読書少女とエゴイスト
昼休み。
少女は教室の窓際最後尾の席で、本を読んでいる。
クラスメイトは、そんな彼女を遠巻きに見つめていた。
それらの眼差しに込められた感情は、皆等しく、羨望。
肩口までの長さに切りそろえられた、艶やかな黒髪。フレームの細い、機能性を重視したような飾り気のない眼鏡。個性を殺してしまいそうなそれらの特徴も、端正で清楚な彼女の容姿の上では立派な個性として順応していた。
真面目で物静かな文学少女。
それが彼女を彩る印象。
クラスメイトの評する彼女のイメージ。
――クラスでの中での彼女は、どこか浮いていた。
孤立しているという意味ではない。友人はいる。
クラスメイトが少女に声をかければ、彼女は優しくほほえんで応じる。
少女がクラスメイトに声をかければ、クラスメイトは自然に応対する。
少女は独りではない。
しかし、クラスメイトたちのほとんどは、こう思っていた。
少女――綿本小読と自分たちは、住んでいる世界が違う。
高校という、青春まっただ中の青少年が集う教室において、小読は落ち着いていて、大人しい。
大人しく、大人らしく、大人のよう。
子供のような有り余る元気で学校生活を必死に謳歌するクラスメイトの中で、その大人のような高校生は、単純に、文字通り大人びて見えたのだ。
クラスメイトのそんな勝手な想像に応えるように、小読は今日も、黙々と手元の小説に視線を落としていた。
しかしその表情は、どこか晴れない。
周りの勝手な想像は、小読の中でプレッシャーとなっていた。
書店で付属してきたような無個性なブックカバーに包まれた本のページを、単調なペースでめくる。
めくる。
めくる。
めく――ろうとしたところで、小読の手が止まる。
姿勢を維持して椅子に張りついていることに疲れたのだろうか。座ったまま体勢をずらす。
背もたれに付けていた背中は離し、窓枠の方に肩を寄せる。そのまま体を少しひねり、窓を背にして本を読むかたちになった。
――まるで、クラスメイトから本のページを隠すように。
そして、めくる。
今までと同じ調子で、開いたページを読む。
――十数秒経ったときだった。
ふと、背後に気配を感じて、小読は振り返る。
背にした窓の向こうに、一人の少年が立っていた。
小読はここにきて初めて、冷静な態度を崩す。
表情はわずかな驚愕に染まる。
見開かれた瞳は微細に揺れていた。
対する少年の双眸は、小読の持つ本に向けられていた。
本の見開きページ。
右半分は活字で埋め尽くされている中、左半分のページには、一切の文字がなかった。
そこに書かれて――描かれているのは、漫画に見るようなモノクロの一枚絵だった。
放課後。小読は目的の人物を追いかけて屋上まで来ていた。
「ねえ、そこのあなた」
小読の呼びかけに、
「えーっと、君は……同じクラスの読書女子。名前は……綿本小読だったか?」
少年――永倉透は振り向いた。
透は、小読のクラスメイト。小読とは違った意味で浮いている少年。
簡単にいうとぼっちだ。
背は高く、容姿もいいのに、彼独特の『人を見下したような物言い』のせいでクラスメイトは誰も彼に寄りつこうとしない。また、透自身も人と関わろうとはしていないようで、一人でいることをまったく苦にしていない。
そんなクラスのカースト最下位の少年に――小読は弱みを握られてしまった。
「どうした、何か用か?」
あっけらかんとした口調の透に、小読は感情を殺しながら言葉を返す。
「『何か用か』じゃないでしょ。心当たりないの?」
「あるわけないだろう。君との会話など、今日が初めてなのだから」
「とぼけないで。昼休みのこと、忘れたの?」
「……はて、昼休み? 何かあっただろうか」
親指を口元に当て、透は考えこむ。本気で心当たりがないようだ。
「あなた、昼休み私の読んでた本を盗み見てたでしょ」
透の態度に業を煮やし、小読はつい、声を荒らげる。
「……ああ、確かに客観的に見れば左様なことはしたかもしれないな。しかしここで誤解を解いておこう。僕は別に、意図して君の本を覗いたわけではない。僕は単純に、ベランダから教室の中へと戻ろうとしていただけ。その際教室内を眺めていたら、偶然君の本が目に入ってしまった。それだけのことだ」
教室の小読の席のすぐ後ろには、ベランダへと通ずるドアがある。透はそこから教室に入ろうとした。それだけのことらしい。しかし、
