007話 ヒツギ・フォン・アーガスの誕生
――神聖歴925年。
東の王国――《アーガス王国》。それがヒツギ・フォン・アーガスの生まれた国であり、《アーガス王城》――それがヒツギ・フォン・アーガスの生まれた場所であった。
すなわち、ヒツギはアーガス王国の王子であった。
ヒツギという名前は、父でありアーガス王国国王である、ルーク・フォン・アーガスが《占聖学者》に頼んで付けた名である。なんの因果か、前世と同じ名になってしまった。
「フォン」がミドルネームで「アーガス」がラストネーム。
この二つは代々アーガス王家の者につく、所謂「姓」だ。
ヒツギ・フォン・アーガスは、アーガス王国第二王子である。
艶のある黒い髪が背中まで伸び、珍しい紫水晶のような美しい瞳が輝いている。
三つ年上の兄、アーガス王国第一王子、ベントレー・フォン・アーガスがおり、ヒツギの下には後から、一つ年下の妹、アーガス王国第一王女、モニカ・フォン・アーガスが産まれ、ヒツギの四つ年下の弟、アーガス王国第三王子、レイ・フォン・アーガスとヒツギの五つ年下の妹、アーガス王国第二王女、アイリス・フォン・アーガスも産まれた。
母はアーガス王国王妃、へレス・フォン・アーガスだ。妾はいない。
他にもアーガス王城には、メイド長や執事長や料理長や庭師など多くの人がいる。
【汝、平凡で穏やかな生を選ぶか? 苛烈な英雄として煌めき果てるか? 汝……】
◇ ◇ ◇
――神聖歴932年。
自分が七歳になった日、ヒツギはアーガス王城の庭で、唐突に前世の記憶を思い出した。
「ぐっ……がっ、あ、ああああああああぁアッ!」
襲いかかる激しい頭痛と吐き気。頭が割れそうだった。
(――高森柩。西暦二千年代の日本に生まれ、不遇の人生を送り、齢十八にして日の当たらない地下で惨めに死んだ男。それがこの俺、高森柩のはずだった……)
だというのに、自分はヒツギ・フォン・アーガスとして、このアスガルドという世界で生きている。前世の記憶を取り戻したが、前世の記憶がなくこの世界で過ごした今までの、七年間の記憶を失ったわけではない。アスガルドの基礎知識や言語は理解している。
アスガルドは、おそらく惑星だ。それも地球と同程度の規模のもの。
太陽と月に似た星もある。否、似たではなく、もしかするとそのものかもしれない。
朝、昼、夜、と陽は動き、国や地域によっては温度差があり、四季が存在する。
ある程度合理的に考えれば、ここは地球の平行世界。IFの舞台である可能性が高い。
だから、前世の記憶が戻ったヒツギが最初に思ったことはといえば、
「ああ、なんかファンタジーだ」というなんの面白味もない感想である。
幻想的な白亜の王城。至る所に青い装飾が施されており、中央には青龍の紋章が刻まれている。白と青のコントラスト、それがアーガス王城の特徴だった。
王城とは、国の威厳を示す一つの指標だ。
その王城を中心に、活気豊かな栄えた城下町が広がっていた。白いレンガで作られた西洋風の建物が多く見受けられる。もちろん高層ビルなどは存在しない。路上に車は走っておらず、高級そうな馬車が広い道を行きかっていた。アーガス王国は王城を中心に区分けされており、王城に近ければ近いほど金持ちが住んでいる。しかし商人は違う。商人たちはその場その場で所持金が異なる顧客に合わせて、それに見合う商品を売っている。
王城近くの住民はお金を持っているので、商人にとっては高価な物を売りつけるカモだ。だが、もちろん金持ちは目の利く者も多く、半端な物を売っても売れないし、偽物を売れば通報され、王国軍にしょっぴかれる。
高森柩とヒツギ・フォン・アーガス、二人の記憶が、二つの世界の理が、同時に存在している。頭にノイズが走った。
「俺は……ヒツギ・フォン・アーガス。この国の王族だ。陽の当たらない暗い場所で惨めに死んだ、高森柩じゃない。……違う! 俺は将来、民草の上に立つ、王子なんだ」
