第8話 去りし者たち・出し者たち
1900年9月。日本から遠く離れた地、アメリカ・オハイオ州デイトン。
「キティホーク行きは中止だ!」
一人の若者がそう叫んで部屋に入って来た。
「いきなりどうしたんだい? 兄さん」
兄ウィルバーの苛立った言い方に、弟のオービルは驚き尋ねる。
「先を越された!」
「何の?」
「だから、初の有人動力飛行をだ!」
意味を解ってくれない弟に、兄は苛立ちを募らせ、声を荒げる。
「えっ!」
その答えにオービルは唖然となり絶句したが、やがて、いくらか落着きを取戻すと訊いてみる。
「それで、僕たちより早く飛行に成功したのは誰なんだい? ラングレー教授かい?」
ラングレー教授というのは、スミソニアン協会の会長であり、軍からの資金供給も受けており、
個人研究の域を出ない兄弟よりも、大々的に組織だった飛行実験を行っていた。
そして、兄弟は教授から教えを扱いたり、飛行データを参考にさせてもらう事も多く、
両者の間柄はライバルであると共に、良き研究仲間でもあったのだ。
「いや、ラングレー教授じゃない」
ウィルバーは素っ気無く言う。
「だったら誰だよ? イギリス人? それともフランス人? あるいはドイツ人?」
「違う。そのいずれでもない」
「いずれでもないって・・・ 他にどこの国があるっていうんだい?」
兄からなかなか答が得られない事に、今度は弟のオービルが苛立つ。
「日本人だ。二宮忠八という男が設計した飛行機が、僕たちより先に空を飛んだ」
「日本人だって! そ、そんな・・・」
兄の口から出た意外な国の意外な者の名前に、オービルは再び絶句する。
「嘘だろ・・・ 日本といったら極東のちっぽけな島国だろ? そんな国の人間が出来る訳ないよ!
そうだ! これはきっと魔法の力で飛んだんだ。
ほら、中国人もそうだけど、東洋人は得体の知れない魔力を持っていると言うじゃないか!」
オービルの言う事はあながち間違ってはいない。
西洋人にとって中国人は不可思議な者で、魔力を持っていると信じられていた時代があったのだ。
「オービル、君の言う様に、僕だって日本人による飛行の事実なんて認めたくないよ。
しかし、この二宮という男が作った飛行機は実際に、自力で滑走して離陸したばかりでなく、
その後は旋回して戻ってきて、無事に着陸するという芸当までやってのけたらしいんだ。
そこまでやられては、僕たちは形無しだ。僕たちだけでなく、ラングレー教授だっておそらく・・・
オービル、僕たちの努力は一体何だったのだろうね・・・」
ウィルバーは深く溜息を吐き、それっきり語ろうとしなかった。
オービルは、その兄の様子を唖然としながら見つめていた。
後日、ラングレー教授から兄弟宛てに手紙が届いた。その文面は兄弟同様、失望に暮れた内容だった。
彼の場合は軍から資金を得ていただけに、その落胆度も大きいものがあったのだ。
兄弟にしても、二宮の初飛行の知らせを受けたのは、自作のグライダーで飛行実験を繰返し、
より高度な飛行実験-動力飛行の実現に向けて、ノースカロライナ州キティホークへと旅立とうとする
矢先の出来事だったのである。
人類初の動力飛行の夢を断たれた兄弟は、生業の自転車屋に戻った。
兄ウィルバー・ライト、弟オービル・ライト。
航空史に偉大な足跡を残したライト兄弟も、この世界においては『阿蘇』の起した歴史の気まぐれから
名を残す事は適わず、歴史の彼方へ消え去ろうとしている。
二人の行った飛行実験は、最初から有人飛行を前提としたものであり、サミエル・ラングレーや
二宮忠八の様に、模型飛行機から徐々にスケールアップする方法に較べ、より具体性に富んだもので
あったのは確かなのだが。
この実績を評価される機会は、残念ながら彼らの存命中に訪れる事は無かった。
同じ頃、日本でも一人の男が、酷く失望した面持で『二宮飛行機製作所』を後にした。
男は外国人だ。それにしては痛々しいほど小柄であったが、その身形は立派なもので、
パナマ帽に縞のスーツという伊達姿、話す言語はフランス語であった。
「誰ですか? あの外国人は」
途中ですれ違った片山が、島田にこの外国人の事を訊く。
「君なら解るだろう。アルベルト・サントス・デュモンだ」
