006話 果てる命
口内に血の味が広がる。唇から漏れる赤い雫。堪えきれずに吐くように喀血。
目が霞む。口からだけでなく、目や鼻からも赤黒い血が垂れてきた。
体感的には止まった時間の中で、両者の視線が交差する。
剣士は愉悦に満ちた笑みで、拳士は今にも光を失いそうな暗い目で。
そして、凍結された時は動き出す。片方は確実に死に向かって。
何もかも……蹂躙されていく……鉄臭い。全身から血の匂いがする。何度嗅いでも鼻につく、嫌な匂いだ。柩の体は容赦なく躊躇いなく斬り刻まれて、襤褸布のように血の海に伏している。数多の裂傷で覆われた赤黒い両腕はもう動かない。内臓も破裂しているだろう。もはや悲鳴も掠れた柩は痛みに声を上げることもなく、苦しみに悶えるしかない。
「……あぁ、俺は死ぬのか」
「お前は心のどこかで死にたがっていた。生を諦めていた。武人として、その実力に私とお前に差はなかった。もしもあったとすれば、それは命に対する執念の差……それがこの結果だ。……見ろ。この通り、実のところ……私もボロボロなんだ。もう動けない」
互いの実力が拮抗していれば、最後に試されるのは心。
負けたくない。負けられないという、強烈な意志が勝利を呼び込む。
残った右目で景久を見ると……なるほど、健闘の証がそこにあった。
「ははっ、あと一歩で……史上最強の剣士に勝っていたのか……」
そうだ。紅花が死んでから、心のどこかで自分は死に場所を求めていた。
(……ここだ。俺は今日――ここで死ぬ)
今まで絶望に満ちたこの世界で一人孤独に生きてきた。柩には大切な人がもういない。たったの一人も。自分以外の人間が死んでも別になんとも思わないし、心が動かない。
でもそれは、この世界にとっても同じことで、柩が死んだところで誰も悲しまないし、誰も涙を流さないだろう。この世界にとって柩は路傍の石だ。もしかしたら、それ以下かもしれない。改めて思い知らされる、自分がいかにちっぽけで無価値な存在なのかを。
愛されなかったということは生きなかったことと同義である。とはルー・サロメの言葉だっただろうか。そんなことを考えていると、意識が薄れ、ついには斬り残された膝から崩れ落ち、自らの血の池に沈む。人が歩けば足跡が残る。それが命を持たぬ亡霊のものでなければ。ふと、師である紅花の言葉を思い出した。
『柩、お前が死んだところで、世界は何も変わらない。だが、お前が生きることで変わるものもある。私はお前に会って変わったよ。柩、お前を……好きになった』
果たして、自分はこの世界に足跡を残せたのだろうか。
「かっ……がはっ……ご……ぉ……」
大量出血による心肺の停止。意図せずして体がぴくぴくと痙攣する。
「あ……ぁ……俺の命は……ここで終わりだ。つまらない、人生だったな……」
死には慣れていた。今までもいろんな死を見てきたし、死体に触った回数は覚えていない。死は日常に溢れている。死ぬことなんて怖くない。そう思っていたけど、いざそのときになってみると、やっぱり怖いものだな。だって、自分という存在が永遠に消えてしまうのだろう。死んだら無になる。何もないということすら知覚することができない無だ。
その魂は無窮の闇を彷徨い、やがて土へと還るだろう。
死闘を演じた共演者――己が血と柩の返り血に塗れた剣鬼、上泉景久を見やる。
「ふっ……上泉、景久……先にあの世で、お前が来るのを……楽しみに、待っているぞ」
体も心も……魂すらも腐っていく。寒い……冷たい……凍えそうだ。
今はただ、凰紅花という一人の女に会いたい。もう一度だけ、声を聞きたい。
刻々と近づく死の足音。静かに迫る終焉の刻。ここが死闘の果て。心臓が止まる。鼓動が聞こえない。光が消えていく……。静かだ。さっきまで、品のない客の歓声で喧しかったのに。もう何も……聞こえない。光も音もない世界。……渇く、干からびそうだ。
(俺にだって、感情がないわけじゃない。胸に抱くのは……悔しさ、憎しみ、怒り、恨み……いや、虚しさか。結局、俺の願いは何一つ果たされなかった)
この人生に、意味はあったのだろうか?
【あなたは、この世界が好き?】
聞いたことのない、女の声がした。誰だか知らないが、それに答えることはできる。
誰かに見下されるのは嫌だ。自分を憐れむ視線が憎い。屑で溢れかえった醜い世界。
「俺は……この世界が……嫌いだ。そして、同じくらい……自分のことも……嫌いだ」
【なら、こっちの世界においで】
血塗れの体から力が抜け、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚がなくなっていく。
何も見えない。何も聞こえない。隣接する死。
手足の感覚もない。口いっぱいに広がる血の鉄の味も匂いも分からない。
何もかもが失われていく。そうか……これが死か。なるほど、理解した。
これまで何度も困難を乗り越えてきたが、さすがに死を超越することは無理なようだ。
(これは、報いなのか……? 俺が生きる理由は、もう……ない)
心の奥底で渇望していた、永き眠りに今――――――
………………あの世ってあるのかな?
