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星が綺麗ですね

今夜も星が綺麗ですね

作者: 悪目漱石

テスト投稿2

「星が綺麗ですね」と彼は言った。


「星たちが綺麗ですね」と彼は言った。


 悪戯を見つかった子供のように、ばつの悪そうな笑みを浮かべながら。


 私は彼のそんな顔が好きだった。どうしてだろう?

 

 八つも年上な彼が、その時だけは身近な存在に感じられたからだろうか?

 それとも大人になってもそんなナイーブな表情ができることに感心したからか?


 照れ隠しに彼が浮かべる微苦笑は、予期せぬところで彼の本質を映し出していたように思う。

 

 透明にして曖昧、繊細にして脆弱。

 

 あの頃の私は、それをただの不器用さだと思っていた。

 

 黒は黒、白は白。

 

 私にとっての現実とは、色を判別するリトマス試験紙のようなものだったから……。


 少女から女性への階段の途中にあった私は、夢と現実の齟齬に苦しんでいた。


 そんな私の心を惹きつけた彼が何者であるかなんて、当時は考えてもみなかったのだ。

 

「こんな人もいるんだなあ」くらいに捉えていた。





「一週間ほどで戻るよ。それじゃあ行ってくる」


「楽しんで来てね」


 それが彼と交わした最後の会話だった。


 そう言って彼は雪山に出かけて行き、そして二度と帰っては来なかった。


 死体も見つからなかった。


 文字通り、彼はこの世から消えてしまったのだ。


 私の心に、曖昧で繊細なあの微笑みを残したまま……。

 






 それからもう六年になる。

 

 その間、私には様々な変化があった。


 まず、成人した。そして社会に出た。

 つまり大人になったのだ。

 

 自立した一人の女になった私は、気が付くと彼と同じ年齢になっていた。


 今だから分かる。彼の存在は異質だったのだと。

 


 今日も私はベランダで、グラスに注いだお酒と共に、かつての純粋な想いを飲み干す。


 このような習慣がついたのはいつからだろう?

 

 会社の先輩と別れてからだから、去年かな?

 


 


 それなりの大学を出て、そこそこの企業に就職した私は、生活をする内にだんだんと世間の小狡さに慣れていった。


 興味もない相手に笑顔を振りまくことが多くなった。


 好きでもない人と、一緒に休日を過ごすことが増えていった。


 愛しているかも分からない人と一夜を明かしたりもした。


 思ってもいない言葉を口にして、空白を埋めるように人との約束を取り付けた。そうしなければ辛かった。

 

 これが生きていくことなんだと思っていた。

 

 けれど、ふとした瞬間に思う。私は本当に生きているのだろうかと?


 間違いなくこの心臓は動いている。

 理性だって働いている。

 お金も人並みにはある。


 それなのに、折に触れては彼の事ばかり思い出すのだ。





 唐突に私の前から消えてしまった彼……。


 当時の私は、そのことに何も感じることができなかった。


 あまりにも突然で、感じる余裕すらなかったというのが正確なところなのだけれど……そんな言い訳すら遥か過去のこと。


 当時私が、彼の死にどのような感情を抱いていたのか、もうそれすら思い出せない。

 

 これが後回しにしたツケなのだろうか?


 時の流れの中で、悲しみも愛しさも磨り減ってしまった。


 そして学んだ。

 

 喜びにも苦しみにも味わうべき期限があるのだと。


 彼を好きであったのは間違いない。


 その後好きになった人たちの誰とも彼は違った。


 何が違うか分からない。だから忘れられない。


 しかるべき時に私は、彼への想いを弔うことができなかったのだ。

 だからその後も、彼への想いが私の心に(まと)わり続けた。

 

 忘れる努力もした。

 けれどなぜか、生きれば生きるほど彼への想いは私の心に尾を引いていく。


 誰かを好きになる度に、改めて彼への想いを思い知らされるのだ。

 

 彼のあの微笑みが頭の中から離れなかった。

 

 


 一時は罪悪感なのかとも疑った。

 しかしそうではない。

 

 これは私自身への視線だ。


 かつての私が、彼の記憶を通して現在の私を見つめている。

 

 ロマンチックな言い方をすればこうなる。

 『彼を好きだった私が、今も私の気持ちを試しているのだ』と。


 そこでようやく、彼への気持ちが愛だったと知った。


 好きであることと愛することは、似ているようで全く違う。


 報われたいのが好きという感情であり、殉じたいのが愛という動機である。

 

 そう考えると私は、あの頃から彼の微笑みに魅入られていたのだと思う。


 私も将来、こんな風に笑えたなら……。




 人生の酸いも甘いも噛み締めた今だからこそ理解できた。


 彼のあの微笑みが、諦めを越えた先にあるものだったのだと。

 


 健気に煌めく星の光を受け取るように杯を掲げる。

 少しでもあの頃の純粋さに近づければ……。


 さんざめく星々の輝きが、グラスを通して朧げに瞳に映る。

 その光がかつてよりも色褪せて見えるのは、私の心が(たわ)んでしまったからだろう。


『星たちが綺麗ですね』と、あの日の彼は言った。


『僕たちだって地上の星だ』と、あの夜の彼は言った。

 

 

 その真意がやっと理解できた。


 彼も私も、星と同じなのだ。


 だから私の目に映る星が曇る時、それは私自身が曇ってしまったことに他ならない。 

 だからなおさら彼のことを思い出してしまう。



 だってあの冬の夜、彼は星の煌めきをそのまま瞳に映しだしていたのだもの。

 他でもない私の目を通して……。






 けれどもう私の目にあの星空は映らない。私の隣に彼はいない。

 これが生きるということなんだ。

 




 



 今宵も悲しみは深々と降り積もる。


 心に積もるやるせなさを、私はお酒と一緒に飲み干した。


 胸の内で今にも消えてしまいそうな仄かな温もりを感じ続けるために……。

 そしてその温もりを追い駆けるように、左手が酒瓶へと伸びていく。

 

 もはや習慣となってしまった一連の動作だ。

 お酒を注ぐ。

 グラスに星を透かし見る。

 輝きごと飲み下す。


 気付くと夜が明けている。




 思い出と今、私は一体どちらを生きれば良いのだろう?

 

 迷っているから、今夜も星たちは私を離さない。


 



 もう一度あの夜に戻れるならば彼に聞いてみたかった。


 どうして苦しくても笑っていられたのかを。


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