庭の内から町が見える位置までゆっくりと歩く。幼く短い手足の感覚に慣れない。
「俺は王族だ。捨て子なんかじゃない。でも、それでも俺は、紅花の熱を覚えている。そうだ……認めよう。俺は高森柩だ。そして、俺がヒツギ・フォン・アーガスだ……!」
その瞬間、記憶の混雑が止まった。高森柩とヒツギ・フォン・アーガスの魂が一つになったとでも言えようか。そうして再び目の前に広がる光景を目にした。
まるで何かのゲームの中にいるかのように錯覚する、ファンタジーな景色。形式に捉われない自由で幻想的な空想世界。空は青いし雲は白い。だけど、空気だけが違った。
地球ではないどこかだと肌に感じさせる、今までにない《魔素》を帯びた大気。
どことなくローマっぽい雰囲気を醸し出す建築様式の建物たちがずらりと並ぶ。すべての道はローマに通ず、とはよく言ったものだ。まさか異世界にまで通じていたとは。ローマ恐るべし。否、よく見れば、バロック建築やゴシック建築にルネサンス建築なども入り混じっている。……無茶苦茶だな、この世界。統一感というものがまるでない。
それでも、王城の周りはしっかりと格式高く統率されて造られた跡が見受けられた。
と、大体アーガス王国とは、そんな国だとヒツギは理解している。
まさか、自分が異なる世界に転生することになるとは思ってもいなかったが、せっかく得た二度目の生だ。この世界では誰かに必要とされたい。多くの人に愛されるような立派な人間になりたい。そう切に願った。
「おい、ヒツギ。父上が呼んでいるぞ。今日はお前の生誕祭だろうが」
前世の記憶を思い出した衝撃で、しばし茫然としていると、ヒツギの背後から声がかかる。振り返ると、そこには三つ年上の兄、ベントレー・フォン・アーガスがいた。
十歳の兄は、運動が嫌いだが食べるのは大好きな性格で、全体的に丸っとしている。
ありていに言えば、裕福そうなデブ。というか、「そうな」ではない。彼は正真正銘、ルーク・フォン・アーガス国王の正当後継者なのだ。だが、その性格はひん曲がっており、幼くしてすでに人を見下し、王族という位の高さを鼻にかける、何かとヒツギが嫌いなタイプだった。このままだと、将来ろくな国王にならないだろう。
ヒツギが前世で凰紅花という敬愛する立派な師に巡り合えたように、彼にもまた優れた師が現れ、良い方向に導いてくれることを祈るのみだ。
アーガス王国の品格を落とすような行為だけはやめてもらいたい。
前世で日々過酷な鍛錬を積んでいた自分にとって、不摂生な生活をし、享楽に溺れ、使用人に理不尽な命令をする、他人に敬意を払うことを知らない、この我儘兄貴は目に余る。
恥を知れ。今の立場に甘んじ、その蜜を啜り、一歩も前進しないその在り方に。
精進しろ。人間は成長するために生きているのだから。
ヒツギは七歳とは思えない冷めた目で、今世で兄となった男の姿を改めて見つめる。
幼少期の三歳差というものは大きく、身長はベントレーのほうが二十センチ以上高い。ベントレーはすでに140センチはあるだろう。ちなみに髪色はブラウンだ。ちょうど父親のルークと母親のへレスの髪色を合わせたような茶色だった。
ヒツギだけが、アーガス王国では珍しい黒髪に紫水晶のような瞳を持つ。隔世遺伝だと言われているが、実際はどうなのだろう。父であるルークは王族としては珍しく、側室を作らない主義であり、個人的に好感の持てる男なので、腹違いの兄弟だということはないと思うが……。自分が前世の記憶を引き継いでいることが関係しているのかもしれない。
「おい、ヒツギ。何を呆けているんだ。早く来い」
ずっと無言でいたヒツギのことを、ベントレーが若干の苛立ちを込めて、再度呼ぶ。
「……分かりました。今行きます、兄上」
ヒツギは今世の兄にそう応え、その後ろ姿を追って庭から建物に入っていく。