「過程なんてどうでもいい。結果的にあなたが私の読んでいた本を見てしまってのが問題なの」
「なんの問題があるというのだ。そもそも僕は君の読んでいた本のタイトルすら把握できていないというのに。僕にわかることといえば、その本に挿絵があったことからライトノベルであろうということくらいで――」
「だからそれが問題だって言ってるの!」
すました透の態度に堪忍袋の緒が切れ、小読の声に怒気が宿った。
「私が言いたいことはただ一つ。私がライトノベルを読んでいたってことを誰にも言うなってこと。もし誰かに話したら許さないから」
「別に、君に許されようとなかろうと、どうでも良いのだが。君の身勝手な感情で僕の学校生活の在り方が変わるわけでもない」
「……」
透は、小読になんと思われようとも動じない。だから、小読の秘密をばらすことにリスクはない。そう言いたいらしい。
ものすごく腹立たしい。本当に、こんな奴に弱みを握られてしまったのが不愉快でならない。
――油断していた。
以前から、自分がオタクである事実はクラスメイトに隠していた。
幸運にも、小読の苗字は『綿本』。名簿を参考にして並ぶ単純な席順において、小読の席はほとんど、窓際の隅になる。周りのクラスメイトに余計なリアクションをせず黙々と本を読んでいれば、自然体のままで教室の空気となれる絶好の席だ。それに、クラスメイトは何を勘違いしたのか、小読のことを『文学少女』とかいう間違った偶像で捉え、読書の邪魔をするまいと近づいてこない。
堂々と読書をしていれば、クラスメイトに読書の邪魔をされることはないのだ。
しかし教室のどこかには、自分に目を向けているクラスメイトがいるかもしれない。だから小読は、読んでいるライトノベルにブックカバーをし、挿絵のあるページになったら、クラスメイトから本の中身を隠すため、窓や壁を背にして読んでいた。
――今日のように、ベランダから自分のことを見ている生徒がいるのは予想外だった。
教室のベランダとは名ばかりで、実際は柵が付いたただの足場。利用者など稀だ。
新年度の時期は、新しい教室と顔ぶれにテンションが上がり、ベランダに出てはしゃぐ生徒もいた。しかしそんなのはすぐに鎮静化し、五月に入る頃にはベランダは単なる教室の飾りにすぎない足場となっていた。
――だから、油断していた。
ラノベを読んでいる――つまり小読がオタクであるという事実は、今後の高校生活を脅かしかねない爆弾だ。透の口はなんとしても塞いでおかなければならない。
小読がそんなふうに身構えていると、透は思いもよらない言葉を口にした。
「忠告されずとも、言いふらしたりなどするものか」
「……え?」
拍子抜けた。小読は不可解に眉を寄せ、透を見やる。そしてしばらく間を置いてから、
「そんな保証がどこにあるっていうの?」
「簡単な話だ。僕は君に興味がない。好きでもなければ嫌いでもない。だから君の本性が如何なものであろうと気に留めることではないし、わざわざ君を貶めるために無駄な労力も使わない。君程度のことに僕の貴重な時間を消費してたまるか」
言い方は不愉快この上ないが、どうやら透は、小読の高校生活に危害を加えるつもりはないらしい。
「そもそも、友人というものを持たない僕の言葉に、誰が耳を貸すと思う? どうやらクラスに蔓延る凡人たる彼ら彼女らの思想の中では、僕よりも君の方が高位の存在らしい。僕が何を言おうと、それは君への僻みと受け取られて届かぬ言葉は霧散するだけだろう」
「……確かに」
とても悲しいことを言っているはずなのに……なぜだろう、毅然とした物言いのせいでまったくネガティブじゃない。自分に友人ができないのではなく、クラスメイトが低俗すぎて自分の友人たり得る存在がいないぐらいの言いぶりだ。いや、この男ならばそれくらい考えていてもおかしくない。
……というか、ただの中二病な気がする。
何はともあれ、透が小読の秘密をばらさないというのなら、もう言うことはない。そう考え、屋上から立ち去ろうかとしたとき、今度は透の方から質問してきた。
「第一、オタクとばれたくないのならば、なぜわざわざ学校でライトノベルを読むのだ」
「……だって私、読書なんてラノベか漫画しか読まないし……」
「それで文学少女とはよくいったものだ」
「う、うるさい! そもそもあなた、私に興味ないんじゃないの? 余計なこと訊いてこないで」
