第2話 初飛行
島田たちが東京で二宮と交渉を重ね、『あそ』では機体の製作が急ピッチで行われている頃、
子規の住む松山でも変化が起こっていた。
「律さんはホントにブラコンなんですね」
千香は半ば呆れた様に言う。
「ブラコンて何ですか?」
正岡律は不思議そうに訊く。
「え、あ、それは・・・」
無闇に外来語なんか口にしたりしたら、私たちの正体がバレてしまうかも。
千香は自分で言っておきながら戸惑っていると、
「律さんは、お兄さん想いだと言っているのよ」
露本理恵が、ふふっと笑って、千香の代わりに穏やかに答えてくれる。
長くまっすぐな黒髪がはらりと揺れて、何とも艶っぽい。
彼女は『あそ』の艦内医だ。嘱託だが腕が立ち、二佐待遇を受けている。
美人聡明、その上品な身のこなしから乗員たちのお姉さん役も兼ねており、人気も絶大だ。
事実、千香は実の姉の様に彼女を慕っている。
理恵は島田の指示により結核で寝たきりの子規を看ているのだ。
最初、現れたのが美人の女医という事で、律や母親の八重は島田の時と同じく、驚き、警戒した。
しかし、理恵の親身になっての看護と、子規の容態に回復の兆しが見えてくるにつれて警戒は解けていき、
今では助手を気取って同行してくる千香も交え、三人は心許せる仲になっていた。
「島田さんたちは『飛行機』を作っているのですよね」
「そうよ。律さんやお兄さんに見せてあげるって約束したのでしょ?」
「はい、楽しみにしてます」
笑顔で答える律を見ていると、理恵と千香は逆にやるせない気持になってしまう。
結核も末期状態に陥った子規を完治させるのは、現代の医学をもってしても不可能だ。
せいぜい症状を軽くするくらいである。
子規が飛行機を見る機会は、この家の上空を飛ぶかしない限り無理だろう。
そして、自分たちは計画遂行の為、この兄妹を利用しているのだ。
これらの想いが彼女たち二人を曇らせていた。
『あそ』では、玉虫型飛行器の製作が順調に進み、完成をみていた。
後部甲板格納庫には艦載機であるヘリやティルトローター機に交じって、二機の玉虫型飛行器が並んでいる。
その姿はひどく華奢に見えた。
玉虫型飛行器は一応複葉機である。しかし、波打つ形状の上翼に対し、大きめの上半角のついた下翼は
半分の大きさしかない。一葉半と呼べる仕様である。
上下翼の間隔は広く、上翼にぶら下がる形で操縦席である椅子が配され、その左右に下翼が伸びている。
操縦席の下には離着陸用の車輪が、大きめの前輪一つと小さな後輪二つの三輪式で付いている。
尾翼は無く、上翼の中央から鋭角状に前後に伸び、後部の先には大きい四枚のプロペラがある。
このプロペラは、操縦席後ろに積まれたエンジンからチェーンで上翼まで導き、そこから伸ばされたシャフトで
駆動する様になっていた。
現代観点だと、ハングライダーにエンジンを付けた超軽量動力機といった類の機体にも、何かしら似ている。
「いよいよ完成したな」
機関長の片山兵吾三佐が、感激深げに呟く。
彼は『あそ』乗員中では最年長(とはいっても45歳だが)で、長老格である。
そして、ミリタリー全般の造詣が深く、生き字引の様な人物だった。
「どうにか」
製作主任となった小林一尉も頷く。
「後部のプロペラは大き過ぎるんじゃないか? それに二枚の方が効率が良いだろ?」
片山が指摘する。
「たしかに言われる通り、大きな四翔ペラは重量が嵩みますし、効率も悪いです。
けれども設計者の意向を無闇に変える訳にはいきませんから」
小林は苦笑いしながら答える。
片山と小林が論ずるまでもなく、現在の技術の眼で覗けば、玉虫型飛行器は稚拙なところが多々あった。
しかし、それらを勝手に改修して、設計者の二宮の機嫌を損なわす訳にはいかない。
あくまでも二宮を主役に立てて、未来から来た自分たちは黒子に徹する必要があった。
「パイロットは誰が担当するんだ?」
片山が再び訊く。
「私が操縦する予定です」
小林が答える。
「ほう、すると君はクルト・タンク、いや、日本人なら鶴野正敬大尉といったところか!」
片山が得意のミリタリー知識を披露して大笑いする。
彼が挙げた二人はいずれもエンジニア兼パイロットという役割の人物だった。
タンクは独フォッケウルフ社の主任技師であり、鶴野は特異な形の戦闘機「震電」を開発した。
完成した玉虫型飛行器を載せた『あそ』は、瀬戸内を離れ、東京へと向う。
一方、千香も律と共に列車で東京へ向っていた。
片時も兄の傍を離れたくなかった律だったが、理恵が残って子規の面倒を看るという事で承諾したのだ。
