夜明け前の河川敷で僕は先輩と
諸々の天は神の栄光をあらわし、大空は御手のわざをしめす。
この日は言葉をかの日に伝え、この夜は知識をかの夜に告げる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに。
【詩編19】
黒色に赤が入り始める前の空、湿り気が漂う4月の空気。
街の中央に流れる大きな川の河川敷と遊歩道、備え付けのベンチ。
土日の昼頃であれば、ピクニックに来た親子連れや、部活やクラブ活動で使う人たちで賑わう場所も、夜明け前であればしんとした空気が立ち込め、冷たい感じがした。
そんな場所に僕と先輩は、二人でベンチに座っていた。
「なぁ、後輩くん。……愛とはなんだろうかね」
「大切な後輩を、こんな真夜中に呼び出すことを愛とは呼びませんよね」
「それでしっかりと来てくれた君の行為は、愛であると?」
「あの、帰っていいですか」
できれば来たくもない場所と時間に呼び出され、そんな哲学的な話をされた僕はどうすればいいのだろう。呼び出した本人である先輩は、呼び出してから今までどこか上の空で、会話が正常なキャッチボールをしていない。
そして、ようやく話し始めたと思ったらこれだ。
そもそも、今日は月曜日だ。週の初めであり、神様だって働き始めるのだ。
まったくどうすればいいのか。
立ち上がり、帰ろうとしたが、
「何してるんですか?手、放してくださいよ」
先輩の右手が僕の左手を掴む。握られたその手は、意外にも力強かった。無理やりにでも振りほどこうとするならば、それなりの力を加えなければいけない程である。
そして僕には、そんな力を加えるつもりも、気持ちも、勇気も持ち合わせていなかった。
めんどくさいなという気持ちと一緒に、はあぁと大きく息を吐き出す。
「そ、そのなんだ……。話だけでもいいから聞いてくれないか」
普段とは違う声質で言われた僕は、黙って座るしかなかった。
ep.0-処女受胎の前触れ
先輩は僕の学校では、少し人気のある存在だった。誰にでも変わらない対応に、真面目で書道が得意という優秀なんだろうなという評価。147センチという庇護欲を誘う体格に、幼さしかないかわいい顔立ち、黒髪ショートカットという容姿で一部界隈からは絶大な人気を誇っている。また、声もその見た目からすれば大人っぽい低めな感じであり、ギャップ萌えという分類にも存在がハマっていた。
そんな存在である先輩と出会ったのは去年の4月だった。
入学式の際に、受付で生徒手帳を配っていた先輩の顔が頭の中に残り続け、その後、始めたばかりのバイト先で再び遭遇してしまった。
学校でも先輩と後輩、バイト先でも先輩と後輩、気が付いたら仲良くなっていた。
彼女と彼氏ではなく、少しぐらいの後ろめたいことなら話せる仲、いわゆる親友というポジションなのだろうか。もちろん、恋人という間柄になる事に憧れはあったが、どうにも今の先輩を壊してしまうのではないかと思い、結局告白とかはしなかった。
手を掴まれ、物理的に止められた僕は断りを入れ、近くの自動販売機まで飲み物を買いに行った。
この位置からでも先輩の姿が良く見えるが、どこか人形じみたその姿は変に目に滲んでいる。
これから先輩に言われることは、恐らくとっても重たい内容、話なのだろう。
大きい方のお茶を2本買い、お釣りを取り出す。
別に僕が何かをした訳でもないが、200円のお釣りはどうにも死刑宣告を待つ罪人のような重たさがあった。
「先輩お茶です。どうぞ」
「……うん、ありがとう」
150円のお茶を飲みながら、横目に先輩を見る。
両手を使い、小さな喉を濡らすその姿はいつもの先輩であった。
しかし、何か大事なことがあるのは確かなんだろう。
だが、何かを抱えているような先輩に話しかける勇気は、心の何処にも持ち合わせていなかった。
お茶を飲み、一息ついた先輩がこちらを見据える
「そ、そのね?あのすごく大変な話なんだけどっ……話せる人が君ぐらいしかいなくて!」
はっとなり、思わず目頭を押さえる。
こんなにも僕を信用してくれてたなんて!
