竜灯岬の守り人
海の精は謳う
古の時代、神の代に、その者は生れたり
眩き白銀の肌、クロアの口づけた峰のごと
彼は広き海原を渡る風
水際に寄せる漣こそは彼の声
我らが王、岬の人の子の友
開け放たれた家々の窓から機織の音が聞こえる季節になった。
不思議と調和するカタンカタンという音に、足並みも勝手に揃う。僕だけじゃなく誰もがそうで、道往く人は皆、鼻歌交じりになる。玄関に吊るされたカンテラや、あちこちに固定されている水晶灯が合わせて揺れるのは、多分精霊が遊んでいるんだろう。そうして素朴な楽にアルカンノム中が包まれるこの時期は僕のお気に入りだ。
カタン、トタン、カカン。ちょっとずつ違うそれぞれの機の音が、暑さの薄れた風に混じって心地いい。帽子の飾り紐を揺らしながら、坂をゆっくり下りる。
坂道の終りになると一際のんびりした織物の音が聞こえてくる。曲がり角の家の大きな窓の横に身を寄せて、僕はよく晴れた空を見上げた。コト、コト、そこまでいい糸は使ってないだろうに、慎重に過ぎるおっかなびっくりの音だ。お世辞にも上手な人のそれじゃない。見えなくても手つきは予想がつく。
しばらく耳を澄ませていると、「あっ」と短く小さな声がして音は止んだ。代わりに溜息が聞こえる。
「そんなちまちましてたんじゃ、終わらないぞ」
今だとばかり、僕は窓から顔を出して、わざとらしく口元に手を当てて言った。
口を尖らせてしくじった織り目を撫でていたコスタが肩を跳ね上げて慌ててこっちを見る。目はまんまるで、顔は真っ赤になっていた。
「やだ、いつからそこに居たの!」
僕の身長ぐらいは織らなきゃいけないだろう布は、まだ半分しか出来ていない。他の家はもっと進んで、もう飾り房を作るところかも知れないっていうのに。
今年十一歳になって初めて祭の布を織るコスタは、どうにもこれが得意じゃない。前に見せてもらった物は、正直、近所の小さい子の織った布に似ていた。
布の不出来を隠すように、彼女は腰に手を当てて僕の前に立ち塞がる。
「お母さんはあんなに上手なのに」
「私は慣れてないだけ。それにうちの模様は、よそより面倒なのよ」
ご立腹の顔を見上げながら窓にもたれて呟くと、ふん、と鼻を鳴らされた。
どうだかなぁ。まだ模様まで行ってないし、別に無地織りでも大して変わらないんじゃないかなぁ。
……とは、口に出さない。もう遅いけど、これ以上イライラさせたら作業が遅れるだけだ。僕は笑うだけして、長い茶髪を編んで押し込んだ被り布の飾りを見ていた。白い地によく映える赤い花の刺繍は織物よりずっと上手い。
「忙しいの分かってるでしょ、邪魔しないで」
猫でも追い払うように手を動かされて、僕は渋々と体を起こす。どこかの大人に見つかったりしたら怒られるのが僕のほうなのは明らかだ。岬守りの息子が、なんて。
それが父さんに告げ口されたら、怒られるどころじゃない。晩飯抜きならいいほうだ。
かと言ってそのまますごすご退散するのも気が引けて、僕は二三歩進んでから右足を軸に、軽やかに体を回転させた。
「船出までに一つ目の花が織れるといいな」
「あんたもさっさと仕事しなさいよ!」
そう。僕もコスタと同じで、もう祭で遊んでばかりじゃいられない。それを思うとちょっと憂鬱だ。まあずっと子供じゃ居られないし、しょうがないけど。
金物を打ちつけたように響く怒鳴り声を背に階段を段飛ばしに降り、戸を一つ開けて海際の道へと抜ける。まだ機織の音も聞こえるけど、それよりも力強い、大工仕事で槌を振るう音が聞こえるようになる。
もう一つ戸を開けると輝く白波が見えた。目を細めて遠くを見ても、嫌な雲は見つからない、漁に向いたいい天気だ。でも誰も魚を捕りには出かけない。青い服と四角い藁編み帽子の漁師たちは壁の内側、天幕を張った陸で並んで舟を造っている。槌の音はコスタの機織りと違って今日も軽快だ。
立ったり屈んだり、一段高い所から天幕の中を覗いて、端に帽子じゃ隠しきれない赤毛を見つけた。
「やあ! はかどってる?」
下へと飛び降り、少し痺れた足を誤魔化しながら歩いて近づいた。声は周りの音に紛れそうになったけど、声をかけた相手はそんなに舟に意識を傾けていなかったらしい。すぐに気づいて振り向いた。
「おー、ラインかぁ。こっちは順調そのもの、ってやつ。もうほとんど終わってるよ。あと彫刻かな」
焼けた肌に浮いた汗を拭って幼馴染のカウトは笑う。釘を指の間に挟んだ拳で完成間近の舟を小突くと、立ち上がって服についた木屑を払った。
「お前んほうは?」
「まずまず」
「本当かよ。お前が一番大事なんだぜ」
昔はただ楽しみなだけだった祭の時期、仕事をやるようになった去年あたりからちょっと憂鬱になった。きっかけはこの手の言葉。誰も言わなきゃいいのに、誰もが言う。
大人たちが皆そう言うから、とうとうカウトまで言うようになった。カウトも大人になってしまったようで、役割というものを意識するようになったようで、僕としては少々面白くない。楽しかった機織の音も、木槌の音も、なにかぼんやりしてしまった。
僕の役は誰にもできないことで、それを誇りに思えと父さんは言うけど。普通の家じゃなくて塔に生まれた自分が、時々、……ちょっと不満だ。別に仕事が嫌いなわけじゃないけど、僕だって皆と舟を造ったり、家の飾りだとかの準備をしてみたかったかなと思う。そっちのほうがまだ楽しそうだし、重たくない。
カウトやコスタは、それも面倒な役だと言う。向こう岸は美しいってやつだろうか。
町の人たちが皆、僕の家の仕事を重く見てるのは分かってる。だって代わりはいないんだから。でもそれとこれとは話が別っていうか。
「ま、どってことないだろうけどな。今日も静かだ」
潮風が吹いてくるほうを見ながらカウトが呟く。漁師の息子はやっぱり海と親しくて、ちょっとのことも見逃さない。勘だと、カウトのおじさんなんかは言ってたけど。
僕は彼ら以上に、海と親しくなければならない。
目を閉じて耳を澄ますと、槌や鉋の音に混じって女の子のような声が聞こえる。特別なことや中身のあることは何も言ってない、遠くではしゃいでいる愉快そうな音だ。集中をやめて目を開けると、それはただの波の音になる。風がその上を流れて行った。
「今年はまだ父さんがいるから、なんかあっても大丈夫だよ。いなくても大丈夫だけどさ」
藁編み帽子を手で回していたカウトは苦笑いした。
自分自身苦笑いになるほど、微妙なセリフだと思った。僕だけでも大丈夫と言い切りたいけど、それだけの自信は実のところ、まだついてない。それに二年目の僕より、十年以上仕事をこなしてきた父さんの名前を出したほうが、皆安心する。
「だな、岬守りが二人もいるんだ」
漁師の一族は町でも特に、僕らの仕事を頼りにしてる。僕らが仕事を疎かにすれば、彼らは仕事をできないし、命にだって関わるから。……僕としては、その一員である友達を不安がらせるわけにはいかなかった。悔しいけど父さんを前に出しておく。
来年あたりには僕に任せとけと言えるようになってるといいけど。
「ごはんだよぉー! おとうさーん、おにいちゃーん!」
上から元気のいい女の子の声が聞こえた。さっき聞こえた小さな声とは違う、張り上げた大声を出しているのは窓から身を乗り出したカウトの妹だ。遅れて昼の鐘が響き、漁師が皆汗を拭いながら立ち上がる。
「……っじゃ、頑張れよー。俺も真面目にやっからさ」
「ん。昼は暑くなるみたいだから、ちゃんと日陰にいなよ」
僕とカウトは手を振って別れた。カウトがおじさんと一緒に家に戻っていくのを横目に見ながら階段を駆け足で昇って、段差を飛び越える。早く帰らないと父さんに抜け出したことがバレてしまう。
まだ多分上の部屋に居るはずだけど、昼ご飯が届けられたら僕を呼ぶだろう。それまでには戻らないと――考えて上を見上げると、岬へと続く道を走る姿が見えた。馬じゃない。
「あッ!」
僕も慌てて石畳を蹴った。潮風になびく緑色のマントを背に乗せて、黒い駆竜の姿はぐんぐんと僕の家、岬守りの塔へ近づく。もう木のとこまで行った!
