第八章 殺し屋の仕事
自由と文化多元主義の入り混じる連合国家、アメリカ合衆国──その西海岸。
カリフォルニア州中央部、フレズノ郡。
山間のオレンジの木々が朝日を受けるか受けないかという未明、タンジェール市郊外はうっすらと霧が立ち込めていた。
タンジェール市はその面積の半分以上が農芸に使われている、農業の盛んな街だ。
この辺りは商店や民家が区画に並ぶ都市地域だが、それでも個人が作った自給用の小さな畑は幾つか散見された。都市部であるためか規模も小さく、栽培されているのは二、三種類の野菜といったところだろう。
背の低い建造物が建ち並ぶ街並みを眺めようにも、二ブロック先は既に白く隠されてしまって、足下に敷かれた石畳の道さえ碌に見えない。脇に聳える街路樹だけが、道の進む方向や曲がり角を教えてくれていた。
道の角には、郡内で育てられた花が集まるフラワーショップが開店時間を待っている。似たような店舗はブロックを跨ぐとすぐに見つかった。
本格的な農家もなく、こんな時間に霧の通りを歩く者などいないはずだった。
ところが、街路樹の向こう、霧の最中から一人の男が現れてこちらへやってきた。
歳の頃は三十代半ば。焦げ茶色の髪を短く切り揃えた男は、土で汚れたオーバーオールで身を包んでいる。背はさほど高くない。
目元の彫りは深く、鼻梁も高いが頬は少し痩けていた。
男は目的があるのかないのか、白い世界を独り彷徨く。
そして男は道路を渡り、一段と霧の深い歩道へと足を踏み入れた。
『いいぞ、行け』
耳に当てたインカムから聞こえた指示に従って、彼は音もなく茂みから身を出した。
そのまま石畳の上を滑るように、彼は音もなく男へ接近する。
深い霧の奥から、地を這うように身を屈めて走る彼の姿に男はまだ気づかない。
そして三秒と経たない合間に、彼は男の間合いに侵入した。視界に捉えられないよう極めて低い体勢を保ったまま霧に紛れてその背面へと回り込む。
そこで男はやっと、妙な風を感じて立ち止まった。
──が、時既に遅し。
その刹那、男は背後から長身の影に組みつかれて、足を繰って逃げ出すことができなくなっていた。
急変する事態を飲み込めず、とにかく男はがむしゃらに腕や脚を動かすが、思うように身体が動かない。靴底は縫い止められたように石畳へしがみつき、両腕は彼の片手によってその関節を封じられていた。
藻掻く男に、彼はただゆっくりと手を伸ばす。
男の肘を極めていた手でその口を固く塞ぎ、もう一方の手に握った黒いブッシュナイフを男の首筋に宛てがう。
彼は逡巡しなかった。
彼は待たなかった。
しかし彼はいつもの通り、最後の最後までこの男の命を助けられないか考えながら、
その首筋を掻っ切った。
* * * * *
「お疲れさん、HLuKi」
黒いバンに乗り込んだ人物に、金髪黒人の大男が声をかけた。
「ああ。お疲れさま」
その隣に腰を下ろしたHLuKiと呼ばれた男は素っ気なくそう返す。
バンの中は異様なほどに暗かった。
前面と後面以外の窓にはマジックミラーが用いられ、その内側には遮光フィルターが貼られている。
運転席と助手席には言葉を交わした二人のほかにそれぞれ人員が座っていたが、前の席と後部座席とは黒い網目で遮断されていた。
扉が閉まった頃合いを見て、運転手が一声かけてバンを発進させる。
「今日も掃除屋の仕事を見届けてきたのか」
いつもより無口なHLuKiを隣に迎えたGolGorが、彼に適当な話題で話しかける。
「ああ」
簡単に、HLuKiは一言で返事を済ませた。
「そうそう、ラランジェスが消えた後始末とかは、全部オルビス農家のほうで済ませてきたぞ。これで少なくとも、突然の失踪っつー不自然さは拭えたはずだ」
HLuKiはありがとう、とまた簡素に礼を言った。
「……あ、HLuKiさん。これ、タオルです!」
HLuKiの左後ろから白いタオルが差し出されたが、
「いや、いい。掃除屋が気を利かせて、僕にもタオルをくれたからね」
これにもあっさりとした態度で応じた。
「…………」
バンの後部座席に乗っていたGolGor、neut、Star Mは、目を閉じて俯くその横顔を眺める。HLuKiからの反応はなかった。
「は、HLuKiさんどうしたんですか?」
本人には聞こえないよう、neutは前の席のGolGorに手で口元を隠しながら尋ねる。
「……こいつは実績の割りに、人を殺すのを嫌がるからな。いつもはこんな風に落ち込んだりしねえんだが……今回の件はなにか、HLuKiにとって思い入れがあったのかもしれん」
「HLuKiさん……」
GolGorとneutは揃ってHLuKiへ振り返る。
HLuKiは薄く眉を寄せて、思い詰めた表情で腕を組んでいた。
GolGorはその肩をぽんと叩いて、
「HLuKi。殺したくねえなら、俺やStar Mに任せてもよかったのに」
「大丈夫だよ。初めから、僕がやるつもりだった」
「……そうか」
「…………」
すぐに会話は終わった。
GolGorが気まずそうに頭を掻く。neutはどうしたらよいか、おろおろと困り果てていた。
そんな三人のちぐはぐな様子を見兼ねて、Star Mは独りそっと溜め息を吐く。面倒そうに薄目を開いて、Star Mは前に座るHLuKiに話しかけた。
「……なにか、腑に落ちないところがあるんだろ?」
「ああ」
HLuKiは、力強く一言。
「……え?」
「ん?」
neutとGolGorが間の抜けた声を出した。寡黙だったHLuKiが言葉を続ける。
