第四章 殺し屋の事前調査
お久しぶりです。
桜雫あもる です。
また投稿が遅くなってしまいました!
最近忙しいンですよねえ……言い訳ですけど。
今期のアニメも全然観てませんし、なんだかどんよりです。
夏バテしないように頑張るぞ!
というわけで、『優しい殺し屋の不順な事情』第四章お楽しみください。
HLuKiは巨大な書棚に囲まれていた。
向かい合う壁の上方に幾つも並ぶ、半円に長方形を足したような大窓からカーペットの室内へ光が射し込む。
柔らかなクリーム色の壁が広い室内に整列する艶やかな木製の机や受付台、書棚に落ち着きを与えている。天井からは円形の傘が吊り下げられて、暗中で照明として機能するらしかった。現時刻でその必要は微塵も感じられない。
朝日で陰影を深めた床の青い凸凹を革靴で踏み締めて、HLuKiは壁際の書棚から黒塗りの厚い一冊を取り出した。
暫く黄ばんだページを捲って、それを書棚の元の位置へ戻す。
木枯らしが緑に囲まれたレンガの壁や窓を叩いたが、それはHLuKiにまで届かなかった。
HLuKiは頭を右に傾けて並んだ書籍の背表紙の文字を指でなぞった。指は一冊の背を這い終えると、右隣の書籍へ移行する。
その動作を何度か繰り返して、やがてHLuKiは同じく黒塗りの重い一冊を書棚から抜き取った。手にとって金の表題を確認し、古びた表紙を開こうとして、
「あー、ハルキだー」
幼い声が足元から響いた。続いて軽やかな足音と、右脚への小さな衝突。
「ん?」
首を振って見下ろすと、HLuKiの足元ではくりくりと巻いた栗色の髪の男の子が、大きな瞳をいっぱいに開いて笑っていた。
「ハルキー!」
「やあ、ロブ。こんな所で会うなんて偶然だね」
ロブと呼ばれた五歳くらいの男の子はエヘヘといかにも嬉しそうに笑って、
「ねえ、また日本の遊び教えてよ! ボク〝シュリケン〟やってみたい!」
「……手荷物じゃ持ち込めないだろうなあ」
現代の諜報する殺し屋HLuKiは、数世紀前に活躍した諜報の専門家に密かに思いを馳せた。
きらきら光る眼差しにうまい返答を考えていると、
「あっ。ずるいよロブ! わたしもハルキと遊ぶっ!」
ロブがしがみついているのとは逆の脚を、走ってきたキャラメル色の髪を伸ばした女の子が掴んだ。歳はロブと同じくらいか。
面食らうHLuKiをよそに、女の子は脚の陰でロブを睨む。
「なんだよキャシー! おまえはむこうで遊んでろよ!」
「やだ! ロブこそ、むこうで遊んできたら?」
子供特有の、よく響くソプラノの口げんかが始まった。
広く静まりかえった室内に二人の甲声はたちまち広がる。平日の朝方というのもあって、近くに他の利用者が見受けられなかったのは幸いだった。先ほどまでいた館員が居合わせなかったのも都合がいい。
HLuKiが笑顔で二人の仲裁に入ろうとしたとき、
「こら、ロブ、キャシー。図書館で大きな声を上げてはダメでしょ」
二人を窘める声がHLuKiの背後から聞こえた。
「だってキャシーが」
「だってロブが」
二人の言い訳に合わせて、HLuKiは声の主に目をやる。
そこに立っていたのは二十歳くらいの若い女性だった。
「二人とも騒いだんだから二人とも悪い。今度騒いだら、もう連れてきてあげませんよ」
柔らかな物腰でロブとキャシーを叱る女性は、胸元や腰回りをふわりと弛ませたエプロンワンピースを身につけていた。
薄く茶色がかったセミロングの金髪が藍色のワンピースの襟に垂れる。ロブとキャシーを見下ろす両の瞳は、綺麗なシアンの色をしていた。
「ロブは恐竜の本を探しに来たんでしょう? キャシーも、宇宙の本なら向こうにたくさん揃っていましたよ」
「でも、ハルキがー」
「早く本を選ばないと、絵本の朗読会に間に合いませんよ? HLuKiには、また今度ゆっくりと院に来てもらいましょう。ね?」
「……はーい」