前のめりになりながら走って、塀を乗り越えて階段を二段飛ばしで昇った先、立てつけの悪い戸を横に引っ張りつつ押して、植木に突っ込んで枝を掻き分けて。息を切らし裏口から庭に入る。表で父さんが話しているのが聞こえた。
物置の横で息を整えながら、頭や服についていそうなゴミを払う。胸に手を当てて落ち着け、ゆっくりと台所に入る。あらかじめ水を汲んでおいたバケツを手に、僕は表へ急ぐ。
水を汲んだ桶を提げて、肩で戸を開けた。父さんが眉を跳ね上げたのが端に見えたけど、そんなのはどうでもいい。間に合った。
「いらっしゃい!」
まだ完全に息の調子が戻ってなくて、声が上擦った。走ってきた分に上乗せて顔が熱くなる。
でも、それも特別なお客の前じゃ些細なことだ。
「や、坊ちゃんもお久しぶりです。出迎えありがとう」
この辺りじゃ珍しい金髪の人は、去年と同じ笑顔だった。肌は僕らと変わらず日に焼けているけれど、やっぱり顔つきは王都の人な気がする。言葉もすらっとして、なんだかかっこよく聞こえる。
汗を拭い、右手で肩を抱く騎兵の礼をするノード兄さんの胸には、六角形、水晶の形をした金の身分証が輝いていた。彫ってある模様は数の七なのだと教えてもらったのは、兄さんが初めてこの町に来た去年。
王都守護第七隊。兄さんは、普段は王都リリで城を護っている竜騎兵の騎兵だ。竜兵は――
「久しぶり。ねえ、ガルテナ、僕のこと覚えてる?」
「忘れないさ。こいつは見た目より記憶力がある」
ノード兄さんが手綱を引くと、後ろに隠れていた竜兵のガルテナが顔を出す。元から隠れきれてなかったけど。
ぐうと鳴いた兄さんの相棒は馬より二周りほど大きい駆竜だ。岩が動いているような、ごつごつした黒い体。首は短めで足が大きい。爪はすごくって、こんなので蹴られたら普通の怪我じゃすまない。最初見た時は近寄れなかった。
けど、性格はおっとりでとても懐っこい。手を伸ばすと鼻先が触れる。匂いを嗅いでるんだろう、鼻息を指に感じた。
顔の横に生えている二本の角は去年より大きくなっている。前はたしか、僕の手一つ半だったはずだ。まっすぐでところどころへっこんでいるそれは、僕の家、塔の形に似ている。
止めていた手を更に伸ばすと、特に硬い額を掴むことができる。本当にとても硬い。物語に出てくる竜兵は皆鎧をつけているけど、これならそんな物いらないんじゃないかと思う。
腕をくぐって覗き込んでくる、縦に切り込みを入れたみたいな銀色の目。ゆっくりと瞬きしたその中に僕が映っている。
「元気だった?」
ガルテナはミン・テアー種とゴガノー種の混じりなんだと兄さんはいう。どこがミン・テアーでどこがゴガノーなのか、僕にはよく分からない。竜友の国なんて呼ばれるうちの国じゃ竜は珍しくないけど、詳しいのは一握り、竜に近いところで暮らしている人たちだけだ。
足元にバケツを置いてやると、ガルテナはすぐに口をつっこんで水を飲み始めた。結構距離がある隣の町から、まっすぐ走ってきたんだろう。
「さて、それで――こちらは女王陛下からです」
ノード兄さんがガルテナの鞍に結びつけてあった鞄から封書を一つ取り出し、父さんに差し出した。すべすべしてそうな乳色の紙に、王家の紋章が捺された蝋がつやつやと綺麗な赤色に光る、特別な手紙。蝋の色も、封筒にある箔押しの模様も、去年一昨年と同じ。きっと百年も前から同じで、伝統ある物なんだろう。
この町にこんなに綺麗な手紙が来るのは、この時期だけだ。
今年はまだ父さんの番だけど、来年はきっと僕が受け取ることになる。
「ありがとう。ライン、ノードさんにお茶を。私は町長さんの所に出かけてくるから」
父さんが封蝋を撫でながら言った。僕は姿勢をよくして頷く。
「はい。分かりました」
聞き分けよく返事して、道を下っていく父さんの背を見送る。振り返ると兄さんがなんかニヤニヤとしていた。口元を濡らしたガルテナも瞬きをしてこっちを見ている。
ガルテナの頭に手を置いて寄りかかりながら、ノード兄さんは首を傾げた。
「どこで遊んでいたんだい?」
「ずっと此処にいたよ」
僕はそ知らぬ顔で答える。見られてはいないはずだ。道からは見えないように壁伝いに帰ってきたんだから。
けれど兄さんは全て知ったような顔で、どうかな、と笑っている。身を起こしてガルテナに顔を向けてから、パンと手を打って僕の顔を指差す。
「海にいたんだ、ガルテナが潮の匂いがするって言ってる」
「……それ本当?」
訊くと、ガルテナは低く鳴いた。どうにも分かってるって声じゃない……と思う。
怪しんで兄さんを見上げると、兄さんはさも愉快そうに肩を揺すった。
「此処じゃずっと潮の匂いがする」
僕の――家の仕事は、この岬を守ること。家は町長だってへこへこ頭を下げるような、古くから続く由緒正しい、英雄の血筋だ。しまってある家系図は僕の身長と同じだけある。
英雄、だったのは最初の一人だけで、僕も父さんも、剣とか槍とか、訓練すらしたことがない。でも別に問題はない。攻めてくる魔物とか、そんなのがいるわけじゃないから。海獣が舟を小突くのだって、巨鳥が空を舞うのだって、何年に一度あるかってほどだ。百年以上前にはよその国が攻めてきたこともあるらしいけど、最近はそんなの聞きもしない。
誰からとか、何からか守るんじゃなくて……この場所を見守って、受け継ぐのが家の仕事なんだと思う。
アルカンノムの岬守り、竜灯岬の守り人、と他の人は僕らを呼ぶ。そう言うとちょっとかっこいいけど、その実態は、岬の塔に住み続けて精霊の声を聞き、時に灯台の様子を見て、一年に一度だけ儀式をする、だけ。ぱっとしない。
海の声を聞いて、宥めて、荒れないように願う。何事もないように頼む。塔の上に置かれた銀水晶の灯りを見守る。それが僕らの仕事。大切だけど密やかで、感謝はされるけど羨ましがられはしない。
守り人だなんて、名前は物語に出てくるみたいなのに、やることは地味で正直退屈だ。しかも母さんがかっこつけて、僕に有名な騎兵の名前なんかつけて本を読んで聞かせたりなんてしたから、子供の頃はそっちに憧れていた。……いや、諦めたつもりで、実は今も。
どうせ守るなら、僕もノード兄さんみたいに、竜騎兵になりたかった。でも此処から離れられないんじゃ、訓練だってできやしない。
「今年は忙しい?」
きれいに洗ったカップにお茶の束を入れて、沸かしたお湯を注ぐ。少し揺らしてからテーブルの上、兄さんの前に差し出した。花の香りがする、お客様用の一番いいお茶だ。
「いいや、ちょっと持て余しているぐらいだ。無論何事もないのは良いのだけれど。うちの隊長なんかは、今から武術大会に気合入れているほどさ。まだ二月も先だっていうのにね」
カップを受け取った兄さんは肩を竦めて言う。僕は薬缶を布巾の上に置いて、高い天井を見上げた。丸い鉄格子で囲んで吊るしてあるガラス球、水晶灯はつるりと綺麗だ。真昼間の今は当然、灯りをつける必要はない。部屋の中も、塔の先でも。
「ふーん……鉱山は?」
「無論、平穏無事さ。水晶守護隊がいるんだから心配はいらない」
そうだろう。黄水晶の光は昨日もちゃんと、このガラス球に流れてきた。カルツァイ鉱山で何か起きていたら――あそこの水晶脈が途絶えて力が流れてこなくなったら、水晶灯だってただのガラスのままだ。部屋や町を照らしてはくれない。
塔の上だけは別の水晶だから大丈夫だけど。でも、居間もこの台所も、玄関も、蝋燭を出さなきゃ真っ暗だ。
そうなるにはまだ早い。灯りを落とす祭までは、あと三日早い。それだって一晩限りのことだから、水晶脈を守る竜騎兵にはまだまだ、ずっと頑張ってもらわないと。
「ん、来たね」
