1・サイレン
船内に女の声が奏でる、もの悲しげな歌が響く。
よく澄んだ歌声。歌詞のない、純粋に声を楽器として奏でられる歌。
それは、唐突な出来事だった。電脳と直接つながっている、すべての音響機器から、この歌声が流れ出した。このような操作は船橋からしかできないはずだが、当時、船橋にいた者は、このような操作はしていない。
そして、この歌声と同時に、船外との交信が一切できなくなった。
恒星間貨客船、遊馬の船内に奇妙な歌声が流れはじめて、すでに一時間。その原因は、未だ特定できていない。
遊馬の目的地である天道中継点まで、あと七時間の距離だった。
「電脳の総点検、終了。異常は……見つかりませんでした」
遊馬船橋で電脳の点検を終えた航術士は、その結果を、ためらいがちに船長へと伝える。
「どうなっている……」
報告を受けた船長が、忌々しげに呟く。こんな出来事は、船乗りとしての長い生活の中でも初めての事だった。
「サイレンの歌声……」
ひとりの航術士が、蒼白な顔で呟いた。
サイレンは海の魔物。美しい歌声で船を誘い、暗礁などへ座礁させるといわれる。光よりも早く船が星々の間を往来する、この時代でさえも、サイレンは船乗りたちに恐れられていた。
もっとも、かつての伝説がそうだったように、実際、サイレンに遭遇した船などは無いはずだった。辺境で遭難し消息を絶った船を、サイレンに呼ばれたのだと船乗りたちが噂しあう。そうして、未だに語り継がれているだけの伝説。
「この船は……サイレンに呼ばれているんだ」
先ほど呟いた航術士が、もう一度、呟いた。
それは、本来、口にしてはならない言葉だ。恐怖は言葉で伝染する。言葉で恐怖は狂気に変わる。
「馬鹿げてる。サイレンなんて、いるわけないっ!」
まだ少女の面影を残す若い航術士が、椅子を蹴って立ち上がった。
恐怖は言葉で伝染し、言葉で恐怖は狂気に変わる。故に人は、恐怖を言葉で否定する。
船橋が緊迫した空気に包まれる。そんな中、航術長が気抜けする声で口を開いた。一つ前の航海から遊馬に雇われた軍人崩れの船乗りだ。やる気無さ気な態度だが、船乗りとしての実力は船の誰もが認めていた。
「だいたい、わかりましたわ。たぶん、これはクラッキングですな」
クラッキングとは、電脳を介した、あるいは電脳そのものを対象とした妨害、あるいは破壊工作の事である。
船橋にいる全員の視線が航術長に集まる。
「まあ、かなり腑に落ちない点もありますが、状況から察し、クラッキングと断定して良いでしょう」
立ち上がり、船橋を見回しながら、航術長は、そう言葉を続けた。
「説明できるか?」
船長の問いに、航術長は小さく笑って口を開く。
「サイレンではないと、自信を持って断言できます。まず、ここは船の往来の多い航路で僻地ではない。そして、サイレンの噂が流れたことは、過去に一度もない。そもそも、他船の推進炎を、目視できるぐらい近くに船がいるんですよ? この状況下なら、遭難の心配もありませんな」
「でも、通信機が……」
「この距離なら、発光パターンを使ったモールスなりで、通信機に頼らない交信が可能だ。通信機の沈黙ぐらいで悲観するには、まだまだ早すぎるぞ小僧」
不安そうにいう航術士を、航術長は、笑って切り返す。そして、溜め息をついて言葉を続けた。
「相応の処理能力を持つ電脳と、それを使いこなせるだけの腕があれば、このレベルのクラッキングも十分に可能なんですが……問題は、目的が読めない事ですな。こんな手の込んだクラッキングを、無目的に行ったりは、しないと思うわけですが」
言い終え、航術長は、身に覚えは? と、問いかけるように船長に視線を向ける。
「……対策は?」
問いかけながら、全く覚えがないと言いたげに、船長は両手を開いてみせる。
「監視ぐらいでしょうね。そして、状況の変化があれば、迅速かつ臨機応変な対応を取れば問題ないはずです。まあ、相手の思惑がわかれば、こっちとしても手の打ち方を考えられるわけですが……」
航術長は、大きく溜め息をつく。
「楽しそうだな……」
航術長を見て、船長は呆れたように言った。
「そう見えます?」
心外だとでも言いたげに、航術長は問う。
船長は航術長の問いにはこたえず、溜め息をつくと船橋を見回し口を開いた。
「通信用レーザーを電脳から切り離し、通信を試みろ。中枢電脳との接続は完全に絶て」
