第10話 職人長の決死の挑みと、和菓子オタクの覚醒
王宮の深奥、黄金の装飾が施された謁見の間には、重苦しい沈黙が流れていた。
玉座には、威厳に満ちた国王アルベルトと、慈愛に満ちた眼差しの中に鋭い知性を秘めた王妃エレオノーラが鎮座している。
その前で、洋菓子職人長ピエールが額を床に擦り付けていた。
「国王陛下、どうか……どうか不肖ピエールに、汚名返上の機会を!あのような素性も知れぬ小娘に、王宮の菓子の全権を握らせるなど、建国以来の恥辱にございます!」
ピエールの必死の訴えを、傍らに立つミハエルが氷のような視線で切り捨てた。
「ピエール。しつこいぞ。ミアの菓子が我ら三人の疲れを癒し、国政に寄与しているのは事実だ。お前の菓子は、もはや我らの口には重すぎる」
「兄上の言う通りだ。脂ぎったクリームの塊なんて、見ただけで胸が焼けるんだよ」
カイルが退屈そうに耳を掻き、シャルロッテも扇子で口元を隠しながら冷ややかに付け加える。
「わたくしも同意見ですわ。ピエール、あなたの菓子には『驚き』が足りないの。ミアの菓子にあるような、魂を揺さぶる繊細さがね」
三兄妹からの容赦ない言葉に、ピエールの顔が屈辱で赤黒く歪む。
「……ならば!ならば勝負を!次回の建国記念祭で出す菓子を賭け、御前試合を執り行っていただきたい!テーマは王宮の伝統たる『乳製品』。生クリームとバターの扱いで、どちらが真の職人か白黒つけようではありませんか!」
「乳製品、か……」
アルベルト国王が重厚な声で呟いた。
「面白い。ミハエルたちがそれほどまでに愛でる娘の技、余もこの目で確かめてみたくなった。エレオノーラ、お前はどう思う?」
王妃は優雅に微笑み、三兄妹の背後で小さくなっている少女に視線を向けた。
「そうね。あの娘が、ミハエルの瞳をあれほど熱くさせている理由を知りたいわ。……ミア、と言ったかしら。こちらへおいで」
「ひ、ひゃいっ!」
名前を呼ばれたミアは、情けない声を上げて飛び上がった。
彼女は今、極度の緊張の中にいた。
男爵家で虐げられていた記憶が、権力者の前に出るとどうしても顔を出してしまう。
震える足で王妃の前まで進み、消え入りそうな声で頭を下げる。
「も、申し訳ございません……。私のような地味なメイドが、このような場所に……」
「安心しなさい。ピエールが提案した『乳製品』というテーマ、あなたに受ける気概はあるかしら?もし自信がないのなら、今すぐここから去ってもらっても構わないのだけれど」
王妃の試すような言葉に、ピエールが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
だが。「乳製品」という単語が耳に入った瞬間、ミアの細い肩がピクリと跳ねた。
「……乳、製品?」
「そうだ。生クリームにバター、そしてミルク!お前のような豆しか扱えぬ田舎者に、これら高貴な食材の真髄が分かるはずもない!」
ピエールの罵倒など、今のミアには届いていなかった。
彼女の脳内では今、猛烈な勢いで「お菓子の方程式」が組み立てられていた。
「乳脂肪分の含有率……ホイップによる空気の含有量……。それに、あんこの糖度による浸透圧の相関関係……!」
ミアの呟きが、静かな謁見の間に響く。
彼女が顔を上げた時、そこには先ほどまでのオドオドとしたメイドはどこにもいなかった。
瞳には職人としての、あるいはマニアとしての、恐ろしいほどの情熱が宿っている。
「面白いです!生クリームの脂肪球が舌の上で溶ける瞬間に、粒あんの繊維感がどう絡み合うか……!王妃様、ぜひやらせてください!新鮮な生クリームと、最高級のバターを揃えていただけるなら、私はピエールさんにだって負けません!」
ミアは一歩前に出ると、王族を相手にしていることも忘れ、拳を握りしめて力説し始めた。
「乳製品の動物性脂質は、植物性の小豆と合わせることで、互いの欠点を補い合い、旨味を爆発的に増幅させるんです!これこそが至高の共鳴、味の革命なんです!」
「……は?」
ピエールが口を呆然と開けた。
ミハエルは思わず口元を片手で覆い、カイルは「おい、スイッチが入ったぞ」と苦笑し、シャルロッテは「素敵……!」と頬を染める。
「ふふ、面白い子」
王妃エレオノーラが、鈴を転がすような声で笑った。
「決まりね。建国記念祭のメインデザートを賭けた御前試合、開催します。ピエール、そしてミア。期待しているわよ」
「……は、ははっ!」
「あ、ありがとうございます!あの、生クリームは分離寸前まで冷やしたものを用意できますか!?あと、バターは発酵したものと無塩のもの、両方を試したくて……!」
国王の前で食材の注文をまくしたて始めたミアを、ミハエルが慌てて羽交い締めにして引きずるように退出させる。
それは、王宮全体を巻き込む、最も甘くて熱い戦いの幕開けだった。