渋々といった表情で、ロブとキャシーはHLuKiの脚を放して思い思いの方向へ小さな靴を進ませる。名残惜しそうな二人の横顔にHLuKiは軽く手を振った。女性は二人の背を見届けて、
「すみませんHLuKiさん。お騒がせしました」
「子供はあれくらい元気なほうがいいよ」
困ったような顔で贈られた謝罪に、HLuKiは首を横に振る。
「アニーも元気そうで何よりだ」
「HLuKiさんこそ」
アニーと呼ばれた女性は朗らかな笑みを零した。
「院のほうはどう? みんな元気にしてる?」
「ええ、それはもう。HLuKiさんがいつも寄付してくださるおかげで、みんな毎日笑顔が絶えません」
「それを聞いて僕も嬉しいよ」
アニーが一度、ロブとキャシーの去った方向を気に掛ける素振りを見せた。
「でも、まだ州からの補助金だけで経営していくのは難しそう?」
「ああ………ええ、そうですね。難しいです」
アニーは顔を曇らせて、
「補助金の殆どは、やっぱり州が運営してるところとか教会関係に取られちゃいます。うちの院も創立はシスター・アルサラのお力なんですけど、教会が直接やっているわけではないですから……なんとも言えませんね」
「そうか……」
HLuKiは顎に指を当てて思案顔になった。
「最近は食料農業省の人が、安全な農薬がどうとかってお金をいっぱい使ってるらしくて。なかなか福祉のほうにお金が回ってこないみたいです」
「農業はカリフォルニアに必須な産業だから……州としても力を入れたいんだろうね」
「そのために恵まれない子供たちを蔑ろにするなんて、信じられません」
眉間に力を入れて語っていたアニーは、そこではっとして言葉を止めた。
「………あ、ごめんなさい。なんだか愚痴に付き合わせてしまったみたいで」
HLuKiはううん、と首を横に振って、
「気にしないで。アニーの話を聞くのが僕は好きなんだ」
長身から繰り出された微笑みに、アニーは照れたようにぱっと目を逸らした。
「……、えっと」
二の句を探すように視線をころころと移すアニーは、HLuKiの手の中に重そうな書籍を見つけた。
「HLuKiさんは、なにか調べ物ですか?」
「ああ、うん」
笑みを絶やさずに頷いて、
「ちょっと野暮用でね」
HLuKiは手に持った厳かな雰囲気をもつ書籍の表紙を、こつんと叩いた。
そこに刻まれた金色の表題は、『Business Law in California』。
* * * * *
「結論から言うと、ダメだった。見つからなかったよ」
その日の昼、会社「RedRum」のいつものオフィスに集まった四人は、いつもの席に座り、いつものように議論を交わしていた。
四人の手元には昨日問題提起された書類のコピーが人数分と、紙コップにオレンジジュースが注がれている。
「サクラメント公共図書館で、カリフォルニア州法について一通り思い付く限りの法典と法条を回ってみたけど、それらしい記述はどこにもなかった」
発言するのはドアから向かって左奥に座るHLuKiだ。
「本当に全部見たのか?」
「見たよ。さすがに選挙法とか財政法とか、全く関係ないようなのは外したけど。企業職業法、民法、安全衛生法、刑法、……もちろん食料農業法も、片っ端から読み漁った」
何かの資料を参照することもなくHLuKiは隣でペンを走らせるneutに延々報告する。目が疲れているのか、随所でHLuKiは両の目頭をぎゅっと摘んだ。
「幾つかカリフォルニアの習俗が絡んだ独特の州法はあったけど、流石に〝ホテルの部屋でオレンジの皮を剝くな〟なんてイレギュラーなのは無かった」
「ってことは、正式に法文化はされてないってことだな」
HLuKiのはっきりとした説明を聞いて、GolGorは唸った。
「じゃあHLuKiはハズレだったわけだ。neut、おまえはどうだった?」
「えっと、僕は昨日GolGorさんに言われたとおりインターネットで検索をかけてみました」
GolGorに振られて、HLuKiの報告の記録にペンを取られながらneutは口を開く。
