのが嫌だからだ。
「よし、これはぼくが買おう。対価は?」
「では、そうですね……。新鮮なロストを十体ほどでいかがでしょう?」
機械人形がそう言うと、少女は少し目を見開いた。
「安いな。」
「ええ、お得意様ですので。特別価格にございます。」
僕にはこの二人の価値観が分からなかった。いや、分からなくていいと思った。僕がロスト十体と等価だなんて、聞きたくなかった。それから二人は僕の意思などお構い無しにいつ受け渡すだの何だのと会話を進め、訳のわからない談笑を聞いた後、僕は紐で繋がれ、散歩に行く飼い犬のように檻から出されたのだった。
「今日からぼくがきみの主人だ。ぼくの名は、フリードリヒ・フォン・ブランデンブルク。エラトステネス北部ブランデンブルク領の領主だ。きみの名は?」
「…………シェアト・レア・ペガスです。」
この子は一体何歳なのだろうか、と、僕は思いながら敬語を崩さなかった。幼くして領主になり、人身売買に手を染めるなんて、と、少し同情しながら。
「あの、一つよろしいでしょうか。」
「何だ。」
「……僕は、これからどうなるのでしょうか。」
一番の不安はそれだった。彼女と機械人形が『玩具』と言っていたのを、今になって気になってしまった。子供は残虐だ。もしも本当におもちゃのように扱われるのならば、僕はこれから死ぬより辛い生活を強いられるのでないかと思った。
「……一緒に遊んだり、一緒に遊んだりしようね。」
遊ぶ、ただそれだけのこと。それだけのことなのに、僕には幼い子供の無邪気で嬉しそうな声色が妙に恐ろしく聞こえて、それ以上何も言えなくなってしまった。
彼女は僕より頭二つ分ほど小さく、身の丈に合わないマントを引きずって歩いている。僕はそれを踏まないように斜め後ろを歩いた。僕の紐を持つ小さな手が、マントの奥に見え隠れする。すぐにでも奪えそうだと思ったが、大人しくついて歩いた。上手く取り入って気に入られれば、少しはマシな扱いを受けられるかも知れないと考えながら。