第九章 殺し屋の残業
「どうだった、サクラメントのマーダーインクは」
アメリカ合衆国西海岸某所、某日金曜日。
ビルの列なる街中を、乾いた朝風がしらしらと吹き付ける。
照明を消し、白み始めた朝日に視界を委ねる小太りの男は、ワイングラスを片手に対面の男に尋ねた。
「色々勘繰っていたようですが、いい仕事をしてくれましたよ」
厭らしくにやついて白い口髭の男は答える。
「それは上々」
「では、成功を祝して」
口髭の男は目の前に用意されたワイングラスを手に取り、小太りの男のそれへと軽くぶつけた。二つのグラスがぶつかって、上品な音が鳴った。
それぞれがそれぞれのグラスに口をつける。
「……ん、なかなか美味ですな」
「そうだろう。ワインはどこにでもある安物だが、上物のフレズノ・ゴールドを搾ったオレンジジュースで割ってある」
「こんなにも芳醇な味わいになるとは……驚きです」
小太りの男は自慢げに笑った。
「しかしあの男、このフレズノ・ゴールドにヴィンブラス肥料なんかを使うとは勿体ない……」
小太りの男はグラスのなかでブロンドに揺らめく液体をうっとりと眺めながら独りごちた。
「あの男、たしか君のところの役員だったんだよな」
「ええ、蝙蝠のように卑しい奴です」
口髭の男が語気を強めた。
「研究員だったか?」
「いや、研究員の世話をしていた省の職員です」
苛立ちを払うように、口髭の男はもう一度ワインを喉に落とした。
「……まったく。あいつが監督していたヴィンブラス肥料があんなことになって、責任を追及してクビにしてやったと思ったら、今度は自分で作って食中毒を起こすなんて………」
「熟運がないな、君も」
小太りの男はからからと笑ったが、
「笑い事ではありませんよ。貴方だって、被害を被るかもしれなかったんですから」
「……そうだな」
ワイングラスを一気に空にした。
二人が腰を沈めるソファの間には、丈の低い高級なテーブルがある。そこに敷かれたクロスの上、二人から十分手の届く場所には開けられたワインボトルが一本置かれている。
「おい」
小太りの男が横柄にそう言うと、後ろから若いスーツ姿の男がすっと歩み出て、ワインボトルを丁寧に持ち上げた。
無言のままワイングラスを翳す小太りの男に、若いスーツの男はなにも言わずボトルを傾けた。
「君ももう一杯飲むだろう?」
「ええ、頂きます」
「おい」
若いスーツの男は畏まりましたと告げて、口髭の男のワイングラスにもボトルを傾けた。
二人はもう一度乾杯する。
「……しかし、あれには驚いたな」
「なんです?」
「食中毒の報告を受けて、症状を聞いてさ」
「ああ、奴が犯人だったことですね。あれには全身の血が沸騰するかと思うくらい怒りが……!」
「そうじゃないよ」
「え?」
小太りの男はいかにもおかしそうに含み笑いをして、
「あいつが、ブラジル移民の名前と身分を使っていたことだよ」
「ああ、それですか」
口髭の男はおもしろくなさそうに呟いた。
「たしかに、あれには驚きました」
「いくら元農務省職員でも、身分を売りたがってる出稼ぎ労働者なんて簡単には見つかるまい。奴のことだ、きっと方々探したんだろうよ」
うまそうにワインを呷って小太りの男がげっぷをかました。
「初めはどうしてブラジル移民なんかがあの肥料を持っていたのか皆目見当もつかなかったが、現地に赴いて奴を見て、一目でわかったよ」
「奴は身分だけ偽って、顔は変えてませんでしたからね。詰めの甘い奴だ」
二人は嘲笑した。
「そもそも、奴がヴィンブラス肥料なんて危険物の研究を推し進めていたんだろう? だったら、そんなテロリスト擬きは殺されて当然だよ」
「仰る通りです」
口髭の男は何度も頷いて、ワインで喉を潤した。
そこで、
「……あの……、お言葉ですが」
先ほどの若いスーツの男が口を挟んだ。