「こっちは逆に、たくさんヒットしましたよ。その数なんと五千万件以上」
「五千万? かなりポピュラーだな」
驚いて、Star Mはオレンジジュースのカップに口を付けた。
「ええ。でも実際はもっと多いでしょうね。文の言い回しを変えて、色んなウェブサイトで〝カリフォルニアではホテルの部屋でオレンジの皮を向くのは違法〟みたいな内容の噂が書いてありましたから」
「それなりの都市伝説程度には、名が通ってるってわけか」
腕組みをするGolGor。
「はい。それも結構有名な部類みたいです」
「僕もちらっとインターネットを見たけど、日本語でもかなり検索結果が出てきた」
HLuKiが情報を補足する。
「へえ、日本語で?」
「それは筋金入りだな」
Star MとGolGorは揃って興味を示した。
日本と合衆国はかなり近しい間柄にあるとはいえ、日本語に翻訳されて広まっている合衆国のナショナルな情報というのはそこまで多くない。カリフォルニアは比較的日本にも馴染みの深い地域だが、それでもローカルな州法擬きが都市伝説的に広まっているというのは数少ない例に含まれるだろう。
「ただ、決定打はHLuKiさん同様見つかりませんでした。よっぽど判例が古いか、もしくは裁判自体がマイナーなのか……。正規のネットワークを外れてマーダーインクのネットワークも使って調べましたけど、大元に辿り着けませんでした」
がりがりとペンを動かすneutに、HLuKiはほんの少し眉を顰めた。
「どういうことだろう?」
「ふーむ……」
太い指で顎を掻きながら、
「つまり、判例有りきの明文化されてねえ法律、ってところか」
GolGorがぼそりと告げた。
「なんだって?」
HLuKiは目敏くそれに食いつく。
「判例があって法文になってない法律って……どういう意味なんだ? GolGor」
「いやほら、アメリカって判例法主義だから」
HLuKiの真剣な問いかけに、GolGorはなんでもないような顔をしてそう答えた。
「?」
「え? なんだよ、どうした?」
聞き覚えのない言葉に首を傾げるHLuKiの反応に、更にGolGorが首を傾げる。二人の間で弧を描くようにクエスチョンマークが飛び交った。見かねたStar Mは助け舟を出すように、
「GolGor。HLuKiは日本人だから、その辺の事情に詳しくないんじゃないのか」
「ん? ……ああ、そうか。日本じゃ違うんだったか」
GolGorは一旦きょとんとしてから短く刈り込んだ金色の頭髪をぽりぽりと掻いて、
「アメリカは訴訟社会だからな、裁判のスムーズさってのもネックになってくる。そうでなくても、いわゆる慣習法の原則が通じる国では、どんなに小さい裁判の判決でもちょっとした法律の役目を担うことになるんだよ」
「慣習法?」
「あー……そこからか」
ますます首を捻るHLuKiに、GolGorは面倒そうに頭を抱えた。暫し悩んだあと、
「例えば……そうだな。HLuKiがナイフで人を切りつけて捕まって、裁判に掛けられて〝三年間の奉仕活動〟っつー罰を食らったとする」
「嫌な例えだな……」
HLuKiが嫌な顔をする。GolGorはそんな反応を意に介さず、
「そうすると、だ。次に似たような犯罪を犯して捕まったneutの裁判では、HLuKiの判例を持ち出せばneut被告に同じような量刑を与えることができるんだよ」
「ぼ、僕ですか?」
neutは自分の顔を指差した。GolGorはすまんすまん、と楽しそうに笑って謝罪した。
「裁判なんて、それこそ海の魚の数ほどあるからな。いくら有名なジョークになっていても、社会的に殆ど意味を持たない程度の小さな判例なら、マーダーインク・ネットワークで遡れないものがあっても不思議じゃない」
Star Mは前髪を弄りながらGolGorに補足。GolGorはそれに同意するように手振りを付けて、
