逃走
光に堕ちる天馬 暁光
それは大いなる光の破片だった
翼の生えた白馬がそれを背負って走った
人々はそれを雷光と呼んだ
それは大いなる光の咆哮だった
翼の生えた白馬がそれを背負って走った
人々はそれを雷鳴と呼んだ
それは器として存在した
進むべき道の指針として存在した
【光徒歴程(翻訳)第九章第一節 ビハム・エル・ペガス より】
「誕生日おめでとう、シェアト。」
十五歳の誕生日。薄暗い部屋、ほのかに光る魔法陣の上で、僕は手渡されたナイフに映る歪んだ大人達の顔を見つめていた。
「これはペガス家のためだけでなく、エニフのためでもあるんだ。賢いお前なら分かるね、シェアト。」
久々に聞く父の酷く優しい声が、頭上から降り注ぐ。
「……ええ、分かっています。僕の血をこの魔法陣の上に垂らせば、エニフから呪われた力を取り去ることができる。」
エニフ、僕の弟。星の力を分け合って生まれた僕らは二人とも、他の人よりも視力が弱かった。それは呪われた星座の力があるからだ、と、両親は言った。従姉妹のクリューサも同じく星座の力を持っていて、いつも病気がちだ、と。
「さあ、早く。ペガス家の未来のために。」
分かっている。僕は賢いから。ビハム・エル・ペガスの正統後継者として、継承異常によって分たれた力を僕の身体という器に収めなければならない。それは呪われた力から弟を解放することを意味する。……僕という犠牲を払って。
僕は魔法陣の中心に立ち、左の手のひらを下にして、床と並行に翳した。眼鏡が落ちない程度に俯きながら、古代語で書かれた魔法式を目でなぞる。大人達が向ける大望の視線の中で、僕はついに覚悟を決めて、僕は右手に持ったナイフを振り上げた。
……ザクッ。
僕が魔力を込めて投げたナイフは、父の左胸に真っ直ぐに突き刺さった。まるで時空が歪んだかのように、突如スローモーションになった世界で、響めき、焦り、驚きの声をあげる大人達の低い声が渦巻く。父の胸から粘度の高い赤黒い液体がねっとりと緩やかに溢れ、やがて四方八方に伸びたアメーバ状の液が、細く早い閃光へと変わっていく。僕はその光景を二度と忘れることはない。心傷として、僕の脳や身体に一生残ることだろう。痛ましい光景に、吐き気がするほどの細胞の泡立ちを感じる一方で、心はどこか穏やかで、水面を揺らす波が次第になくなっていくような解放感を覚えていた。
不意に大人達の手が一斉に僕の方に伸びてくる。その手を掻い潜って、僕は逃げた。軋む足で階段を駆け上り、廊下を駆け抜け、屋敷の外へ出る。
「誰か! あのガキを捕まえろ!」
大人のうちの一人が後ろで声を上げたのを聞く。絶対に捕まるものか。絶対にこの力を渡すものか。……分かっていた。僕は賢いから。あの魔法陣の本当の意味を理解した僕は、迷わず逃げることを選んだ。大人達の筋書きに、あの床に敷かれた運命に抗うことを選んだ。僕は苦しさも忘れて闇雲に走った。運動には自信がないけれど、知識量とそれを駆使する脳に関しては誰にも負けることはない。僕はテオフィルス屈指の入り組んだ裏路地を選びながら、曲がり角をいくつも曲がって、壁に開いた穴をいくつも掻い潜った。現在は既に月が沈み切り、仄かな星霞の光のみが街を照らす宵刻。街灯のない裏路地は一層暗く、その薄気味悪い闇が、怯える僕を愛想無く隠した。顔や服が砂埃と汗とで汚れ切った頃には、既に大人達を振り切っていた。そうして密かに持ち出していたお金と通行証で、行けるところまで行った……。
……ペガス家。聖獣の眷属として名を馳せる名家。誰もがその名を聞けば首を垂れる神聖な血統。その見るも哀れな末路。