ぎょろりと、小太りの男がスーツの男のほうを睨む。
「なんだね?」
「……いえ、その」
その眼光に萎縮して、言いにくそうに逡巡したあと、
「……彼は、その……本気で医薬としての効果が期待される農薬肥料の開発を、目指していたんじゃないでしょうか?」
「………なんだって?」
歳を食った二人の男がじろりとスーツの男を食らうように睨め回した。スーツの男は益々萎縮して、
「そっ、その、彼とは大学の同期なのですが、彼は研究室で有機化学を専攻していまして。化学製品の安全な取り扱いや利用に、長けていたんです。ですから……」
「だったら、なんだと言うんだね?」
小太りの男は、傲然とした威圧感でスーツの男の言葉を強引に遮った。
「で、ですから──」
「もし奴が。その研究室とやらで得た知識を使って〝貧者の核兵器〟を作ろうとしたのだとしたら……、おまえはその責任を取れるのか? うん?」
「そ、それは…………」
スーツの男はすっかり縮こまって、そのまま後ろへすうっと一歩下がった。小太りの男はフン、と腹立たしそうに鼻を鳴らして、
「あれは、君のところの役員かね?」
「さ、左様です。奴へは後できつく、きつく言い聞かせますので、どうか……」
「……部下の教育もできないのか、君は」
小太りの男はまた、フン、と鼻を大きく鳴らした。
口髭の男はなんとか小太りの男に機嫌を直してもらおうとして、別の話題へ話を切り替える。
「し……しかし、あんな州法があったとは気付きませんでしたよ。あんな下らないだけの法律も、見識のある方の手にかかればあんなにいい働きをするんですな」
「……あんなのはただの慣習法の負の遺産だよ。だが、まあ、あんな州法でも知っているとそうでないとでは大違いだったな。これでまんまと、奴を罠に嵌められた」
持ち上げられて、小太りの男はすっかりいい気になってワインをまた景気よく飲み干した。
「いや、まさに素晴らしい手腕でしたよ。あなたがトップなら、保健福祉省の繁栄は止まることを知りません!」
「世辞がうまいな。……フフフフフハハハ!」
小太りの男の下衆な高笑いが暗い室内に響いた。
口髭の男はほっと安堵し、スーツの男に再びワインを注ぐよう命じて三度目の乾杯を交わす。
その時だった。
広い室内と廊下を繋ぐ唯一のドアが、外側からノックされた。
「長官」
「なんだ、いま忙しいんだ」
口髭の男は部下を追い返そうとしたが、
「急ぎの手紙が来ています。少しだけ、失礼してもよろしいですか」
「……急ぎの手紙?」
心当たりがなく、口髭の男は首を捻った。
「まあ、いいじゃないか。入れてやりなさい」
「はあ………」
すっかり寛大になった気でいる小太りの男にそう言われると、口髭の男は断る理由を失ってしまった。
とりあえず、ドアの外にいた部下を招き入れる。
彼が持ってきたのは、消印も送信者の情報もない奇妙な茶封筒だった。
不審に思いながらも、口髭の男は指でその封を破る。
「……?」
中から顔を出したのは、一枚の紙切れだった。
折り畳まれたそれを開いて、
「……………!」
口髭の男の顔が、一気に青ざめた。
茫然自失となった口髭の男の身体が力を亡くして床に落ちた。
「な、なんだ? どうした!」
引ったくるように、小太りの男がその紙切れを手にし、そこに書かれた文章を読む。
そこには簡単な英語でたった一文、こうあった。
『DO NOT FORGET THE LIFE “WE” TOOK AWAY WAS GIVEN BY HOLY GOD, EQUALLY TO YOURS.
── Regards, KILLERS.』
男の手から零れた大量のワインが、絨毯の床を汚く彩った。
最後に出て来た英文は、だいたい「我々の奪った彼の男の命は貴殿の命と同等に尊き神より与えられ給うたことを、お忘れなきよう」みたいなニュアンスで書きました。