それに、正岡兄妹共通の幼馴染であり、律にとっては淡い恋心も抱いた海軍士官・秋山真之が
丁度アメリカでの駐在武官の任を終えて戻ってきており、この初飛行披露式に来てくれる事になったも、
東京行きを決めた理由である。
又、子規の紹介で、かって記者として勤めていた日本新聞社が取材に応じる段取となっていた。
二宮の関係でも、以前、上申を無下に却下した長岡外史と大島義昌の二人が視察に訪れる予定だ。
二人は「人が乗れる物が出来たら呼んでくれ」と、冗談半分に約束していたのだ。
まさか二宮が本当に作るとは思っておらず、軽い気持からだった。 だから今更断る訳にはいかなくなった。
『あそ』から密かに陸揚げされた二機の玉虫型飛行器は、一度分解されて羽田に運ばれる。
やがては飛行場が開設され、戦後は首都東京の空の玄関口となる羽田も、開けた空間があるだけの
ただの漁師町にすぎなかった。
片山や小林ほか『あそ』のスタッフと、島田や設計者の二宮がこの地で合流する。
再度組み立てられ、形を成した玉虫型飛行器を、二宮は興味深そうに眺める。
「こんな物、私が設計したものではない!」と言われないか、内心穏やかでない『あそ』のメンバーだったが、
二宮が満足そうに頷くのを見て、安堵するのだった。
翌1月15日。古正月に当たるこの日が歴史的な日となる。
集まった面々は二宮と『あそ』の乗員、それに松山から駆けつけた千香と律、軍関係では秋山と陸軍の
幹部二人とその従兵たち。新聞「日本」の記者もいる。
他には騒ぎを知って興味本位に集まってきた一般民衆たちだ。総勢50名程。
「歴史的な日にしては人数が少なめかもな」
島田が自虐気味に呟くと、片山がフォローを入れる。
「なに、ライト兄弟の初飛行の時なんて、兄弟の他には5人だけだったというぞ。
それでもちゃんと証拠写真を残しているあたりが、彼らの抜け目無いところだ」
そう言われて島田は、新聞「日本」の記者に目を向ける。ちゃんと歴史的瞬間を撮ってくれよと。
もちろん彼が失敗した時の場合にと、密かにデジタルカメラとビデオを用意しているのだが。
ゴーグルを着用した小林が操縦席に座る。
エンジンを起動させると、後部のプロペラが最初はゆっくり、やがて徐々に回転を上げていく。
「しっかり頼んだぞ!」
島田が駆け寄り、彼を激励する。
飛行に失敗すれば、二宮だけでなく『あそ』のメンバーも計画遂行が暗礁に乗り上げてしまう。
正に正念場であった。
しかし小林は、そんな不安を振り払うかの様に、しっかり親指を立てて笑ってみせる。
「大丈夫。まかせて下さい」と言うかの様に。
更にエンジンの回転が上がると、機体はゆっくり前へ進み出す。
そのまま整地した道を走り出し、20m程進んだところで、機体はふわりと浮き上がった。
見守る人々は一斉に歓声を上げる。初飛行の瞬間である。
そして、歓声に後押しされるかの様に、ゆっくり高度を上げていく。
地上は既にお祭騒ぎである。二宮の目尻には感激の涙が光り、秋山と二人の陸軍幹部は、
何か不思議な物でも見たかの様に唖然とした顔をし、千香と律は手を取り合って喜んでいる。
そんな中で島田は冷静に機体の行方を見守っている。無事に地上に戻って来るまでが飛行なのだから。
やがて一定の高度に達すると、小林は機体を傾け、大きく円を描きながら方向をこちらに戻すと、
徐々に高度を下げつつ着陸態勢に入る。
先程までのお祭騒ぎが一時影を潜め、皆が固唾を飲んで見守る中、
二度軽くバウントした機体は、今度はしっかりと接地して皆の前にするする滑走しながら戻ってくる。
プロペラが止まり、機体が止まり、笑顔で小林が機体から出てくる。
途端に歓声が爆発する。万歳万歳の大合唱である。
この日、玉虫型飛行器は、予備機を交えて5回の飛行を無事終了した。
かっての上司に鼻を明かして得意顔の二宮は、早速陸軍からアプローチを受けた。
新聞「日本」の記者は、やはり想像通りというか、驚きのあまりすっかりシャッターを切るのを忘れていた。
そこで、『あそ』の方で撮った写真を渡す事で、何とか体裁を整える事が出来た。
この写真はもちろん、当時の写真技術に合わせてモノクロで、粒子を荒く加工したものだ。
秋山は久しぶりに再会した律と談笑中だった。島田はそこにゆっくり近付いて行き、声を掛ける。
「帝国海軍の秋山真之大尉殿ですね。実は折入ってお話したい事があります。
後ほど御同行いただければ幸いです」
史実において、秋山真之が帰国するのは8月ですが、そこまで待てないので、繰上げさせていただきました。