「まあ大方、どっかの馬鹿がホテルに宿泊したとき、借りた部屋でオレンジぶちまけて迷惑かけたって事件があったんだろうよ」
「この判例法擬きも、要はそういう些細なところから来てるんだろうな。きっと」
二人の理路整然とした解説を聞き終えて、neutは目から鱗が落ちた様子だった。
「はー、判例法主義ってそういうのだったんですね……」
「複雑な話をすると、〝Common law〟って言葉をどう定義するかってのも問題になってるらしい」
「僕、なんとなくしか知りませんでした」
「それはアメリカ人としてまずくねえか?」
「えっ、そうなんですか!」
neutは驚いてHLuKiに振り向いたが、
「……さあ?」
生まれも国籍も日本人のHLuKiは、そんな事情など知る由も無かった。
「………」
neutはとりあえずその話題は打ち切ることにして、GolGorに向けて一つの疑問を尋ねる。
「……法律になってなくても、法としての力はあるんですか?」
「強制力はあるぞ。っていうか、それが英米法の中心的な原則だ」
「なるほど、そこが日本との違いなんだね」
HLuKiは得心したように何度も頷いた。
「日本じゃ参考にされることはあっても、それが絶対的な基準になることはあり得ないから。確かに、それならあんな変てこな法律擬きができてもおかしくない……」
「納得していただけて何より。まあ、どっちがいいかっていうのはそれこそ国柄によるだろうがな」
デスクの上を見つめてぶつぶつと零すHLuKiにそう言って、Star Mはオレンジジュースを飲み干した。
「neut、おかわり」
「あ、はい」
neutは差し出された紙コップを受け取ると、壁際の収納の上に置いたペットボトル容器からオレンジジュースを注ぎ足した。とくとくとく、という心地よい音が個室に流れる。
「どうぞ」
「ん」
いっぱいまでオレンジジュースの注がれた紙コップを満足そうに受け取って、Star Mはその上澄みを舐めた。
「……それにしても、」
会話が止まりそうになったのを、即座にHLuKiが切り裂いた。
「それなら尚更うちなんかに依頼を寄越さないで、普通に訴えればいいのに」
「それは多分、この目標の経歴に関係してるんだろうな」
尤もな疑問に、Star Mはデスク上に全員分ある資料の他に、別個の資料をブランドのバッグから取り出して応答した。全員の視線がStar Mに集まる。
「昨日は罪状を発表したところで会議がそっちに引っ張られたからな。改めて、目標のプロフィールを言っておこう」
元々デスク上にあった数枚綴りの束を取り上げて、
「Thiago Laranjez、四十二歳。ブラジルからの〝正式な〟移民で、フレズノ郡タンジェール市の農場に勤務している男だ」
Star Mの解説に、三人は素直に驚愕した。
「! ブラジル移民なのか」
「……タイムリーな目標ですね」
neutの率直な感心に対してStar Mが無言のまま頷くのを見て、HLuKiとGolGorの顔付きは忽ち険しくなる。
「生年月日ほか身体的特徴は、後で各自知りたければ確認しておいてくれ。……ラランジェスはブラジル本国では、首都ブラジリア近くの小さな村に住んでいたらしい。三人兄弟の長男で、多少歳は食ってるけど典型的な出稼ぎ労働者だ。ブラジルに妻子を置いてきていて、子供は二人」
neutが慌ててメモを取ろうとして、隣のHLuKiから資料に全て記されているのを指摘された。neutの指がペンを手放す。
Star Mは一枚紙を捲って、
「えー、アメリカに来たのは六年前。当初からフレズノ郡で、幾つかの農家を転々としながらフルーツ栽培の手伝いをしてるそうだ」
「ふうん……」
「出稼ぎ労働者が農場勤務ってのはよくある話だな。なんの違和感もねえ」
オレンジジュースをぐいっと一気に飲み干して、GolGorはどかっと椅子に座り直した。
「強いて挙げるなら初めから国境からカリフォルニア州まで飛んできてるってくらいだが、気に留めるほどじゃねえな」