「確かに君自体には興味はない。しかし、オタクは隠したいのに学校でライトノベルを読むその矛盾した行動。その行動原理だけは興味がある。僕の貴重な時間を奪った代償だ。話してみろ」
そんな命令形の言い方をされて、話す人もいないだろう。小読の行動も、その例に漏れなかった。
「誰があなたなんかに……」
「そうか、それでは仕方ないな、君がライトノベルを読んでいたという情報を横流しにすることにしよう」
「さっきと言ってることが違うじゃない……」
「好奇心のためには、保持する材料を余すことなく使う。当たり前だ」
「いや、そもそもさっき、クラスメイトに私の秘密を話したところで信じてもらえないみたいなこと言ったばっかでしょ」
「そんなことはどうとでもなる。僕の言葉が聴衆に届かないのならば、『僕の言葉』という部分を伏せてそれを伝えればいい。具体的には、君の秘密について記入した紙を皆の机の中に潜ませておくなり、あとは教室に誰もいない時間を見計らって黒板に君の秘密を記すなり、他にも――」
「あーもう、わかった。話せばいいんでしょ」
もう聞くのも面倒くさい。小読は気だるげに話し始めた。
――そもそも初めは、今ほど徹底してオタクを隠そうとは考えていなかった。
もともとラノベは好きだった。高校入学当初、小読は恥ずかしげもなく、自分の席で堂々とラノベを読んでいた。もっとも最低限の取り繕いとして、表紙がわからないようにお気に入りのブックカバーをしていたが。
小読からすれば、黙々と本を読んでいるという、ただそれだけ。
しかしクラスメイトには、その光景が大げさに誇張されて見えていた。
原因となったのが小読の姿。
端正で清楚な顔立ち。飾り気のない眼鏡。髪型は今でこそショートカットであるものの、入学当初の小読の髪型は二つ縛りのおさげ髪。制服もまったく着崩さなかった。
――実際は、眼鏡は一つしか持っていなかっただけだし、髪型は切る時間とお金がなくて伸ばした髪を手軽にくくっただけだし、制服は服装に関する校則の程度がわからなかったので、とりあえず注意されないために完璧に着つけただけなのだが、そんな内情はお構いなし。
『真面目』という言葉を体現したようなその出で立ちは、クラスメイトの中での小読のイメージを確立させた。
――そんな『いかにも』な少女が、読書をしている。それはもう、自分たちには理解もできない崇高な書物なのだろう、と。
先行した印象は、クラスメイトに身勝手な想像をふくらませた。
そんな身に覚えのないイメージは、小読自身の耳にも届いていた。
やれ綺麗だの、やれ美しいだの。
そんな身に余る偶像のプレッシャーから抜け出そうとして髪を切ったが、意味はなかった。
やれかっこいいだの、やれ凛としているだの。
先行したイメージの中では、髪型の変更はいたずらに評価を上げるだけだった。
そのうち小読自身も、クラスメイトのイメージを否定することをあきらめた。むしろ、今更になって本当の自分を知られて落胆されるのを恐れ、クラスメイトの評価に応じた。
ただ、ラノベを読むことだけはやめられず、教室では表紙と挿絵の部分だけ隠して読書をするようになった。
「……堅苦しいな」
小読の話を聞き終えた透の第一声が、それだった。
「他人に押しつけられたイメージを強行するなど、まったく堅苦しい。そして片腹痛い」
口元を歪め、嘲るように笑う。ムカつく。
――ただ……『堅苦しい』。その言葉はもっともだ。
周りの期待に応えるように生きるのは、疲れる。事実、クラスメイトの勝手な想像は、小読にとっては重圧となっているのだから。
「第一、偽物の自分を見せてまで他人とつながりたいと思うのか?」
「仕方ないでしょ。今更になって『私がただのオタクでした』なんて知れたら、周りにどう思われるか」
「だから他人を失望させないために、偽物を見せ続けるのか。本当に堅苦しい。そこまでして仮初の自分に浸りたいか。クラスメイトが君に抱くイメージは、単なる虚像にすぎない。そんなことばかりしていても、本当の君を見てくれる存在など現れない」
――虚像。それはわかっている。クラスメイトは、誰も本当の自分を見ていない。
「君はクラスメイトの評価に応えようと、しすぎている。応え、応じ、歩み寄ろうとしすぎている。しかし君は、歩み寄りすぎて彼ら彼女ら掲げる認識のレンズに近づきすぎた。そして皮肉にも焦点の内側に辿り着いてしまったのだ。凸レンズと像の実験を例に借りよう。レンズの焦点より内側にある物体は、認識者の目には虚像としてしか映らない。同じだ。クラスメイトが君に見る想像は、虚像という名の幻想だ。まあ、君がそれで満足しているのならなんの問題もないが」