(もし、生まれ変われるのなら、次は家族に必要とされたい……誰かに愛されたい……幸せになりたいな……。そして、もしも二度目の生があるのなら、俺はもう一度、紅花の弟子になり、あの人に厳しく鍛えられ、あの人に優しく頭を撫でてほしい)
さようなら、無慈悲で残酷なこの世界――
(俺が弱いから、俺は死んだ。ただそれだけ。所詮はその程度の人間だったということ)
だから、次はもっと強く――――――…………………………………………
そうして、高森柩の魂はこの世から失せた。
◇ ◇ ◇
『……よく頑張ったね、柩。偉いぞ。誇らしい。だから、今は少しだけ……休もうか』
最期に、もうこの世にいないはずの、紅花の愛おしい声を聞いた気がした。
『……紅花、ごめん。迷惑ばっかりかけて……本当に、ごめんなぁ……』
『ばーか、そこは「ありがとう」だろう。この……バカ弟子が』
(紅花……いつか、また会えたなら、そのときは……俺の家族になってくれ……)
高森柩を変えたのは、世界への憎しみではなく、たった一人の女性からの寵愛だった。
何度生まれ変わっても、きっと紅花に『恋』をするだろう。
「……ぁ……紅花……貴女に会えて……本当に、良かっ――――――」
小刻みに震える唇が愛を伝える。ここではないどこかに想いを届けたがっていた。
◇ ◇ ◇
事切れた亡骸は血の涙を流し、その顔に儚げな薄い笑みを浮かべている。
白熱した試合展開に興奮する卑しい観客。レフェリーが高森柩の死亡を確認した直後、彼を中心に赤黒い不思議な光が発生し、複雑な極大の魔術円が広がった。
「――ついに! ついに再び、このときが来たかッ!」
全身血塗れの上泉景久が髪を掻き上げ、血走った目で歓喜の声を上げる。
赤黒い花弁が濁った血のように舞い散り、渦のような暴風に揺れていく。
その光は轟音を立てて収束し、やがて何事もなかったかのように消えた。
世界の理――《輪廻転生の輪》から外れる。
その場にいた者の視界が晴れた後には、高森柩の死体はそこになかった。
自由を求め、敗北者となった男は、戦いの果てにさらなる闘争の地へ誘われる。この日、すべてを賭して戦った、空っぽな男の人生に幕が下りた。だが、カーテンコールにはまだ早い。凍てついた男の心を溶かす熱を持った、激動の第二幕が始まろうとしていた。
★ ★ ★
◇ ◇ ◇
《煉獄》――死して天国には行けなかったが、地獄にも墜ちなかった人間がたどり着く中間地点であり、霊魂の清めの間。――果たして、そこに希望はあるのだろうか。
この世界の名は《アスガルド》。
国によって異なるが、多くの地域では十五歳で成人を迎え、女性は二十歳で結婚しているのが普通だ。国家間の戦争が絶えないため、平均寿命はおよそ五十歳と短い。
これも国によるが、いまだに多くの土地にスラム街があり、奴隷制度が敷かれている。
この世界の教育制度はそこまで充実していない。その年に十三歳を迎える子供は三年間、魔術学園か武術学園か技術学園、その他の教育施設に通うことができる。十五歳で成人し、各学園を卒業した者のうち、選りすぐりの才能を持つ者はエスカレーター式で高等魔術学園に進むか、王国軍に所属するか、高等技術学園に進むかを選択することが可能だ。
さらに優れた者は、成人を迎えると一足飛びで、近衛騎士団や宮廷魔術師団や王国専属技術士など、国から推薦状を受け、大金で雇われる者もいる。
もちろん、高等学園を卒業してから国に推薦状をもらう者も少なからずいるが、大抵の場合、才能とは成人までに開花するものであり、それまでに結果が出なかった者がその後大きな功績を残すことは少ない。それでも稀にそんな例が存在するのは、その者が最後まで諦めずに足掻き、血の滲むような努力をした結果であろう。それ以外の者は成人して学園を卒業したら、仕事に就き、人と触れ合い銭を稼ぎ、恋をして所帯を持つ者が多い。
貧富の差は国によって異なるためなんとも言えないが、文明レベルがそれほど高くないため、《地球》よりは格差が少ない。……一部の地域を除いては。
高森柩の物語、終結。
次話より異世界転生したヒツギの第二幕が始まります。