ペガス家は十数万年前に起きた星の子戦争以後、その血を絶やすことなく今日までその繁栄を保ってきた。多くの政治家、企業家を輩出し、テオフィルスの興隆に貢献してきたこの家には、十数万の時の果てに根を張った安寧の副産物として、その手に余る財産と国家を動かすだけの権力がある。ただ星座の力を持つだけでは、ここには至れない。小さな欲望を拾い集め、長い時間をかけて綿々と紡ぎ、歴史に編み込まれていった末に作り上げられたその根は、いつしか政府や管理局を黙らせ、禁術を扱うことを許容させるほどに力を持った。否、持たざるを得なかった、とも言える。
星の民は力の有無に関わらず全てが青き炎の加護を持ち、その光り輝く魂を一生かけて燃やし尽くす。しかし、誰もが本質に光を持ちながら、そのほとんどは純粋な光を含む魔法を扱うことが出来ない。光だと思って生み出したものは全て、憧憬をもとにして擬似的に作り出されたものに過ぎない。だからこそ、僕等が持つ力が価値を持つ。ペガス家が所有する星座の力、『雷光』と『雷鳴』は、若干ながら自然光を扱える。星の民は光に適応した種族であるとはいえ、この星の外、通称『光の空間』の強い自然光の中では生きられない。この世界が光に焼かれてから約二十万年、今だ浅い進化の海の中で、人はまだ光を扱う器にないというのに。その中で、限られたものだけが力を与えられた。かつて外を夢見た鳥がそうであったように、燃えて死んでしまうのが関の山だというのに……。
そんなちっぽけな存在に与えられた強大な力は、器の進化も待たずに親から子へ継承されていく。それでも権力を手放せなかった親は子を縛り、操り人形にして死ぬまで権威を振るう。その子もまた子を縛り、その連鎖を紡いでいく。僕の親も例外なく、人形を欲しがった。だから僕にそういう教育を施そうとした。しかし、僕は後継者に必要な星座の力を半分しか持っていなかった上に、人形になるにはおおよそ必要ない知恵と感情を有り余るほど身につけていた。だから両親は、より『良い子』だった弟のエニフを後継者にするために、僕を排除しようとした。それがあの魔法陣だ。あれは禁忌継代魔法陣の一種で、血を捧げたものを生贄にして、星座の力を第三者に移植する術式が描かれていた。この僕が、ペガス家の長男として常に名声と栄誉を保ってきたこの僕が、この程度の術式の意味を理解できないとでも思ったのだろうか。本当に、我が親ながら間抜けすぎて腹が立つ。この僕が好きでもない弟のために自己犠牲をしようだなんて、そんな馬鹿げた行動をとるわけがないのに。簡単に騙されて、それでも優位に立っていると思い込んで。だから大人は嫌いなんだ。だから馬鹿は嫌いなんだ。呪われているのは星座の力じゃなく、僕を含めたペガスの血統そのものだ。全員が権力に取り憑かれている。そんなくだらない奴らに殺されるくらいなら、あいつに力を引き渡すくらいなら……。
気がつけば、もうすっかり闇の時間になっていた。微かな星霞の光が、パイプまみれの街並みの輪郭を照らしている。ここはどうやら、ユラの工場地帯らしい。壁やパイプの隙間から、シュウシュウと蒸気が漏れている。この街は眠らずに働き続けているのだ。異国の街並みに心を奪われながら、僕は身を潜めるところを探し路地裏へ入った。やがて埃を巻いたてる換気扇の横に腰をおろすと、緊張が緩み、それまで堰き止められていた疲労感がドッと溢れ出て、体がどんどん収縮していくように感じた。そうして僕は粗大ゴミのように静かに座ったまま、動けなくなってしまった。意識がどんどん深い暗闇に落ちていく……。