「あ……もう一杯いります?」
「いや、いい」
neutは伸ばしかけた腕を引っ込めた。
「……で、二ヶ月前の十七日のことだ。ラランジェスは、タンジェール市のビジネスホテルの部屋で、オレンジの皮を剥いた……らしい」
言い終えて、Star Mは上目に三人の顔を順に覗き見た。三人は一様に、要領を得ないとでも言いたげな表情を露わにしていた。
「……それで? 防犯カメラで果汁が飛び散る映像でも押さえてあんのか?」
馬鹿馬鹿しい、とでも言うように目を細めたGolGorは背もたれをぎしっと軋ませた。
「いや……そういう情報は入ってない。そもそも部屋の中なんだから、カメラなんて付けるわけにもいかないだろう」
「なんてふざけた依頼だ」
GolGorは大げさに頭を抱える。HLuKiも片手を頭に置いて、
「今更だけど……それって本物の依頼なのか? OrB辺りがふざけて書いたとかじゃなくて?」
「いや、残念ながらその可能性はゼロだ」
いくらOrBのヤツがおバカでもな、とGolGorは付け加えた。
「俺が一晩かけて、この依頼が本物だってことを直接確認した。サインも全部本物だったし、妙な書き方をしてるが必須項目も全て埋められている。InBaにも何度も確認して、しつこいって怒鳴られた」
「InBaに内容が変じゃないかって言えばよかったのに」
「言ったさ。でもあいつ、〝これは私が正式に受理した。何の問題もない〟の一点張りだぜ? あの融通の効かん性格はどうにかならねえもんか」
「……でも、それならこの奇妙な書類は本物ってことですよね? ……僕らは、オレンジの皮をホテルの部屋で剥いただけの市民を、不確かな証拠に基づいて殺さなきゃいけないんですか?」
「………」
眉根を歪めて訴えるneutの横顔を、HLuKiはどこか似通った面持ちで横から見つめた。
「neut、おまえ……」
Star Mはそんな二人の様子を見て、
「HLuKiみたいだな」
「……HLuKiさんの受け売りですから」
上司の意趣返しに目を伏せて、neutはぼやいた。
どこか沈んだ雰囲気が蟠る。そんな中、
「まあ、そういうことになるかもな」
大して深刻さも見せず、GolGorはそんな風にあっけらかんと告げた。
「理由はどうあれ、前提として俺たちは自分の好き嫌いや信条だけで仕事を選べるような職には就いてねえんだ。どんなに納得できない内容でも、その目標が合衆国の平安を脅かすっていうなら、俺たちはその首をへし折らなきゃならねえ」
「そ、それは……そうですけど………」
GolGorの正論を受けて、なおneutは食い下がる。
「じゃあこのラランジェスって人は、これからどんな悪事を働くんですか? ……この人はいったい、どんな反社会的犯罪を犯すんですか?」
「……この書類には、そんなこと書かれてねえな」
「……! こんな紙切れに〝そうしろ〟って命令されただけで、皆さんは人を殺せるんですか? もっと、自分でちゃんと調べて決めたりしないんですか。こんな………、こんな不確かな依頼で、僕たち殺し屋は人を殺せてしまっていいんですか?」
neutの詰問は、小さなオフィスにびりびりと若い怒りを伝播した。
悲痛と失望に歪んだ顔が三人の殺し屋を捉えた。
「……ああ。そうだ」
即座に言葉を返すことのできない二人に代わって、GolGorは残酷な言葉を告げる役目を買って出る。
「確かに必要書類が揃っている以上、手続き上は俺たちは詳しい事情も調べなくてもその男を殺すことができるし、どう足掻こうと最後には殺さなくちゃならねえ」
「……そんな………」
「実際、面倒がってそういう風に仕事をするヤツも、どっかの会社にはいるだろうな。……中には本当にごく少数、〝冤罪〟で裁かれたヤツもいるのかもしれねえ」
「………」
人命の扱いのあまりの軽さに、neutはすっかり俯いてしまった。