満足は、もちろんしていない。他人に定められた自分なんて、もはや自分ではない。
小読がうつむいていると、
「まあどちらにしても、『本当の自分』など、他人に理解できるものではないのだがな」
「は?」
透はまた、おかしなことを口走る。小読は顔を上げ、透を凝視した。
「物体がレンズ越しに実像を結ぶのは、焦点の外だ。しかし認識者の目に映る実像は、倒立してしまう。君の存在をどれだけ収束して認識者の目に届けようとも、事実は異なった形で伝わってしまうものなのだ。現実などそんなものだよ。認識に齟齬があるからこそ、人は小競り合いや喧嘩が絶えないのだ」
「……結局あなたは何が言いたいの?」
「つまり、人間が他人を正しく認識するのは不可能に等しいということだ。他人に見せる自分を演じようと、素直にさらけ出そうと、どちらにしても些細な問題だ。――もっとも、君に関する最大の問題は、『他人に押しつけられた自分』を演じていることだがな」
自分から騙すために演じるのと、相手からの押しつけに応えるために演じるのとでは、天地の差がある。
「自分を演じることは悪いことではない。しかし、演じるからには自由に演じたいものだろう。他人に押しつけられた自分を強行するのは、『演じる』とはいわない。『操られている』というのだ」
自分は今まで、本当の意味で『演じて』いたのではない。『操られていた』だけだ。
(言われてみると、私はなんで、他人のために自分を偽っていたんだろう)
考えると、少しだけ腹が立った。クラスメイトは今までずっと、私に身勝手な想像を押しつけたのだ。
――そして腹が立つと同時に、
――クラスメイトがひどく滑稽なものに思えてきた。
クラスメイトは、私のことを美化しすぎている。
本来の私なんて欠片も知らず、勝手に私を崇高な存在と取り違えている。
――実に、滑稽だ。
――そして――愉快だ。
小読には、クラスメイトの想像に応える義理などもちろんない。
――しかし、
――騙され続けている愚かなクラスメイトを俯瞰しながら眺めるのも、楽しそうだ。
そんな今までとは逆転の発想が、小読の中で生まれた瞬間だった。
(……こんなことを考えちゃうあたり、私にもこいつの中二病が移っちゃったのかな)
自嘲するようにため息をついたところで、小読に一つの疑問が浮かんだ。
「――ちなみに、あんたの『それ』は演じてるの? 素なの?」
透に問う。『それ』というのは言わずもがな透の中二病のことだ。
「……さあ、どうだろうね」
ここにきて初めて、透は歯切れの悪い様子を見せた。
「……とにかく、どんな自分を見せようと、齟齬が生まれるのは当たり前。実像も虚像も、認識者の中ではただの『像』だ。『像』であって『本物』ではない。どうあがいても『本物』を伝えることはできないのだから、自分の在り方など自由に決めればいい。他人から押しつけられたイメージに沿う必要などないのだ。……と、少し話しすぎてしまった」
透は、小読背を向けて歩き始める
「……まったく、僕も丸くなったものだ。他人にアドバイスなんて、らしくもない。日も落ちてきたし、そろそろ失礼するよ」
透が悠然と屋上を去ると、その場には小読が一人、残された。
……不思議だ。
あんな腹立たしい中二病男と会話していたというのに、小読は胸をすくような思いを感じていた。
最近、自分を偽ることにどこかストレスを感じていた。しかし、今は憑き物が落ちたように心が軽い。
どんなに頑張っても他人に自分を伝えられないのなら、虚像としての自分でいることは不正解ではないのかもしれない。ならば、これからも私は自分を偽り続けるのだろう。
――結局のところ、自分を『演じ続ける』という意味では、小読の行動は変わらない。
しかしその心持ちは、大きく変貌していた。
――『期待に応えるための演技』から、『騙すための演技』へ。
――『受動的な演技』から、『能動的な演技』へ
どのみち正しい自分が認識されないのなら、いっそのことクラスメイトを盛大に騙し続けてやろう。
透のひねくれた性格が伝染したのか、小読は意地の悪そうな笑みを浮かべる。しかしその表情は、先よりもどこか晴れやかになっていた。