庭を通り抜けてきたガルテナが、開け放した台所の戸口に顔を出す。こっちを窺って首をゆらゆら揺らしているので、水晶灯から離れたところに吊るしてあった干魚を外して投げてやる。上手く口で掴まえて齧るその姿には、歴戦の竜兵だという威厳は感じられない。なんかちょっと、犬とか猫みたいな。
僕より、兄さんよりずっと年上で、父さんより年上なんだって。聞いても信じられない。
自分用に安いお茶を用意しながらごつい尻尾を揺らすのを眺めていたら、視線に気づいたのか顔を上げた。ごう、とふいごのような声で鳴いて僕を見つめ返してくる。
「やっぱり僕も竜騎兵になりたかったな。リリでも、カルツァイでも、どこでもいいから」
独り言すると、兄さんが緩く首を振った。
「坊ちゃんはなれないよ」
「……知ってるって」
僕には岬守りの仕事がある。
此処を離れるわけにはいかないから、騎兵になるなんて夢のまた夢だ。コスタが機織りをして、カウトが漁師をやるように。僕は此処で守り人をやってくしかないと生まれたときから決まってる。知ってる。
薄く入れたお茶を手にしてちょっと乱暴に椅子に座った僕に、兄さんは困ったように笑った。
「別にお役目があるからって話ではなくて。無論それも大事だけれど――たとえ此処でのお役目が決められていなかったとして、坊ちゃんは、竜とは一緒にはなれない」
「才能がないってこと?」
「いいや。君にはむしろ、凄い才能があるんだ」
冷ましたお茶に口をつけ、兄さんは指を立てる。頬杖ついた僕はそれを見上げて、次に出てくる言葉を待った。
大体予想はついてるんだ。
「君は生まれたときに偉い竜と契約しているから、他のどの竜も畏れ多くて君の竜兵に名乗りを上げることはできない。君は王家と同じ契約を受け継ぐ、千年竜の親友だ」
兄さんは本当に予想通りに勿体つけたような声で言った。僕はつい、はっきりと溜息を吐き出してしまう。
「……そういう話はいーよ。契約したのは僕じゃなくて、ご先祖様でしょ」
うち、アルカンノムの岬守り一族は、代々一つの約束を受け継いでいる。
昔々、ラズハ王子が黄金の竜ガータと契約をしてこの国を造った。その少し前から始まる建国伝説は、国民なら誰もが知っている。だからこの国はラズハ・ガータ。人と竜の約束の名前だってことも。兄さんとガルテナが一緒に竜騎兵になれるのも、竜は人の友達だっていうこの約束があるから。
王家の人々、今は女王陛下がガータとの約束を継承しているように。岬守りの家が――僕が受け継いでいるのは、兄さんが言ったのは、そのガータがいた頃にいたもう一頭の竜の話だ。僕の先祖が契約して一緒に戦ったという、白銀の竜。
その竜は国を造るための戦いを終えて、ご先祖様とその子孫と、この岬を守ることにした。今もすぐ近くの海で僕らを見守っている、という話。だから僕らは竜の家来である精霊の声を聞けるのだとか。
でも、契約したのは先祖であって、僕じゃない。僕は一度もその竜に会ったことないし、それどころか、姿を見たことだってないんだ。何かやりとりするのは、年に一度の儀式、祭のときだけ。そのやりとりだってなんだか漠然としたものだ。会ったり話をしたりというわけじゃない。
そんなの、いくら相手が有名な竜だって意味ないだろう。意味のない約束だ。
「……僕はガルテナのほうがいいな」
そうしたら乗せてもらって、颯爽と走ることができただろう。一緒に過ごせただろう。
つまらなくなって呟くと、兄さんが慌てて立ち上がった。戸口でガルテナが目を真ん丸くして、尾を地にべたりと寝かせている。ぐううと喉の奥で鳴き声をさせるのは、初めて見る姿だった。
「おいそんなこと言うな! 海が荒れたらどうする」
兄さんが言ったけど、海は相変わらず、静かなものだった。ちょっと静か過ぎるぐらいだった。特別な竜なんて、今はもう住んでないんじゃないかと疑ってしまうほど。
百年前からずっと、この時期海が荒れることはない。
「ほら別の話をしようじゃないか。今年水晶守護隊に来た奴の話とか、聞きたいだろう?」
立ち上がったときとは逆にゆっくり椅子に腰を下ろして、ノード兄さんは早口に話題を切り替えた。そのとき丁度、僕を呼ぶ坂の下のおばあさんの声が聞こえたので、僕は入れ替わりに立ち上がる。
――兄さんとガルテナが来ると嬉しいけど、悔しくなってしまうから困る。兄さんも僕の仕事を誇れと言うけれど、そうそう、割り切るのは簡単じゃない。
急ぎ足で玄関まで行くと、おばあさんがほいと大きな籠を差し出した。今日のお昼は挽肉オムレツのサンドイッチと、スグリのジャムと、ビスケット。なかなか良い出来と説明して、ちゃんと騎士様の分も入っているわとつけ加える。端に干し肉が突っ込んであるのはガルテナの分だろう。
「いつもありがとうございます。今日はもう少し暑くなるみたいだから、あんまり働きすぎないでください」
「あらぁ、まだまだ大丈夫よ」
良い子でお礼を言って、カウトに言ったのより丁寧にこれからの天気を伝える。朝に海の精が「今日はお日様が元気でじりじりする」なんて言っていたから、これから少しの間、夏に戻ったような暑さになるはずだ。
もう一度お礼を言って、ぎっしり中身が詰った籠を持って台所へと戻る。少し遅めの昼ご飯だけど、兄さんが来たからいいタイミングだ。
海は夜まで静かで、目を閉じて息を潜めてみても、精霊の声さえ少なかった。
波の音が聞こえる。集中してみなくても、それは歌っているように聞こえた。なんだか慰めているようにも聞こえて気に食わない。とうとう目が開いてしまった。
少し暑く、寝苦しくて、体温の移ってないところとか壁に体を押しつけてみたが、あまり意味はなかった。開けている窓からの風もほとんど無い。静かに息を吐いて、そうっと床に足を下ろす。
真夜中の青い暗さの中、手探りで部屋を進んで、本棚の隅っこから紙切れを取り出した。古い古い羊皮紙で、端は擦り切れてインクは擦れている。慎重に窓辺に持っていく。
窓の外には、黄水晶の光を灯した水晶灯でぽつぽつ明るい街と、銀色の光に照らされた海が見える。銀色の光の根元は僕の上、この塔の一番上の、大きな銀水晶。何もしなくてもちゃんと海を照らしている。
直接照らされない僕のところは暗いけど、物を見るのに困るほどではなかった。外の薄明かりで照らした羊皮紙に、昔の絵が浮かび上がる。
「……」
そこには竜がいる。細い体に、ヒレのような細くまっすぐの翼を四つも生やした竜。ガルテナよりずっとすらりとした見た目の、角や大きな爪のない竜だ。
僕の――先祖が契約した、灯台の明かりと同じ色をした銀色の竜。
その名はノーファ、英雄スタラと共に戦い、王子ラズハと黄金の竜ガータを助けた、海の雄々しき守り神……。
――これが私たちの竜だよ、ライン。
父さんが初めてこの絵を見せてくれたのは僕が四つの時。その時僕は、素直に誇らしかった。とても偉い竜が僕の竜で、かけがえのない親友なのだと。でもいつからかそう素直に、胸を張ったりできなくなった。
ノード兄さんは前に言っていた。竜騎兵は、竜兵と騎兵が揃ってこそ。契約したら一生離れることはないと。
お互いに相手のことを深く知って、助け合わなければいけない。恋人なんかよりよほど深い付き合い、なんて話もある。物語でも、主役は竜に語りかける。我が親愛なる友よ、なんて。お互いがお互いを、何よりの友達だと思っているのが、竜兵と騎兵、合わせて竜騎兵だ。
それじゃ、僕とノーファは違う。僕は、ノーファのことは誰かから聞いた分しか知らない。
契約契約と言うけど、会って直接言葉を交わしたこともない竜だ。ノーファが契約したのは僕の先祖で、僕じゃない。僕が竜をちゃんと知らないのと同じように、彼は僕のことを知らないんじゃないか。
僕らは本当に、ノーファの友達だろうか? 彼はそう思っているだろうか?