「どう考えても奇妙だ。……どうしても、この依頼には引っかかるところがあるんだ。謎が解決しないまま犯人を捕まえたみたいな、気味の悪い後味が拭えない」
「……え? HLuKiおまえ、目標をやっちまったから、それで落ち込んでたんじゃねえのか?」
「?」
GolGorの問いかけに、HLuKiは首を傾げる。
「……そりゃ、人を殺しちゃったら落ち込むよ。当然だろ。だけど僕がいま悩んでるのは、もっと別のことだ。もっと、直接仕事に関係あること」
「なにが腑に落ちない?」
Star Mが端的に訊く。
HLuKiはうん、と一呼吸挟んで、
「……実は、僕も「K’s」にある調査を依頼してたんだ。報告が来るのは依頼日を過ぎてからだろうと思ってて皆には言わなかったんだけど……その結果が届いたのは、昨日の夜遅くだった」
HLuKiは座席下に置いていた黒いブリーフケースから、透明のファイルを取り出して後ろのStar Mに渡した。
「ずっと気になっていたんだ。彼の給料の行き先が」
Star Mが無遠慮にページを開くと、そこに載っていたのは一つの預金通帳の写しだった。数ヶ月間に渡って、口座への出納が細かく記されている。
そこに印字された数字を眺めて、
「………? ……おい。これって本当に奴の通帳か?」
「どうした」
無理やり、GolGorが戯けて覗き込もうとして、
「んー? ……ん? ………なんだこの金額」
その顔つきが一気に真剣になる。
「明らかに、職に困ってる移民の貯金額じゃないな」
Star Mが指で数字をなぞり、
「初めから金額は多いまま……で、月ごとの収入はそうでもないけど……二ヶ月に一度、かなりの額が定期的に引き下ろされてるな」
「それが一つ目の疑問点なんだよ」
やっと順番の回ってきたneutが、慌てて数字の後ろについた零の数を数えて飛び上がった。
「預金通帳の不自然な動き。それに……これを見てみてよ」
HLuKiは一旦そのファイルを驚愕するneutから受け取って、間に挟んでおいた封筒から一枚の紙を取り出す。
「これは?」
Star Mはそれを手に取った。
ルーズリーフと同じ程度の大きさの紙には、二、三のある銀行の支店名となにかの金額が合わせて表に示されている。
「それは郵便と銀行の記録から割り出して、「K’s」で一つの表に纏めてもらったんだ。要は、ラランジェスの給料の行き先だよ」
「え?」
Star Mが驚いて前を見ると、既にHLuKiは横目にそちらを振り返っていた。そして静かに頷く。
Star Mの薄いブラウンの瞳が、音もなく見開いた。
「………そうすると、奴の経歴は……」
「……俄かには信じられねえが、そうとしか考えらんねえな」
いつの間にか紙を覗いていたGolGorがそう同調する。
「さすがに税関越えたら、引っかからないはずはねえもんな」
「……そうだな」
「それともう一つ。彼の顔立ちについてだ」
「顔立ちだ?」
怪訝なGolGorの声にHLuKiは腕を組んで、
「ああ。これは第一と第二の疑問を補足することになるんだけどね。とりあえず……、これを見てほしい」
HLuKiが懐から取り出した書類と写真を、それぞれStar MとGolGorが受け取った。
Star Mの受け取った書類はラランジェスに対する例の奇妙な依頼書のコピー。neutがHLuKi用に用意したもの。
そしてGolGorの受け取ったカラーコピーされた写真は、数日前neutが生前のラランジェスを盗撮したものだった。そのうち、特に顔がよく写っている何枚かがそこにピックアップされている。
「依頼書に載ってる引き伸ばしてぼやけた写真と、neutが撮ってきた写真。よく見比べてみると、なにか違和感がないかい?」
「ん……?」
ヒスパニック系のStar Mと、アフリカ系のGolGorが揃って二種類の写真と睨めっこする。
「……たしかにこれじゃ、普通のヨーロッパ系アメリカ人に見えるけど……」
「………待てよHLuKi。じゃあおまえ、もしかして………!」
「ああ」
HLuKiは眉間を指で弄りながら、声を絞ってGolGorの予想を肯定した。
がくん。
車体が一際大きく揺れ、その動きが止まった。
運転手の着きましたよ、の声に四人の男は降車の準備を始める。その前に、
「おかしいと思ってたんだ。こういう事件ってやっぱり、移民税関執行局とか麻薬取締局が先に動くんじゃねえのか、って。いくら省が責任を負うかもしれねえからって、誰にも気取られずにいきなりマーダーインクに依頼なんか持ち込むなんてリスクがデカすぎるもんな」
「ラランジェスの給料の行き先といい引き出されたお金といい、調べ直す必要がありますね」
「……悪意を感じるな。俺はとりあえず、ブラジル系で身元不明のラランジェスって男が不法入国で検挙されてないか、その辺から確かめてみることにする」
「僕は彼が、どうして毒オレンジなんかを栽培していたのか……その理由が知りたい。彼を殺した本人として、僕はそれを知る義務がある」
バンが到着したのはサクラメント市内、会社「RedRum」本部の駐車場だった。
四人はバンから降りて、互いに顔を見合わせる。
代表して、GolGorが告げた。
「まだ仕事は終わってねえぞ同僚ども。ただ殺して終わりなら、殺し屋なんて必要ない。俺たちは目標を殺して、合衆国の未来を脅かす輩を悉く打ちのめす仕事まで担うから──殺し屋なんだ」
依頼は完了した。
合衆国の未来を脅かす輩は死んだ。
けれど彼らは止まらない。
殺すだけでは辿り着けない結果を求めて、四人の殺し屋は手当てのつかない残業を開始する。




