003話 最初で最後の最愛の人
そんな柩も、ついには父に金で売られ、とある地下闘技場の選手になっていた。
思春期という最も盛んな時期を、人智を超越した過酷な鍛錬の日々に費やした柩は、同年代が胸に抱く明るい未来というものは持ち合わせておらず、その雰囲気や眼差しは暗く、刃物のように鋭利で、肉体は鋼のように強靭だった。
修練に励む真摯な姿勢については、『師』である紅花ですら尊敬に値すると評してくれたほどだ。それがまた彼にとっては誇らしく、やる気を増す要因となった。
ただ、異常なまでの肉体改造の結果、背丈は同年代の男子の平均を下回り、元から女顔だったこともあり、服の下に隠れた筋肉を見なければ、クールな女性のようにも見えたようだ。紅花の真似をして伸ばしっぱなしにした長い黒髪もその原因の一つだろう。
師弟関係にある紅花と街を歩いていると、仲の良い姉妹に間違えられたこともあった。女と思われるのは心外だが、別にそこまで嫌ではなかった。だって、自分は紅花のことを本当の姉のように慕っていたから。母の愛情を受けずに育った柩にとって、女の温かさや優しさを教えてくれたのは紅花だった。一人じゃないのが嬉しかった。
(俺は紅花に生きる意味を教えてもらった。だから、今度は俺が紅花を守る)
彼女に笑顔と幸せを与えてみせる。それが自分の生きた証となるから。
女のことを愛おしく感じたのは、紅花が初めてだった。
それが恋慕なのか親愛なのかは知らない。でも、彼女のことが世界で一番大切だった。
同じ釜の飯を食い、風呂場に乱入されて背中を洗わされて湯船に一緒に浸かり、共に寝たことも幾度となくもある。異性から与えられた悦びは、すべて紅花が初めてだった。
それからも紅花との師弟関係は続き、柩はなんとか無事に高校の卒業式を迎えることができた。式には父は来なかったが、紅花が来てくれると言っていた。
「――私がいる。柩、お前には私がいる」
紅花だけが柩に手を差し伸べてくれた。日の当たるところへ導いてくれた。
でも、彼女は高森柩の卒業式に来なかった。
急用でもできたのだろう。ああ見えて忙しい人だからな。
紅花は、柩の高校の卒業式の日に、見知らぬ子供を庇って――交通事故で亡くなった。
誰かを守るためにするべきことをした。あの人は……あの女はそういう奴だった。
事故現場では、『赤黒い不思議な光』が発生していたと聞いたが、そんなことは柩の頭の中には入ってこなかった。
葬儀は降りしきる雨の中、静かに執り行われた。
この世で唯一出会えた、大切な人。
(俺の心に火を入れた、熱を与えてくれた、そんな貴女をずっと目で追っていた)
柩は変わり果てた紅花の亡骸を、腐海のように濁った暗い眼差しで見つめていた。
ゆっくりと手を伸ばす。しかし、それに触ることはできなかった。
かける言葉が見つからない。喉元に息が詰まり、呼吸ができなくなる。膝がガクガクと震えて真っ直ぐに立っていられない。急遽訪れた死神の存在に、唇を噛むしかなかった。
ぼうっとした目で、呆けたように虚空を見つめていた。
こんなにも近くにいるのに、もう紅花の声は聞けないのか……
「紅花、俺は貴女がいてくれないと生きていけないんだ。だから、俺を置いていかないでくれ。俺の側に……ずっといてくれよ……」
紅花の死を容易に受け入れられるほど、柩の心は強くなかった。
一筋の涙を零し、その場から逃げるように立ち去る。
そして一人、声にならない慟哭を上げた。
暗闇の中で一つだけ見えていた光り輝く道標。それが紅花の赤いポニーテールが垂れる背中だった。心が折れずにいられたのは、彼女がいたから。
(あぁ……俺は、ずっと……紅花を、追いかけていたんだ)
いつも隣にいたと思っていたのに、本当は後ろ姿を見ていただけだったのか。
紅花を愛おしいと思う気持ちが、空っぽの内側から溢れてきた。いつからこんな風に思っていたのだろう。でも、心に馴染むこの感じは、たぶん初めて出会ったときから――
「……そうか……俺は紅花と一緒にいるのが楽しかったんだ……」
いつの間にか、柩は彼女のことを好きになっていた。それを失ってしまった。
言葉にならない声が天を貫く。脳が痺れて頭が真っ白になった。
気が遠くなるほどの絶望が押し寄せる。また独りになった。
柩が師匠、紅花に中国拳法を教わったのは五年間だった。長いようで短かった。
紅花を好きになって、大切な人ができる幸せを知って、一緒にいるうちに思った。
「……紅花、貴女にいつか恩返しをすることが……俺の生きがいだったんだよ……」
そんな彼女も、今はもういない。猛烈な喪失感が全身を巡り、真の孤独が訪れる。
地獄を見た。堰を切ったように止めどもなく溢れ出し、頬を伝う滂沱の涙。
紅花のいない世界に生きる意味はあるのだろうか。
(……愛している、紅花。世界中のすべての人間よりも、貴女のことを愛している)
それから、およそ半年後――――――