ああ、なんでも受け入れよう。何か事件に巻き込まれているのなら全力で助けよう。
「それで本題なんだけど……」
「ええ、どうぞ」
「あ、ああ、赤ちゃんができたかも知れないんだ!いや、できるかも知れない!」
「ぶっ!はぁ、はっ?」
言われた言葉に思わず飲み込めなかったお茶が口から溢れる
一瞬かそれよりも長く、何を言ってるのか理解ができなかった。
妊娠?先輩が?誰の子だ?頭の中を色んな考えが飛び交う。
そもそも、この体格の先輩に対して行為におよぶとか大丈夫なのか。
相手の頭が心配になる。
それよりも先輩の体だ。どうするどうすればいい。
いや、身体もそうだが精神的にも辛いと聞く。
なんとか場を和ませなければならない。
「じゃあ、先輩はお母さんになるんですね。お父さんの枠はまだ空いてますか?」
「はぁ?」
「ち、違う!間違えました!」
ああクソ野郎、と頭を抱える。
和ますどころの発言じゃないだろう。
まだ十代の僕らは、どうしようもなく学生であり、まぎれもなく学生である。責任能力も、経済的基盤も、精神的支柱でさえ自分の手の内にない。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
「結構、本気の話なんだけど……」
「分かってます!でも、いきなりそんなこと言われた僕の身にも……ってもしかして、これからどうするかみたいな相談ですか」
俯きながらうなずく先輩を見ながら、心の奥底で何かが燻ぶった。
「もしかしなくても、先輩はそういう行為はしたことないですよね?」
「あ、ああ、ある訳ないだろ!!」
今日一番の張り上げた声で答える先輩、羞恥プレイにも程がある。
思わず聞いてしまったが、YESであれNOであれ困ったことになる。
YESは、色々な社会的に困ったこと、NOであれば、
「処女受胎か……困ったな。こりゃ、新興宗教の完成だ」
「そんなに大変なのか?」
「えぇ、マフィアのボスの一人娘になったとでも思ってください」
本当の、正真正銘の処女受胎なら国を越えて先輩を欲しがる輩は出てくるだろう。
しかし、先輩の言う事が本当なのかも分からない。
両手でダイナミックに一人で頭を抱える。
「本当に困ったことだ」
口からそう、言葉が漏れる。
先輩を見捨てるかどうか。
すると、先輩がすっと、音もなく立ち上がった。
申し訳ない、そう目に感情を込めながら僕の方を見る。アクリル板越しに魚を見るような感じで、どことなく、僕にとっては嫌な目だ。
その先輩の優しさが、今の僕にとっては毒のあるものであることに変わりない。
だから先輩が、何かを言う前に自分の口から思わず、逃げませんかと言ってしまった。
先輩には、何か考えがあったのかもしれない。きっと先輩は優秀だから、僕には思いつかないぐらいの、クールでスマートな方法を思いついていたのかもしれない。
それでも、僕は自分の口からそう言ってしまった。
「逃げるってどこに?」
「分かりません」
「お金はどうするの……」
「……」
はぁとため息をつく先輩を見て、自分の言葉に対して恐怖心を抱いた。
なんて無責任な言葉を言ってしまったのだろうか。
自分に対してどうしようもないほどの、嫌悪感が湧いてくる
「いいよ、一緒に逃げよっか」
「えっ、でもお金とかはどうするんで……」
「当てがあるし、妊娠と言っても少し事情が特殊だから」
「は、はぁ」
「じゃあ、行こっか。アイダくん」
そう言い、先輩は僕の手を再び握る。
訳の分からない僕は思わず、どこへですかタチバナ先輩と尋ねた。
すると、先輩は少し困った顔をしながら、
「秘密っ!」
と答えた。
僕は、苦笑いしながら、まるでショートショートみたいな話ですねと返すことしかできなかった。
という訳で僕はこれから、人生の中で二度はやりたくない一か月を過ごすことになる。
未だ、朝日も見えない暗闇を二人である所から始まるこの旅路。
なんだか、大人になれた気がした