僅かに西に傾き始めた天頂近くの小さな太陽が、場違いにneutを明るく照らし出す。隣に座るHLuKiは、neutのその落胆ぶりを見て何かを考え込んでいるようだった。
Star Mは、後味悪そうに胃へオレンジジュースを流し込む。
稍あって、HLuKiの咎めるような視線がGolGorへ向いた。
それに気づいたGolGorは、対面で消沈したneutの様子を眺めて溜め息交じりに口を開く。
「あー……、だけどな」
ばつの悪そうな声色に、neutの反応はない。
「俺たちは、そんな杜撰な仕事はしねえよ」
ゆっくりと、neutの顔が持ち上がった。
「そんなプロ意識皆無の仕事ぶりは、たとえアルバイトであっても合衆国じゃもう通用しねえ。見ず知らずの他人の命を疎かにするような馬鹿は、うちの会社には一人もいねえだろ?」
いくらOrBのバカのバカさ加減が限度を超えててもな、とGolGorは付け加えた。
「……GolGorさん……」
呟いて、neutは朗らかな眼差しをGolGorに向けた。真直な信頼を一身に浴びてGolGorがたじろぐ。
「ちょっと冗談が過ぎたな」
「うっせえ。別にからかおうと思って言ったわけじゃねえ」
Star Mの嘲笑に、GolGorは横目で睨み合わせた。Star Mはそれに取り合わず、
「安心しなneut、俺たちは世の安寧秩序のために戦う殺し屋なんだ。オレンジの皮剥きマナーを知らないってだけで、善良な市民を殺しやしないさ」
「ケッ、どの口が言ってやがる……ってか、ラランジェスはブラジル人だろうが」
「煩いな。とにかく、このままの情報量で乗り気になれない仕事に打ち込むってわけじゃないんだ。おまえも殺し屋見習いなら、これくらいで動揺するんじゃない」
「は、はい。すみませんでした」
neutはぺこりと頭を下げた。そして弾んだ声で、
「そうですよね、こんなふざけた情報だけで、皆さんが動くはずありませんもんね」
「まあ……多少ちゃんと調べずに臨むときもあるが、今回ばかりは、流石にな」
GolGorはまた一つ溜め息を吐いた。
「それに、このチームにはHLuKiがいるからな」
「……僕?」
唐突に名前を出されて、HLuKiは怪訝の声を発した。丸くなった眼がGolGorの青い瞳を捉える。
「どういうことですか?」
「それは今度、HLuKiに直に教えてもらえ」
「?」
勿体ぶるGolGorに不服そうなneutだったが隣からその内ね、という声が聞こえたので、それ以上の追及はしなかった。
「……で、Star M。本題に戻るけど、その目標のプロフィールと例の判例法、どう関係があるんだい?」
HLuKiは向き直って、正面で後ろ髪を弄っていたStar Mに尋ねた。
「だから………その、さ」
疑問が晴らそうとやきもきするHLuKiの質問に、Star Mは言いにくそうに部屋の隅へ目を逸らしつつ、
「オレンジ生産者が、ホテルの部屋でオレンジの皮剥いた……って関連性?」
「………」
「………」
「………」
微妙に的を射ていない回答は、三人の沈黙を呼んだ。
「おう、ありがとさん」
オレンジジュースの代わりにブドウジュースを空になった紙コップに注いでもらったGolGorは、快く礼を言った。
「どういたしまして」
健やかな笑顔を取り戻したneutは、そう返して自分の席に就いた。
そして斜向かいのStar Mの顔をじっと見つめる。
「……そんな目で見るなよ」
不貞腐れてそっぽを向くStar Mはneutの視線を感じて忌々しそうに目を閉じた。
「だって、罪状と目標の繋がりなんてそれくらいしかないじゃないか」
「べつに責めてるわけじゃありませんよ」
言いつつも、neutのじとっとした視線はStar Mの横顔を捉え続ける。
「……でもまあ、Star Mの言うとおり、今回の依頼を調べるに当たってはそんなところから調べていくしかなさそうだな」
席から立ち上がって、GolGorはホワイトボードへと歩いた。桟に常備してある黒いマーカーを手に取り昨日自らが書いた依頼内容に文字を書き加えていく。