絵の線を指でなぞる。当然、動き出したりはしない。瞬きすらしてくれなくて、僕は馬鹿馬鹿しくなった。
もう子供っぽいこと考える年じゃないよな。僕も。
カウトにも言ったし、コスタに馬鹿にされないうちに、僕も割り切って岬守りをやるべきだ。竜がどう思っていようと、僕も岬守りで、祭の日はやってくる。
……でもやっぱり、ガルテナと一緒にいる兄さんが、竜兵と一緒にいる騎兵が羨ましい。
未練がましく考えると、いきなり下から強い風が巻き上がって、手から羊皮紙を奪うような動きをした。僕は慌てて絵を後ろに隠す。
「やめろよ、これ大事な物なんだから」
言って聞き入れられることはあまりないと知りながら、思わず注意する。ひゅうと風鳴りが聞こえて、僕は暑いのを気にするより先に、窓を閉めた。
※
壁と家で仕切られて、階段と坂で繋がった町。生まれたときからほとんど変わらない、見慣れたアルカンノムの昼下がりも祭が近づけば浮き立って、色んなところに変化が見えた。
商人が糸の束を抱えてやってくるのが見える。飾りの房に足りない家はございませんか、と声をかけて回っているんだろう。コスタはもう機織を終わらせただろうか。祭は明後日。ちゃんと織れてなかったら笑ってやろう。
……さて。僕ももう真面目にしないと、笑われる。というか、父さんに怒られる。カウトのおじさんなんかと違ってひょろっとしている父さんだけど、怒るときはやっぱり怖い……いや、厳しい。
僕は窓から離れ、床に座って目を閉じた。
開け放した窓から扉へ、上の階から下の階へと流れていく風の道が手に取るように分かる。風は僕を取り巻いて、軽く触れたり、耳元で何かを囁いていく。まだ声は小さく遠い。運ばれる波の音は近づいては遠ざかり、繰り返し。
深く呼吸をしていると、閉じた目の奥に、きらきらと光って動く波や砂の粒が見えはじめる。水際の波は勿論、離れていて聞き取れないはずの海原の波の音さえ、段々はっきり、僕の近くにやってくる。段々人の声のようになってきた。
これが海の精の声。海の精だけじゃなく、此処にいる全ての精霊が僕たちに語りかけているのだと、父さんは言っていた。一度気づけばあとは簡単、ちゃんと耳をそっちに向けていれば、向こうから話してくれる。
喋る風が、町の人たちの声も乗せてくる。
――おいお前、灯芯は大丈夫か。灯台の光が消えるんだ、もしものときにはそれが命綱だ。
――アンタ、もしもなんて。光が消えたらすぐに海で灯りがつくんですから心配はいりませんよ。
――馬鹿。いつだって危険を考えとくのが海の男だ。
これは漁師の家の人の声。やっぱり祭の日の為に準備をしている。勿論、危険なことなんてなにもない。塔の光、水晶はちゃんと僕たちが管理しているし、儀式の準備だってばっちりだ。町と海が真っ暗になるのは、ほんの短い時間だ。
呆れたおばさんと大真面目なおじさんの会話の続きは聞こえてこなかった。風の流れが変わったみたいだ。
――今は町にとってとても重要な時なので、外の方を入れるわけには行かないのです。宿屋も今ばかりは客を受けつけていません。どうか今日明日は森の、樵の小屋で過ごしてもらいたいのです。
……これは、町長の声。糸や釘を持ってくる商人以外の外の人を町に入らせないために、門で話しているんだろう。
――月のない日を迎えたら、次の朝から町はお祭騒ぎです。そうなればいつも以上に盛大なおもてなしを約束できるので、どうか本日の所は。ええ、お食事はお持ちしますとも。
いつもどおり、威厳のないへこへこした声だ。町の人たちにはけっこう大きく出るのに、僕らや外の人にはいつもこう。まあ、そういうもんなのかな。
そのうち町長の声も聞こえなくなって、波の音に消えた。物と物の区別が無くなって、世界が一つになり始める。溶けあって、どの声が誰のものか分からなくなる。僕の中の海は朝夕の凪が揃って訪れたように真っ平らになる。
その中からぽつりぽつりと、海の精の声が零れて聞こえる。西の海に魚の群れだとか、鯨が跳ねたとか、今日も太陽がじりじりするとか、あんまり意味の無いおばさんたちの世間話みたいな内容だ。声だけ若くて、ちょっとコスタにも似てる。
声が、話が渦を巻いて僕を揺らす。じっと集中してこの状態を続けると、あるところで自分の思い通りに声を探し出せるようになる。僕はまだ父さんほど上手くなくて、ちょっとしたことしか分からないけど。
朝ご飯を食べてすぐに王都に戻ったノード兄さんとガルテナが今どの辺りにいるか調べてみようかな、と思ったのも束の間、
「……あれ、」
僕は違和感に目を開けて、声まで上げてしまった。その途端に全部がばらばらになってしまって、よく分からなくなる。
「今……あれ?」
僕を囲んだ流れが、普通とは違った気がして立ち上がる。窓から海のほうを見ても、波はやっぱり穏やかで、見た目には何もおかしくない……けど、何かがおかしい。
もう少し探ってみるんだったと思いながら、帽子を手に部屋を出て、階段を一気に降りた。父さんに聞いてみるのが一番だけど、父さんは今日もまた出かけてる。
とりあえず、もっと海の近くで調べてみよう。
立てつけの悪い戸をあけて、壁伝いに走る。階段を降りて段差を飛び越えて――漁師の家の人々は舟造りを終えて、船首に飾る簡単な彫刻に取り掛かっているはずなのに、海に近づいてもそのノミを使う音は聞こえない。
やっぱり何かあったんだろうか。
精霊の声をちょっと気にして走っていると、その辺りでもう、何がおかしいのかはっきりした。最後の壁を越えると、青い服の人たちが舟ではなく何かを囲んでいるのが見えた。
「何かあった?」
声をかけながら下に飛び降りると、皆が振り向く。中にはカウトのおじさんもいた。
「むしろお前さんが出てきたってことは、何かあったんじゃないかい」
「潮の流れが変なんだ。いつもと逆だよ」
「だなぁ。なんかいっぱい岸に上がってんだわ。見ろ、これ」
囲んでいた物から離れておじさんが指差す。白くすべすべした表面の、綺麗な流木だった。
おかしい。
「あっちの島から流れてきたの?」
この陸から少し離れたところに、ちょっと大きい島がある。無人島で、そこだけの木や花がいくつかある。高く売れる物も多いから、漁師の家はときどき、魚ではなくそっちを取りに行く。わざわざ取りに行かなくてもこういう、流木なんかの形で向こうからこっちに来ることもあるけど――それは春の話。
この時期の潮の流れでは、逆に陸から遠いほうに流れていくのが普通だ。
「だってこの木、あっちにしか無いんだぜ」
もう一本、流木を引きずりながら言ったのはカウトだった。その後ろを見ると、まだ後ろに二本ある。全部で四本。やっぱり偶然じゃなくて、流れがおかしいんだ。
「……でも、この時期に変わるなんて……」
「こりゃあ、何かあるんでないかい、ライン君よ」
どういうことだろう。祭が近づくと、毎年海は静かになるのに。潮の流れが変わるなんていつもならありえない。
考えても分からなくて、僕は海に降りて手を波に浸した。目を閉じて少し集中してみるけど、変な流れは一時的なものだったらしく、もう元に戻っていた。いつになく冷たく感じる以外は何もない。
海の精が僕の指に擦り寄って海のほうにひっぱろうとしてくるのを振り解いて、塩水を指から振り落とす。水の落ちた所がとぷんと揺れた。
木が流れ着くなんて、精霊のいたずらっていうにはちょっと大掛かりだ。やるにしても人に波をひっかけるとか、この近くで小さな渦を作ってみせるとか、その程度が精々なのに。
隣で、カウトもしかめっ面をしていた。明後日の夜には海に舟を浮かべるのに、これじゃ不安だろう。相変わらず波も低くて、その分には心配なさそうだけど……でもおかしいには変わりないし。
――海が荒れたらどうする。
ふと、ノード兄さんの言葉を思い出して血の気が引いた。もしかしてこれは、竜が、
「竜が贈り物をしてきただけですよ。心配はいりません」
嫌な想像をした僕は飛び上がるほど驚いた。カウトも同じくびっくりしたようで、僕らは揃った動きで上を見た。父さんが何かの包みを抱えて立っていた。
「海神様が? そいつぁ……今まではそんなことは」
漁師の人たちはまだ不安そうにざわついている。父さんだけが笑っている。
父さんは流木を見て、ちらりと僕のほうを見た。僕はどきっとして、流木を見ているように目を逸らした。どうしよう。父さんは贈り物なんて言ったけど。
父さんはよっと下に降りて、流木の傍、僕の傍まで来た。僕は父さんのほうを見なかった。動けなかった。
そんな僕の気を知ってか知らずか、父さんはいつものように時間をかけて物を確認して、僕と同じように波に指を浸してから、漁師たちを見渡して笑った。
「なんでしょうね。けれど嫌なことじゃあありませんよ。何故だかは分かりませんが、気を利かせてくれているのですよ、竜は。気まぐれかも分かりませんが――むしろ喜んで礼を言って、使わせてもらえばいい。祭になれば商人も多く来ますし、売れるでしょう。格別にいい木だ」