船長が、そう言い終わった瞬間、船が小さく揺れた。姿勢制御用のスラスターが小さな推進炎を吐き出し、船の針路を僅かに逸らす。
今の遊馬は慣性航行中だ。無論、誰も、このような操作は行っていない。
「どうなっているっ!?」
「わかりませんっ」
船長の問いに、操船を扱う航術士が取り乱したようにこたえる。船長は、自分を落ち着けるように溜め息をつくと指示を飛ばした。
「針路を修正しろ」
「いや、推進剤に余裕がありますし、このまま様子を見ても……」
船長の言葉に航術長は、そう反論しようとするが、船長が船橋内を見回すのを見て口をつぐむ。
船橋の者たちは、大半が恐怖のため蒼白になっている。
歌声に通信機の沈黙。そして、この不自然な船の機動。遊馬がサイレンに呼ばれていると判断するには、十分な材料だ。進路を変えないということは、サイレンの術中に、あえて嵌るような物ともいえる。乗員たちの不安は計り知れないだろう。
航術長は船長を見て、感心したように小さく笑った。
船が小刻みに揺れて針路が修正される。
「星が消えた……?」
船橋の皆が沈黙している中、ひとりの航宙士が呟いた。サイレンなどいない、そう叫んだ若い少女の面影を残した航宙士だ。
その言葉は、皆に聞こえた。すぐさま、船橋前面に投影される星空に視線が集中する。
「確かに」
「星が消えていく……」
船橋にいる皆が、口々に呟いた。
満天のはずの星空。その中央に、ぽっかりと穴が空いていた。そして、その穴は、周囲の星々を呑み込みながら大きくなってゆく。
「緊急回避っ! 正面に何かあるっ、避けないとぶつかるぞ!!」
航術長が、怒鳴るように叫んだ。
「で、ですが、レーダーには何の反応も……」
始めて聞いた航術長の怒鳴り声に、操舵士が戸惑ったようにこたえる。
「あれは潜宙艦……ステルス艦の類だ。光も電波も反射しない。だから、光を遮ることでしか見えないんだっ! 手遅れになる前に回避行動を取れ!」
航術長の再度の指示に、弾かれたように、操舵士が進路を変えようとする。
「ふ、船が、操舵を受け付けませんっ!」
悲鳴に近い操舵士の言葉。
「推進系を電脳から切り離せ! 機関部からの直接制御で進路を変えろ!」
今度は船長が指示を飛ばした。
数名の航術士たちが、船橋から駆けだして機関部へと向かった。
が、航術士たちには分かっていた。この遊馬は、電脳による制御を前提に造られている。つまり、直接制御が簡単に行える船ではないのだ。回避行動は、まず間に合わないだろう。
「この船は、やはりサイレンに呼ばれてるんだ……」
絶望したように呟く一人を、航術長は、ハッとしたように見た。
「ああ……なるほど。そういうことか。まったく、分かり難いことを……」
そして航術長は呟くと押し殺した笑い声を漏らす。
「航術長……」
そんな航術長を、少女の面影を残す航術士を途方に暮れたように見つめる。それに気づいたらしく、航術長は大きく深呼吸した。
「大丈夫。まず、ぶつかりません。最悪でも、あっちが避けてくれるはずです」
星々を呑み込みながら広がる黒い穴。その端から、小さな炎が瞬いた。
次の瞬間、遊馬よりも大きな影が、船の、すぐ脇を駆け抜けていった。いや、正しくは影の脇を、遊馬が駆け抜けていったのだろう。
歌声は、徐々に小さくなり、そして間もなく消えた。
「間一髪……でしたね」
少女の面影を残した若い航術士が、尊敬の眼差しで航術長を見る。
「いったい何だったのかねぇ……」
航術長は、自らの席に深く腰掛けると呟いた。
「どういうことだったんだ?」
船長は尋ねる。
「クラッカーの思惑は、我々に、サイレンに出くわした際の、普通の対応をして欲しかったんでしょう。そして、その対応を取らなかった場合の対策まで、仕込んでおいた、と」
「なるほどな……」
航術長のこたえに、船長は感心したように言う。
要するに、クラッキングを仕掛けてきた相手は、この遊馬に進路を変えて欲しかったのだ。
「一応、中継点の管制に、ニアミスの報告を入れるべきかと思いますが……」
いったい、どう報告したものか、とでも言いたげに、航術長は頭をかいた。
間もなく、遊馬の通信系を始めとする全ての機能が復旧した。が、歌声が流れている間の、全ての記録は失われていた。
『恒星間貨客船・遊馬サイレンに遭遇」
数時間後、そのニュースは、ゴシップ報道に乗って光より速く周辺の宙域を駆けめぐったのだった。