「目標はティアゴ・ラランジェス。ブラジル移民で本国に妻子持ち、フレズノ郡タンジェール市在住で現地の果物農家で下働きをしている。罪状は『ビジネスホテルの部屋で、オレンジの皮を剥いた罪。』 決行は次週の水曜日までだ」
箇条書きでボード上を黒く染めながらGolGorは、
「これから今日を含めて月曜日までの三日間、この依頼の意義を確かめるために、分担して精査を行おうと思う」
「精査……ですか?」
「ああ」
neutは眉を寄せて、
「だけど、僕たちにそんな権限……というか仕事内容って、ありましたっけ?」
「てめえが言ったんだろうが。このまま調べもしないで目標を殺しちまっていいのか、って」
振り返らず、ホワイトボードに身体を向けたままGolGorは言葉を連ねる。
「それに、目標を殺すための手順を考える捜査だって偽ればなんの問題もねえ。それは俺たちの大事な仕事内容の一つだ」
「……いいんですかね、それ」
「黒に近いグレー、ってところだね」
不安さを前面に出すneutに、HLuKiは苦笑でフォローした。そしてHLuKiは真剣な顔をして、
「ただ、実際問題どう責める? ラランジェスが勤めてる個人農家を集中攻撃するのは、あんまりいい捜査とは言えないと思うけど」
HLuKiの指摘に、GolGorは歯を見せて笑った。
「それなんだが」
Star Mの発言に合わせて、GolGorはマーカーを赤に持ち替えて「農家勤め」と箇条書きした隣に「農業組合」と添えて丸で囲んだ。
「依頼を出した奴自体は大統領行政府繋がりの職員だったんだが、元を辿るとカリフォルニアの農業組合に寄せられた苦情が発信源だったことが分かった」
「! 農業組合に苦情か……」
「可能性が出てきただろ」
赤いマーカーを手の中で回してGolGorは不敵に微笑んでみせた。
「事前に本人から聞いてたんだが、どうもその辺を隠そうとする〝意志〟を、Star Mが感じたらしいから間違いないだろう」
GolGorは再びマーカーを黒に持ち替え、ボードをくるりと回転させて真っ新な面を表にした。
「俺が調べたときに見つけた変な書類の書き方といい、農業組合の一件といい、この依頼はなんか変だ」
「看過するわけにはいかないね」
デスクに纏まった書類をトントンと揃えてHLuKiは頷いた。GolGorは三人の顔を一遍ぐるりと見回して、
「今後の予定を立てよう」
白いウレタンの上に、黒い水性インクを走らせる。
「neutは現地に向かって目標の尾行及び監視。特に当人とオレンジとの関わりを注視しろ」
「スパイ専門のHLuKiさんじゃなくていいんですか?」
「HLuKiには、農業組合の方に潜入してもらう。連邦政府の下っ端職員でも装って、寄せられた苦情について根掘り葉掘り聞いてきてほしい」
「任された」
了承して、HLuKiはブリーフケースから取り出した黒い手帳に何か書き始めた。neutはちらりとその様子を覗き込んで、
「………」
書き込まれていく文字が日本語だったため判読を諦めた。GolGorはそんな様子には目もくれず、続けて指示を飛ばす。
「Star Mはこの判例法が適用された裁判が過去になかったか調べてくれ。今回の件と関係あるかもしれねえ。もしあればそれについての詳細を、なければラランジェスがその行動を取ったっていう裏付けを頼む」
「分かったよ。……結構面倒だな」
「HLuKiやneutみたいに人的諜報をやらせるわけじゃねえんだ。我慢しろ」
諌められ、Star Mは肩を竦めた。
「それで、おまえは何担当なんだよ」
「俺か」
GolGorはStar M達に背を向けてホワイトボードに「Star M:判例法についての雑用」と書き進めながら、
「俺はとりあえず殺しの準備だ」
いつもと変わらない声でそう告げた。
今後の手筈を手帳に認めていたHLuKiの顔が、一度苦痛に歪んだ。