岬守りの言葉に、人々はやっと安心したようだった。皆帽子を脱いで、海に向って頭を下げ始める。カウトも慌ててその横に並んで、深々とお辞儀をしていた。
父さんがその背中を見て、その場で軽く礼をしたようだったので、僕も急いで頭を下げる。そのちょっとの間に、父さんはこっちを見ていた。
「ライン、コスタさんのお母さんからお菓子を貰ったんだ。帰ってお茶にしよう」
「はい」
やあやあと賑やかになった漁師に見送られて、僕は父さんとその場を抜け出した。走った道を父さんの後ろについて歩く。ゆっくりしているのに、走ったときより心臓は痛い。
「お前、何か言わなかったかい、竜に」
暫く行ったところで急に父さんが口にした。視界に入っていた僕の足は止まって、靴先を揃えて動かなくなる。気づいて、少し先に進んでいた父さんは振り向く。
此処で言わなくても、父さんは海の精から聞きだすことができるだろう。精霊はおしゃべりで、特にこういう告げ口は大好きだから、すぐに口を割ってしまう。
「……ごめんなさい」
僕は顔を上げ、ちょっと泣きそうになりながら謝った。父さんの目が丸くなる。
「なんだ、怒られるようなことを言ったのか?」
怒られるかと思ったら、父さんは驚いているようだ。僕は拍子抜けしたけど、少しほっとした。
ぐっと喉が詰るのを堪えて頷く。
「ノーファより、ガルテナのほうがいいな、って言ったんだ。……でも別に、竜に、海に向って言ったんじゃなくて、独り言で」
「いつも言っているだろう。私たちが海のことを聞くように、町のことも、精霊は運ぶんだ。特に岬守りの私たちは、いつも彼女たちに見られている」
うっかり言い訳すると、父さんが溜息を吐いて腰に手を当てる。いつもの怒る時の仕草だけど、怒っているというより、困っているような感じだった。
「機嫌がいいのだと思ったら逆か。道理で」
やっぱり、竜の機嫌を損ねたんだ。
少し落ち着いていた僕は、父さんの言葉に蒼褪めた。それって大変なことじゃないか。
「どうしよう、なにかあったら。明後日なのに……」
そうだ、父さんが怒らなきゃいいって話じゃない。これで海が荒れたら、謝って済む話じゃない。町の大問題だ。よりにもよって岬守りが海を怒らせるだなんて。百年遡ったってこんなダメな岬守りはいないだろう。
父さんは焦ることなく、落ち着いて海のほうを見た。壁に遮られているけれど、目を閉じれば、壁なんかないみたいに海の様子が知れる。父さんは長くやっているから、僕よりはっきり感じ取れているだろう。
海はまだ穏やかで、今は何の異変もない。海と父さんを交互に見ていたら、父さんは首を振った。
「私がさっき贈り物と言ったのは、出任せじゃなく、そう感じられたからだ。少なくともノーファは怒っていない。ノーファが怒りでもしたら私たちがわざわざ耳を澄ますまでも無く伝わってくるのだから。だから、海が荒れるようなことだけはないだろう」
「でも……」
機嫌を損ねてるんじゃないのか。
父さんが道を引き返して、僕の横に並ぶ。背中を叩いて、固まった僕の足を促した。僕は進みながら父さんの顔を見上げる。
難しい顔をしているかと思ったら、笑っていた。
「ライン、波は触ったかい。どうだった?」
右手を持ち上げてみる。日はまだ照っているというのに、さっき水についたところだけ、いやに冷たい気がした。気がするってだけで、確かではない。逆の手で触ってみてもよく分からない。けど、こういう感覚的なものが、僕らには大切なんだって、昔からよく言われている。
「……うん。少し、冷たかったと思う」
そう言うと父さんは、笑顔をぐっと深いものにした。そうすると皺が増えて、ちょっと老けた感じになる。
「私は、そうだな、軽く叩かれたかな。なんでもない、と振り払われたようだった」
「え」
僕と父さんで、感じたものが違う?
どういうことだろう。
「ノーファはね、少し子供のようなところがある。お前や皆が思っているように、どんと構えた神様じゃないんだよ。……そういうことだ。帰って落ち着きなさい。それでは精霊の声も聞こえないだろう」
だから、どういうことだ? 全然分からない。僕は混乱してしまって、海のほうを窺いながら歩くしかない。
家に着くと、父さんはもう心配を止めたみたいで、お茶を飲むとさっさと自分の仕事を始めてしまった。僕は逆に、心配と不安ばかりが溜まっていく。明後日は本当に大丈夫なのか、ノーファはどうしているのか。
……相手がいつも一緒にいる竜だったら、どう思っているのか、きっとすぐ分かったんだろうに。ノード兄さんみたいに、竜騎兵みたいに竜の近くにいられたらよかったのに。
僕は何をしたらいいのかわからず、ぐだぐだと椅子に座った、テーブルの上やカップの中を見つめていた。まだ皿にいっぱい残ったクッキーを見ても手が伸びなかったのは、久しぶりだ。
夜になっても、やっぱり正解は見えてこなかった。精霊の声を聞くのもまったく集中できなくて――精霊のほうも、なんだか僕に寄ってこない。
気分は最悪だと昼にも思ったのに、まだ底じゃないらしい。外が暗くなるにつれて、僕の気持ちもさらに暗く沈んでくる。祭はもうすぐだっていうのに。
そんな僕を励ますように、町では水晶灯が灯り始めた。カルツァイから来る夕焼けや朝焼けのような金色の光は、女神様の優しさの色と言われている。今日はその言葉が、本当のような気がした。
上の銀水晶も、そろそろ光り始めるだろう。
「ライン、いるでしょ?」
立ち上がったときに女の子の声が聞こえて、精霊の声かと思った。実際にはコスタの声で、窓の下を覗きこむと手招きされる。
どうせろくに考えられないし、まあ付き合ってやろう、と僕は外に出ることにした。階段を降りる途中に自分の顔を揉んで、コスタに色々気づかれないように取り繕ってみる。多分バレないってぐらいには顔を作って、玄関の扉を開けた。
玄関に吊るした水晶灯の下、コスタは布を抱えていた。青地に白い模様のそれは、この前失敗をしていた、祭のための布だ。
「終わったんだ」
「そりゃあ、終わるわよ。お祭りはすぐだもの。遅れるわけには行かないでしょ?」
「折角だから見せてよ」
丸めた布を差し出し、コスタは自信満々の様子だった。わざわざ自慢しに来たらしい。やっぱりまだ子供だなぁ、なんて。
ちょっと広げてみると、始まりは失敗が目立つ布も、下に行くと目が整っている。急に切り替わってるんじゃなくて、少しずつ上手くなっているそれだ。負けず嫌いだからお母さんには手伝ってもらわなかったんだろうな。……下手なところはあんまり見せてもらえなかった。
コスタの家の印、花と鳥の模様のところに行くと、もう小さい子供の作品とは言わせない出来になっている。羽の模様も花の形も、はっきりしていてちゃんとそれと分かる。端に縫いつけられた房飾りも整っていた。それ自体より、縫いつけた糸のほうがぴしっとしていたけど。
織り目を撫でていたらこれがどれだけ大事に作られたか、伝わってくる。コスタは元から器用なほうだけど、あの下手だったのがこれだから、きっとほとんど休まないで頑張ったに違いない。
祭のために頑張ったんだ。
明後日がこの町の人たちにとってどれだけ大事な日か。僕の仕事がどれだけ大切か、改めて考えてしまう。ちょっと、泣きそうだ。
祭の前に、あんな変なこと言うんじゃなかったな。
「……いいんじゃない。お母さんほどじゃないけど」
「何よ、素直に見直しなさいよ!」
丁寧に丸めなおして返すと小突かれた。大事そうに抱えて、少し黙ってからまた口を開く。
「あんたも、薄っ暗い顔してないでよ、うちのお婆ちゃんがまた変に心配するじゃないの。女神様と海神様にお祈りし始めると長いんだから、やめてよね。海辺まで行っちゃうし」
「はいはい、大丈夫。コスタこそさっさと帰って休んだほうがいいんじゃない? どうせ寝てないだろ」
上手く隠したと思ったのに、気づかれていたらしい。恥ずかしくなって、口はそれを隠すためにすぐ動いた。
からかうとまたキンキン喚かれてどつかれる。散々文句を言って僕の言葉は受けつけず、町の女の子の誰より早い足で、坂を下っていく。坂は灯りもほとんど無いのに、あんなに急いで転んだりして、布が汚れてしまうんじゃないかと心配だ。
最後まで転ばなかったのを見届けて、家の中に戻るとなんだか疲れが出た。そんなに動き回ってはいないけど、あれこれ考えて、ずっと精霊の声を探っていたからかもしれない。コスタなんかに見破られるほどだし、今日は早めに休んだほうがいいのかも。
自分の部屋まで戻るのも面倒で居間の絨毯の上に寝転ぶ。クッションは無かったけど、もう取りに歩くのも面倒だ。
ああ、祭はちゃんとできるだろうか。竜のことが分からない僕は、岬守りとして、やっていける?