「ほう、それはそれは」
片山が驚くのも無理は無い。
史実においてデュモンは、ヨーロッパ航空界の先駆者と讃えられている男だ。
ブラジルでコーヒー農場経営者の御曹司として生まれた彼は、その父が落馬で身体が不自由になると、
コーヒー農場を売払い、父の故国であるフランスへと帰る。そして、パリで空を飛ぶ魅力にとり憑かれ、
農場売却によって得た豊富な資金を糧にして、次々と新型機を開発していく。
当初は飛行船で、石油精製王アンリ・ドゥーチェ・ド・ラ・ムールトが設けた
「サンクルーを発ち、エッフェル塔を一周して30分以内に戻って来た者に賞金10万フランを進呈する」
という飛行レースに挑戦し、1901年10月19日、6号飛行船でこれを成し遂げる。
その後は飛行機の開発に転じ、1906年10月23日、14bis号機(bisは(’)ダッシュ=副の意)で
飛行距離僅か60mであったが、ヨーロッパ最初の動力飛行に成功する等、数々の偉業を立てているのだ。
「それで、成金野郎の彼は、はるばる日本まで何をしに来たのですか?」
「飛行機を売ってほしい。もしくは開発を手伝ってほしいと言うんだ。
金に糸目はつけない。どうしてもドゥーチェ賞を獲りたいという事もね。
そして、得られた賞金は恵まれない者に寄付するつもりだと、熱く語って聞かせてくれたよ。
それにしても、機関長の言う『成金野郎』は酷いね。何か怨みでもあるのかい?」
史実は先述の通りだ。サンクルー~エッフェル塔間は12km。大柄な飛行船では時間ギリギリだった。
けれども、この世界には既に自在に飛べる飛行機がある。これを使えば容易いと考えたのだろう。
もっとも主催者側でも、この事実が解れば、賞を取消したり規定を変える事もありえたが。
「いや、どうも彼の行いというのは、私は単なる慈善道楽に思えて気に入らないんですよ。
で、売る事にしたのですか?」
「丁重にお断りしたよ。デュモンには悪いが、まだまだ他国に航空技術を渡す訳にはいかない」
「そうですな。私もそれが正解だと思います」
片山も安堵した様に頷く。
「しかし、デュモンが日本を訪れたくらいだ。
我が国が飛行機を作って飛ばしたという事実は、既に各国へと広まりつつあるとみるべきだろう。
ブレリオ機の開発を急がせて、主だった機構には特許を掛け、出鼻を挫く必要がありそうだ」
「たしかに言う通りです。
日本人は気が良すぎる。軍部にも具申して、安易に輸出する事も禁止すべきでしょう」
史実では、二宮忠八がライト兄弟の初飛行の事実を知るのに実に3年を要した。
日本の国自体が航空に対しての関心が低かった事もあるだろうが、この世界での拡散は予想以上に早い。
それだけ初の有人動力飛行に向けて、各国が期せずして鎬を削っていたのだ。
そんな中にあって、全くの穴馬である日本がポンとやってのけた。
今後の各国の出方が大いに興味が持たれる事である。
そして日本も、それをただ傍観していれば良いのではもちろん無い。
チャンピオンがタイトルを防衛するが如く、追う者を突き放し、常に先を見据えなければいけない。
早速、二宮および三菱の設計チームには、新たに二人の者を仲間入りさせた。
一人は奈良原三次。
史実においては、1911年に初の国産機による飛行を成功させたパイロット・エンジニアであり、
4号機となる『鳳号』で名高い。
しかし、1900年当時は城北中学校を卒業後、仕事にも兵役にも就かず安穏とした日々を送っていた。
そんな彼を、島田たちは史実での才能を見込んでスカウトしたのだ。いわば青田買いである。
もう一人は山田猪三郎。
こちらは日本の飛行船の父とも呼ばれる男で、ゴム製品の知識を得た後、救命具の製造・販売を行い
やがて、その技術を生かして気球を製造し、彼の作った気球は日露戦争でも観測に使用された。
そして、気球に動力を着けた飛行船へと発展させる事となる。
二人の技術者を得て、日本航空界も足固めに入る。
特許云々というのは、にしなさとる様のコメントを参考にさせていただきました。
にしな様、お待たせしました。やっとライト兄弟登場ですw
2011/10/21 そのにしな様からの指摘で、奈良原の「城北中学校を卒業したばかりの~」を訂正。