第4話 二宮飛行機製作所
その年、1900年4月29日、皇太子嘉仁妃・節子様は、世継ぎとなる男子を出産された。
宥仁親王である。
日露問題等、暗い話題と軍備増強の重税に苦しむ中、国民にとっては久々の明るいニュースであり、
各地で提灯行列が催された。
しかし、『あそ』の乗員たちは、これを素直には喜べなかった。
「おかしい。皇太子、後の大正天皇の第一子、昭和天皇となる親王は1901年4月29日生まれのはずだ。
丁度一年早い。それに裕仁親王でなく、宥仁親王とは・・・」
島田の問い掛けに他の乗員たちも頷き、思案顔となる。
「私たちがこの世界に来た影響が、早くも出ているのかもしれませんよ」
やがて、彼の問いに千香が口を開く。
「しかし、未熟児でもない限り、通常は出産に10ヶ月かかる。
皇太子妃の御懐妊は、我々がこの世界に来る前であって、これでは理屈に合わなくなる」
「ですから、それも含めてです。
時間を遡り、私たちがこの世界に来たという事は、時間の流れの中に無理やり割込む様なものです。
当然、その歪みが到達年である1900年前後に出てきてもおかしくありません」
副長であると共に分析も担当する彼女らしい答えである。
「なるほど。そう考えるのが現在のところ一番妥当と言えるだろうな。
それだけ我々がこの世界に来た事は重大なんだ。軽はずみな行動は出来ない」
島田も頷き、自分を戒める様に言う。
「案外、次に続く時代は『大正』や『昭和』ではないかもしれませんよ」
小林がクールに答える。
「『太正』に『照和』だったりしてな。サ○ラ大戦や○碧の艦隊みたいに」
片山も笑いながら小林の言う事に同調する。この二人はなかなか気が合う。
そして後に、この冗談ともつかない事が現実のものとなるのだ。
その頃、二宮忠八は陸軍の後ろ盾を得て、早速会社を設立した。
日本最初の、いや世界最初の航空機製造会社『二宮飛行機製作所』である。
設計主任には小林が成行きからも収まる事となったが、いざ量産となると問題は山積していた。
まずエンジンが無い。
初飛行時にはバイク用エンジンを使うというアンフェアな事を行ったが、『あそ』に積まれていたのは10基だけ。
つまり、製作可能数は10機までという事だ。
エンジン以外でも『あそ』で都合がつけられる部品は限りがある。
もっともそれらは当時の日本の技術水準でも、スペックを落とせば何とか工面出来そうだが、
エンジンだけは全く手に負えたものではない。かといって、避けては通る事が出来ない問題である。
史実においても日本の航空産業は、機体設計の面では欧米に対しても見劣りしないどころか、
むしろ優秀なくらいだったが、エンジンの量産・品質管理分野で劣っていた為に、それが足を引っ張り、
性能を発揮出来なかった例は数多を問わない。
もっとも逆説的に考えれば、非力なエンジンをどうにか補おうとして、機体設計が洗練されたともいえる。
戦争初期に連合軍戦闘機を震え上がらせた零戦などは、その好例である。
この世界でにおいても同じ轍を踏ませる訳にはいかない。
量産に適し、品質管理も整った体制を黎明期から確立する事が大切だ。
エンジンの様な精密工業製品をきちんと生産する事は、他の分野においても確実に成果となって帰って来る。
二宮を通じてスポンサーである陸軍に、エンジン生産部門の併設してもらう必要があると、
『あそ』では考えられていた。
「しかし、エンジンの必要性について我々がいくら熱心に説いたところで、陸軍さんに解りますかね?」
片山が島田に指摘する。『あそ』の機関長である彼はエンジン関係の監修も受持っていた。
「そうだな。難しいかもしれないな」
島田も渋い顔になる。自分たちの正体について明かせば、割とすんなり納得させる事が出来るかもしれないが、
やはり海上自衛隊に身を置く立場なれば、出来れば陸軍よりも大先輩である海軍に加担したかった。
それに、陸軍は下手に知識を与えると、すぐに矛先を中国大陸に向けそうな懸念もある。
島田はしばらく黙って考えていたが、やがて呟く様に口を開く。
「戦車を開発する為なんてどうかな?」
「戦車ですか?」
島田の口から出た意外な言葉に片山は驚く。
「ああ、戦車だ。装甲を施した車両でも結構だが。
この方が飛行機よりもイメージが掴みやすいんじゃないか? 直接戦闘に関与する物だし。
戦車にも使える強力なエンジンを開発する為だと言えば、納得し易いのではないだろうか?