考えても疲れた頭の中をぐるぐるするばかりで、息が苦しい。これでは駄目だ。精霊の声どころじゃない。
晩御飯まで寝ようかな、と考えるうちに視界はぼんやりしてきて、黄水晶色の灯りが霞んでいった。
※
舟は青い世界の中心へと滑り出る。
まるで布の上を行き来する杼のように。コスタのお母さんがやったみたいに、綺麗に真っ直ぐ。振り返ると白い通り道が細く細く残っているのが見えた。
さあ、と水を裂く音は聞こえるのに、海の精の声は聞こえない。微かに周囲を揺らす風の音も、僕に何かを語りかけてきたりはしなかった。
空も海も、境が分からずただただ深く暗く、青い。舟の周りだけぼんやり明るい。水面ではなく宙に浮いているんじゃないかとも思える。本当に進んでいるのかもよくわからないほどで、どうしても後ろを振り向いて確認せずにはいられなかった。
どれほど進んだんだろう。どれだけ時間が経ったんだろう。相変わらず風景は変わり映えしなくて、僕はすることがない。だって舟には、櫂も帆もないんだ。
水の中に何か見えないかと、僕は少しだけ、舟から身を乗り出した。やっぱり暗く、魚の姿も底も見えない。指を通してみても冷たいだけで、なんだかぼんやりした不安が溜まっていくだけ。
諦めて体を起こそうとしたそのとき、周囲がふっと一段、暗くなった。
あ、と思ったとき、声は出なかった。思ったときには肩を掴まれたように倒れていて、ぐるりと体が回った。僕は海に落ちた。
何かにぶつかる衝撃はなく、気づいたら海の中で。上も下も分からない。視界のそこらで、銀の泡が煮え立った鍋の中のようにぐるぐる回った。綺麗だった。
僕は多分落ちているんだと思う。海の底に体がひっぱられている。水面を目指そうと腕を動かしても、水の流れはほとんど生まれなかった。ゆっくりと沈んでいく。怖くはない。さっき指で触れたときとは違って、冷たくも温かくもなくて、変に気持ちいい気さえする。自然に瞼が落ちた。
水がくるりと返って、僕の体を引っくり返す。目を開けると下のほうに、もう青じゃなくて藍色、黒に近い色がずっと深く溜まっているのが見えた。
どこまで続くんだろう。海って、こんなに深かったっけ。
水が、風みたいに顔の横を通り過ぎた。何かがきらっと光って、僕は振り返る。でもやっぱり青いだけで、下のほうよりは明るいだけで、特別な物は何も見えない。
取り残された舟の底が、歪な三日月のようだった。
魚も居なくて、塩辛くもない、静かな海。それでいて息苦しくもない水なんて、魔法か夢か、そんなものしかありえない。でも僕は魔法使いじゃないから――これはきっと、夢だ。僕はきっとあのまま眠ってしまった。だからこの海はこんなに深く、こんなに静か。
また、風のようにさらりと水が横を通る。光ったのは、今度は下で……もしかしたら上なのかも。
底と思うほうでいくつも、きらきらと光るものがある。高いガラス細工みたいな光を透かす輝き方だったから最初は水が動いているのかと思ったけれど、それは少しずつ上に昇って僕に近づいてくる。ばらばらだった光は段々大きく、一つに纏まっていくように見えた。
銀水晶のような色をしている光の中に、何かがいた。その影は花のような形に見えた。
僕の口から泡が漏れた。
――竜だ。
それは間違いなく、ノーファだった。家に置いてある絵と同じ、その姿。バターのようにとろりと水に溶けていく光の中、大きな翼が四つ、風車の羽みたいに広がっている。舟の櫂に似た平べったい形だ。きっと海に住んでるからこんな形なんだろう。
ゆっくりゆっくり、光を連れて近づいてくる。細くすらりとした顔の横には黒い角があった。握れるほど細くつやつやと黒い、島のほうにある高値がつく黒珊瑚みたいな角だった。その角だけが絵と違う。
動きを止めた僕を見つめる、真珠色の丸い瞳。まるで月のようで、でも月と違って、周りではなく真ん中に細く黒い闇がある。瞳の中には黒い髪の子供がいる。僕だ。
なんて美しい竜だろう。
絵より、どの物語より、今まで見たことあるどの竜より、生物より。こんなに美しい夢があるだろうか。
――どちらかというと、精霊の声を聞くときの幻に近い気がした。何か意味のある、特別なもののような。……それはそうか。
特別でないわけがない。だって、ノーファは伝説の竜だ。これは夢じゃなくて、僕は魔法使いじゃないけど――これはノーファの魔法なんだ。
少しの距離を空けて、ノーファも水の中で止まった。けれど水は止まっているわけではなく、常に、僕とノーファの間を通り過ぎている。
彼の体は物語に出てくる特別な竜のように大きく、本当に、風車のように見えた。僕なんか翼の一つ分もない。
ノーファはのんびり流れてきた、流木というには小さい白い枝を口で捉えて、僕をじっと見た。
僕がどうしていいのか分からなくて動かないでいると、枝を放し、翼を少し動かして遠くへやる。少しすると水の流れが変わり、今度は下のほうから、少しの砂粒と一緒に大きな赤い貝殻が浮いてきた。今度はそれを口に、銀の竜は僕を見つめる。
困った僕が首を傾げると、ノーファも同じほうへと首を傾げた。やはりどうもしないでいると、やがて、貝殻も口から落ちてゆらゆら底に沈んでいった。
口を開けると、きれいに生え揃った真珠色の牙が見える。その隙間から、キーィと細い鳴き声が聞こえた。僕は久々に音を聞いた気がした。
この水の中、音が聞こえることが、幻と分かっていても不思議だった。大きな口からキイキイと小さい声が漏れる。それが泣いているみたいに聞こえて、僕はゆっくりと、ガルテナにしたようにその鼻面に手を伸ばした。とんでもなくゆっくりで、何時間もかけて手を伸ばしたような気がした。
噛まれたりするかもしれない、という怖さはなかった。どうせ幻と割り切ったわけじゃなく――確信、みたいなものがあった。そんなことするわけないと。
美しい竜は僕の手に気づくと顔を上げて、僕の指をつんと押した。そこに、昼間と同じ微かな冷たさを感じる。手を引っ込めないでいるとノーファはぐいぐいと首を伸ばし、顔を押しつけてくる。波に触れたようなあるのかないのか曖昧な感触がした。
手で精霊の声を聞くときのように、ノーファが何を思っているのか、掌からじんわりと伝わってくる。一度気づいて耳を傾ければ、海の精の声のより簡単に向こうから寄り添ってくる。
胸に、凄まじく強烈な想いが湧き上がった。悲しいような、苦しいような、それでいて、とても嬉しい。飛び上がって踊りたくなるほどの、興奮?
会えたことへの喜びが溢れてくる。僕から、ノーファから。水の中なのに、全力で走った後のように体がかっと熱くなる。素敵なものをもらったときのように胸がいっぱいになる。
「ノーファ」
僕は小さく名前を呼んだ。
白銀色の竜はまた鳴いた。でも、その声はさっきと違って、喜びの声だった。波のように、僕にもその感情がやってきては滲みこむ。
ノーファが僕の顔に額を寄せる。ひやりとしていながら心地よく温かいそれは、海の水の温度だった。
子供のようなところがある、と父さんが言ったのが、分かった。急な潮の流れの変化も、さっきの貝殻とかも、……絵にはない黒い角とか。全部僕のためだった。僕のためを思ってやったことだった。
怒って、気まぐれに潮の流れを乱したりしたわけじゃない。僕があんなことを言ったから、気にしていたんだ。潮の流れが変だから木が流れてきたわけじゃなく、木を流すために潮の流れを変えた。父さんの言ったとおりだった。
僕は馬鹿だ。ほんとに全然、分かっていなかった。
「お前のこと、嫌いなわけじゃないよ。ただ、兄さんとガルテナが、羨ましかっただけ」
子供の頃、僕の竜だと言われた、銀の竜。僕のなによりの誇りで、宝物みたいなものだった。
でもその竜は絵でしか姿を見せてくれなくて、声も聞かせてくれないし、乗せてくれるわけじゃない。それが不満で、つい、口に出た。
ノーファよりガルテナのほうがいいんじゃなくて、そういうことを全部出来る竜騎兵が羨ましかったんだ。竜と近くにいられる人が羨ましかった。僕も友達の竜と共に暮らしたかった。
近くにいない竜なんて、と思っていた。
でも考えてみれば、僕とノーファはちゃんと近くにいた。
ノーファはいつだって一緒にいる。ノード兄さんとガルテナに負けないぐらいだ。僕が生まれたときから、ノーファはすぐ近くで僕のことを見ていた。僕だってノーファを見て育った。
僕が勝手に思い込んでいただけだ。
「お前はいつも海にいて僕たちを見ているのに、忘れてた。悪いのは僕だ。お前じゃない」
ノーファは伝説の存在なんかじゃない。遠い昔の、先祖と一緒にいただけの竜じゃない。
岬の海は、全てノーファだ。荒れた海も穏やかな海も、青い水も銀の水も、深く黒く見える水底も、全て。僕の生まれるよりずっと前から、僕が生まれてからもずっと。すぐそこに居てくれたのに、僕だけがちゃんと見ていなかった。触れてやっと思い出した。
気づけば、はっきりと感じられる。ちゃんと知ることができる。もうこれを忘れたりはしない。
波に触れれば、いつだって思い出す。何をし、何を考えているか全て読み取れる。乗せてはくれないかもしれないけれど、僕の竜はちゃんと傍にいるんだ。
半端な感触の体は、気づけばつるりとしたなめらかな鱗に変わっていた。しっかりとしてはいたが、やっぱり繊細な感じで、どうにも傷つきやすそうに見える。
……これは鎧がないと危ないな。
なんて、笑ったところで景色が一変した。上にひっぱられる感じがして、気がつくと僕はノーファの上に乗っていた。
水の中から抜け出して、星が散りばめられた空に飛び込む。不思議に濡れていない頬に風が当たる。
呆然と見下ろすと、下にはアルカンノムの町があった。岬の先端では銀水晶の光が、他では、小さな黄水晶の灯りが散らばっているのが見える。そっちもそっちで、星空のように見えた。
飛んでる。
まるで泳ぐように、ノーファは飛んでいた。僕はその背に乗っていた。
「うわぁ――」
それきり、声は出なかった。想像していたよりずっと素晴らしくて、もう感動しかなかった。
つるりとした鱗は掴むところもないのに、僕は滑ったりしない。まるで一つの存在になったように、僕らはぴったりと寄り添っていた。竜と共にあることは、こんなにも素晴らしい。
ノーファ。父さんが、婆ちゃんが、曾爺ちゃんが僕に繋いできた、岬の竜。一緒に岬を守る、僕の竜! 親愛なる友よ!
美しく優しい僕の竜。僕のために、わざわざ夢に出てきたりして、僕のわがままに付き合ってくれる。それを彼自身心の底から楽しんで、喜んでいる。僕と居ることを喜んでくれる、僕たちの竜。ノーファ以上の竜なんて、一体どこにいるというのだろう。僕はもう二度と、他の竜がいいなんて言ったりしない。誓って。
――夢の切り換えは、いつも急だ。けれどとてもなめらかで、継いだ場所は分からない。ノーファの魔法は巧みだった。
何度か瞬きしたところで、僕とノーファはアルカンノムより明るい街の上にいた。最初は雲の霞の上にいて、滑るように下へと向う。
眩しいほど明るく建物が多い中でも一際目を引くのは、石を積み上げた、古いけれど大きく、しっかりと聳える大きな城。ノーファはそこにすうっと近づいて、一つの塔の近くで止まった。羽ばたいていないのに浮いていてなんとも不思議だけど、これも魔法だからできるんじゃないかな。
「誰だい?」
中から声が聞こえて驚いた。この世界にいるのは僕とノーファだけだと思っていた矢先のことだったから尚更だ。ノーファがそれにキイと答えたのにはもっと驚いた。僕たちはそれまでまったく音を立てなかったのに、どうして、部屋の中から気づけたんだろう。
現れたのはノード兄さんみたいな金の髪に、青い目の……手触りの良さそうな、飾りのいっぱいついた服を着た、僕やカウトよりちょっと年上の男の子だった。こんなところに居るんだし、貴族の人なのは間違いないだろう。服とかじゃなくて、顔つきがもう高貴な人だと分かるような、綺麗で誇りに満ちた顔だった。
その綺麗な人は窓の手摺に手を添えてこっちを見上げ、ノーファを見て、その上に僕がいるのを見て目を丸くした。暗い中でも、その目はすっきり晴れた青空の色だった。
「君は、岬の人?」
「うん、そう。……アルカンノムの」
綺麗な人は発音まで綺麗で、なんだか物語の人のように優美だ。海辺の訛りがある僕は少し気恥ずかしい。
でもそんなことは全然気にしていないようで、彼はにっこりと笑った。
「じゃあ彼はノーファだね。とても美しい竜だ」
褒められて、ノーファが喜んだのが伝わってきた。僕も嬉しくなるのは、ノーファと同調しているからではなくて、僕の友達が褒められたからだ。
僕はこんなに素晴らしい竜の友達なんだ。
綺麗な人はこっちに手を伸ばす。手も、女の子みたいに綺麗だった。ノーファはその手に鼻先を触れさせてまた小さく鳴く。まったく大人しいその様子に、綺麗な人はくすくすと上品に笑う。
「僕も竜の友達がいるのだけれど、残念だな。今眠ってるんだ。起こすわけにはいかないしな」
彼は心底残念そうに、ちょっと悔しそうに言う。
……この人、竜騎兵なんだろうか?
貴族で竜騎兵というのも珍しいわけじゃないけど、どうもこの人は戦うようには見えない。竜に乗って走り回るような感じでもない。じゃあ僕がそうなのかと言われればそれはちょっと、あれだけど。
単に竜の知り合いがいるとかそういう話だろうか。
綺麗な人は、何か含みがあるように笑っている。僕はなんだか凄く気になって、尋ねずにはいられなかった。
「その竜は、どんな竜?」
待っていたと言わんばかり、彼は満面の笑みを浮かべた。身を乗り出し、内緒話をするように、指先を揃えて口元に添える。
「ガータというんだ。君の竜に負けないぐらい綺麗な、黄金の竜だよ」
――え?
囁く声。それってつまり、と言おうとしたのに、急に声が出なくなった。代わりに聞こえたのは、ノーファとは違うちょっと凄みのある啼き声。細い鳴き声がそれに返事をして、今まで聞いたことのないすごい音になった。
手を振る人の姿がどんどん遠ざかる。
「またね」と、聞こえた気がするけれど、それがノーファのものか人のものか、僕には判らなかった。
はっ、とすると、見えたのは銀の光でも、金髪の人でもなく、黄水晶の光を灯した水晶灯だった。
※
夜が明けて月の無い日になって、あれこれと働いている間にすぐ祭の夜が来た。父さんと僕は、銀糸で刺繍された特別な白い服と白い帽子を身につけて、しっかりと準備をする。
父さんが僕に鍵束を手渡す。綺麗に磨かれた銀色の鍵は四つあるけど、どれもこれも、同じような見た目をしている。よく出来た四つ子の翼竜のつまみが、鍵を纏める環に尾を絡める形。僕も子供の頃は、同じ鍵が束ねてあるのだと思った。
でも実際は、全部違う鍵だ。特別な鍵師が作ったという魔法の鍵で、僕の一族だけが全部を見分けられる。どの錠にどの鍵を、どの順に使えばいいのか、僕たちだけが知っている秘密だ。一つでも間違えれば扉はけして開かない。
手の中に納まった銀の竜は皆目を閉じている。本当は目に石を嵌める予定だったのに、あまりに出来がいいので飛び立っては困ると取り止めたらしい。まさかとは思うけど、確かに鍵に飛んでいかれては困る。この鍵がないと、僕らは塔には昇れない。
三つの鍵をそれぞれ順番に差し込んで、普段は締め切っている扉を開く。ギィと軋む音がしたけど突っかかるようなことは無かった。
振り返ると、大きな布を持った父さんが頷く。僕は久々に火を入れたカンテラを手に、扉の奥に続く階段を昇り始めた。