もちろん航空機用エンジンと車載用エンジンは全くの別物だが、この点はいくらでも誤魔化しが効く」
「なるほど。それは一理ありますね」
島田の考えに最初は面食らった片山だが、言われてみればそうだ。
「しかし、装甲の度合にもよりますが、重量車両を動かすには、かなりの大馬力が必要になるでしょう」
「何も直ぐにではなくても良いんだ。少しづつ技術力をアップしていけば良いのだから。
最終的に戦車になるって事で、形のある目標を掲げた方が具体化し易いだろう」
「そうですな。それにしても日露戦争も未だというのに、飛行機に続いて戦車までもとは・・・」
片山は苦笑いした。
史実において、飛行機も戦車も、兵器として登場するのは第一次世界大戦からだ。
その後、検討を重ねた結果、飛行機はブレリオXI型、戦車はルノーFT型を当座の目標と掲げ、
本体およびそれに見合ったエンジンの開発する事にした。
いずれも黎明期において最も成功したと評される物だ。
史実においてブレリオXI型のデビューは1909年。同年7月25日にドーバー海峡横断飛行に成功した。
一方のルノーFT型は第一次世界大戦中の1917年だ。
目標として掲げるには低すぎると思われるだろうが、それらの兵器を製造し、運用するのは、
あくまでもこの世界の日本人である。それには、その兵器について理解してないといけない。
そして、いざ戦争が勃発すれば、それらが大量に消費される事になるのだ。
その兵器が傷付けば修理・整備し、全く失われれば生産・補充し、再び戦地へと赴かせねばならない。
理解不可能な天下無双のチート兵器が一台あれば、全てが片付く問題ではないのだ。
現時点の技術・生産力では、ジェット戦闘機に120mm砲搭載の現代戦車どころか、
零戦にT-34戦車でも荷が勝ちすぎるくらいである。
「どちらもフランス製ですな」
「偶然とはいえ、そうなってしまったよ」
片山に言われ、島田も苦笑いする。
「フランスは良い物を作る反面、とんでもない物も平気で作りますからな。その落差が激しい。
そして売れるとなれば、とことん売りまくる。
ミラージュ戦闘機に高速鉄道TGV、原子力発電と、その商魂たるやユダヤ人顔負けだ」
「たしかにそうだが、これらはあくまでも日本製だ。
模倣した方が本家を先取りする格好となるが、この世界では本家はまだ影も形も無い。
堂々とオリジナルを主張出来るという訳だ。
元の世界では、何の根拠も無いのに、やたらと起源を主張したがるバカな国もあったけどな」
「そのバカな国をバカなままにさせない為に、我々はこの世界に来たのでしょうが」
「ああ、それも理由の一つだ」
温厚な島田も、かの国の事になると手厳しい。
こうして、エンジンについても陸軍をゴリ押しして、開発・生産へとこぎつけた。
当初は、援助された資金を元にアメリカあたりからサンプルとなるエンジンと工作機械を輸入して、
少しづつ設備を整えていく事になるだろう。
そして、生産が軌道に乗ったら、一部は民需用に振向けても良い。
史実では日本最古の自動車メーカー「ダイハツ」の創業が1907年である。
ところで、社長である二宮をそっちのけで、『あそ』のメンバーだけで事を進めても良いのかと
思われるかもしれないが、二宮自身は意外な程に寛大だった。
彼は史実において飛行機製作は断念するものの、大日本製薬においては支社長になるまで昇進し、
後には製塩会社『マルニ』を興したりと、元々商才にも長けていた面もある。
玉虫型飛行器が無事飛行に成功し、古巣であった陸軍に認められるという当初の目標を達成した事で、
安心したのか、後継機種の設計にもほとんど口を出さなかった。
あるいは、島田以下『あそ』のメンバーが只ならぬ存在である事を、うすうす感付いたのかもしれない。
いずれにしても、島田たちが事を運ばすには都合が良かった。
飛行機、更には戦車もと、生産準備が着々と進む中、既存の玉虫型飛行器を使って、
羽田以外の日本各地でも展示飛行会が催されていた。
これは陸軍が、軍事費捻出の重税に苦しむ国民に対し、宣伝活動の一環として行っているものだ。
『あそ』のメンバーにしてみれば、あまり大っぴらに行ってほしくないのだが、仕方ない。
二宮がやはり愛媛県出身であり、飛行のヒントを得た場所が隣の香川県内の樅ノ木峠であった事から、
ここ松山でも、その飛行会が催される事となった。
この日、理恵や俳句の弟子達に手伝ってもらい、縁側に出た子規の頭上を、玉虫型飛行器が
軽快なエンジン音を響かせながら横切っていく。
奇しくも島田は、子規に「飛行機を見せる」という約束を果たしたのだ。
兄の傍らにいた律は、飛び去って行く飛行機を目で追いながら、あの日の事を思い出していた。
秋山と共にヘリコプターなる物に乗せられて『あそ』に乗艦した事を。
その事は誰にも話してない。兄にも母にも。
「淳さんは、どうするつもりだろ?」
ふと、幼馴染の顔を思い浮かべながら彼女は呟いた。
天皇陛下以下、直系の皇族様を弄るのは抵抗がありますので、名前を少々変更しました。