いつも住んでる、家として使っているほうと違って、一番上まで窓はない。壁についた印が今どの辺りなのかを教えてくれるだけだ。五分の一、五分の二、半分。空いた手を壁に添えながら、真ん中の磨り減った段を踏み外さないように気をつけながら、前より後ろを照らしながら、僕は黙って昇る。
一段ずつ進むたびに、心が落ち着いていく。軽く緊張して、儀式にはいい感じの気持ちになる。
後ろから聞こえる父さんの足音が僕を急かすように聞こえた。重い物を持っているはずなのに、全然堪えてない音だ。階段は長く、ちょっと息が上がってきたな、と思ったところで、もう少しと知らせる印が手に触れた。
カンテラを壁に寄せて置き、鍵束から四つ目の鍵を選んで上の扉の鍵穴へ差し込む。押し開けると顔に風が触れて、海の匂いが強くした。
眩しい光が目を覆う。目を細めて、手を前に出しながら前に進むと、ふっと光が弱まった。……一昨日の夢みたいだ。
光の中にいるのは、ノーファではなく、石だ。中にいるというより、光を放っていると言うのが正解だけど。光の柔らかく光を内側に留める銀水晶の固まりは、触れるとひやりと冷たい。
町を照らす黄水晶の灯とはまるで違う色だ。
一応確認に身を乗り出して町を見ると、その金色の水晶灯の光は既に消えていた。町長がカルツァイからの流れを一旦断ち切っている。こっちの準備は万端だ。
銀水晶の光の帯が照らす海には、舟の群れが見えた。皆火を灯している。こっちも大丈夫。
もう、日付も変わるだろう。年に一度の大切な儀式の夜。今年も無事に迎えられる。
「ライン、いいかい、消すよ」
「はい。大丈夫」
僕は帯に挟んであった銀の横笛をしっかり握って、父さんに答えた。父さんは満足そうに笑った。
あの夢を見てから、なんだか満ち足りた気分で、自分がしっかりした気がする。精霊の声もなんとなく上手く聞けるし、父さんには「やっと岬守りらしくなった」と褒められた。今年から任せられる、なんて、ちょっとおっかないけど嬉しくないわけがない。
これはノーファやご先祖様に押し付けられた仕事じゃない。仕方なくやる仕事じゃない。僕たちが誇りを持って繋いでいく、僕たちの仕事だ。
僕はやっと気づいたんだ。岬守りなのは僕の家じゃなくて、僕の家とノーファだってことに。
そう思えばこの仕事も竜騎兵に見劣りしない。他の仕事を羨ましがったりしないで、胸を張ってやることが出来る。華々しくはないけれど、あの竜と一緒の仕事なんだから。
銀水晶に特製の覆いが被せられる。革を何枚も重ねたそれは、海を照らすだけの光も完全に遮ってしまう。更にカンテラの火を消せば、僕たちの近くは暗くなった。
それを合図に、海でも火が吹き消される。岬の町は、海は、闇に包まれた。晴れてはいても月のない真夜中、星の細やかな明かりだけが、空に広がっている。
僕は手探りで笛を構えて、口に寄せた。息をゆっくりと吹き込む。
体に染みついているたった一曲を、間違えることのないように奏でる。光を灯す旋律。ノーファを呼ぶ、彼のための演奏だ。
少し遅れて、父さんの笛が僕と同じ音を奏で始める。それと大体同じところで、海の精の歌声が聞こえ始めた。
いつもは勝手に喋り歌うその声が、祭のこの夜だけは、岬守りの笛の音に合わせて歌う。海はぴたりと静まって凪いでいるのに、さあ、という波に似た音が大きくなって陸に押し寄せ、他では聞けないほど美しく震える女の人の声になる。
僕らにも分からない精霊の言葉で、海の精は歌う。――分からないけれど、きっとノーファのことを歌っているんだろうと思う。精霊も僕と同じように、ノーファのことを想って歌っている。だから笛の音と声はぴったりと合わさる。
曲が一度目の繰り返しに差し掛かり歌が纏まってくると、海はぼうっと輝きはじめた。さっきまで僕の横で光っていた水晶の薄い色に似ている、夢と同じあたたかい銀色だ。光は段々と増して、浮かぶ舟の形が見えるほどになった。
僕らの塔が海を照らすのではなく、海からの光が、舟と町を、僕らを照らす。海が銀色に染まる。
これが竜の灯――ノーファが僕たちの呼びかけに応じて、契約した英雄の子孫と、英雄の仲間の子孫たちに会いに来た印。この海は、岬は竜に守られた場所だと教える灯火。
町の全ての家の海に面した窓からは、この日のために織られた青い布が垂れ下がっている。下のほうにある白い模様は、どれ一つとして同じものはない、それぞれの家の模様。端には房飾りが四本縫いつけられている。
竜の灯で洗った布は、それから一年家を守ってくれる。海にいる新しい舟も、漁師たちも、この光を浴びれば事故なく一年を乗り越えることができると言われている。
優しい竜は、皆を見守っている。
海から空へと滲み出している柔らかな銀の光を眺めながら、僕は笛を吹き続けた。光が消えるまでこの時間は続くのだ。
今年の光は、僕にはなんとなくノーファの形に見えた。
「やあ、コスタ、お前もちゃんと織れたんだな。よかったな、嫁に行けるぞ」
「カウトうるさい。女の子の中に入ってこないでよー」
「コスタはこういうの上手いんだから、ちゃんと出来るに決まってるじゃない。アンタみたいな不器用と違うのよ」
「うわ可愛くねぇお前ら。じゃああとでこっち来んなよ。というか不器用とか、俺の作った彫刻見てから言え!」
「あれ竜に見えないじゃない! ねえ、ライン君」
「んー、いや、竜には見えたよ? 一応」
広場にはごちそうが並んで、皆が歌って踊っている。もう既に酒臭いおじさんたちも居るし、小さい子たちは普段じゃ考えられないぐらい沢山のお菓子や果物を貰ってはしゃいでいる。
カウトは僕の持った葡萄酒の盃にもう何度目か自分の盃をぶつけて、今はついでに頭を叩いていった。
……カウトの作った彫刻は、確かに竜と言われれば竜だけど、犬と言われれば犬、鹿といわれれば鹿かな、という残念な出来栄えだった。コスタの最初の織物のほうが、まだ形になっていただけマシかもしれない。舟は普通にできてたんだけどなぁ。
女の子の群れにちょっかいをかけて追い出されて、漁師の大人たちにひっぱられていったカウトは、これから多分、浴びるほどお酒を飲まされるんだろう。吐かなきゃいいけど、でもあの辺りのあれは毎年のことだし。
僕はまだお酒のおいしさが分からないし、気分が悪くなるだけ嫌だと普通に葡萄酒で済ませておく。父さんも挨拶回りで暫く戻ってこないし、適当にごちそうを食べて、皆と遊んで一日終わりだろう。明日も明後日もそうだ。祭の一番の肝は最初の夜だけど、静かな儀式にくっついた賑やかな後祭は三日三晩続く。飽きた頃にちゃんと終わる。
夜が明けてもまだ、家の窓からは青い布がはためいている。昨日の昼に父さんが教えてくれたけれど、これは昔、戦いのときに掲げた旗が元らしい。僕たちの吹いていた笛も、ご先祖の英雄が皆を励ますために使ったものだとか。
そういう、色々な謂れもこれから全部教えて行くから覚悟しなさいと言われてしまった。この町の歴史だって全部覚えられていないのに。岬守りとしての誇りはもうしっかり胸にあるはずだけど、こういうときはやっぱり、コスタやカウトが羨ましくなる。
何を食べようか考えていると、わあきゃあと子供たちのはしゃぐ声が最高に大きくなった。何かと思ってそっちに顔を向けると、子供たちに手を伸ばされたり逃げられたりしている黒い竜の姿が見える。その手綱を引いているのは、金髪の男の人。
「ノード兄さん?」
僕のほうに歩いてくるその竜騎兵は、間違いがない。王都に帰ったはずの兄さんだ。
テーブルに置かれた料理を齧ろうとしたガルテナをぐっと引き戻して、引っ張って歩いてくる。ガルテナはそれに文句を言う唸り声を上げたが、兄さんは気にせず、代わりに近くにいた子供たちがぱっと逃げた。大人も何人か逃げた。
「何かあったの?」
ガルテナがこれぐらいじゃ暴れたりしない竜と知っている僕だけが、近づいて、その頭を撫でて兄さんを見上げる。ガルテナがまだなんとなく不満そうなので、近くのテーブルから肉を一切れ取ってあげた。
……そうだ、こないだはごめん。ノーファに怒られるってびくびくしたのは、僕だけじゃないよな。
歴戦の竜兵があんなに弱気になったのだから、結構恐ろしかったに違いない。肉をもう一切れ摘まんで差し出して、逆の手はぽんと、硬い頭に置く。
あまりの感触の違いに、竜って本当に色々いるんだなぁとしみじみした。鳥みたいなふわふわしたのも、山のほうには居るって聞くし。
兄さんは困った顔で息を整え、相当急いで来たのか、乱れたままの前髪をくしゃっと押さえる。肉に夢中の竜兵をぐいぐいやって、鞍につけた荷物を取ろうと必死だ。
「戻ったばかりだっていうのに、昨日の朝呼び出されてね。至急とせがまれて……ああ、嫌な話じゃないよ。坊ちゃんにお届け物――ちょっと待ってくれ。こらガルテナ、まず仕事だろう! 食い意地はあとでいい!」
「僕?」
目を丸くした僕に、兄さんは口に手を当てこそりと囁いた。
「一の殿下からですよ、岬守り殿」
一人はまだお腹の中だけど、女王陛下の子供は三人いる。
僕らは名前を知らないから、上から一の王子、二の王子……と呼ぶ。つまり、兄さんがいう一の殿下というのも、その人のことで――
やっとガルテナを宥めた兄さんの手には、つやつやと赤い封蝋の封書が握られていた。