第二話_慈眼の五入道
少年との一件を終えた翌日。
「ねぇ清君、今日は嵐山の方まで足を伸ばしてみない?渡月橋からの眺めが絶景だって、宿の女中さんが言ってたわ。」
軽やかに歩きながら笑顔で振り返る凛に、その数歩後ろを歩く清十郎が穏やかな笑みを浮かべる
二人は桂川のせせらぎを聞きながら、色づく山々を愛で、湯豆腐の湯気に顔をほころばせる。
端から見れば、それは毒気のない、どこまでも平和な旅の風景だった。
だが、その平穏はある一点を境に急速に温度を失う。
渡月橋の賑わいから少し外れた、竹林の入り口付近。
凛の足が、不自然なほど静かに止まった。
「ねぇ、清君…。」
凛の声から、観光を楽しんでいた熱がふっと消えた。
清十郎の視線が、彼女の向けた一点に吸い寄せられる。
そこには、華やかな紅葉の景色にはあまりに不釣り合いな、ボロを纏った町人たちがいた。
彼らは痩せこけた体で、破れた着物から覗く肌は土色に汚れている。
明らかにその日の食事にも事欠く困窮者たちだ。
だが、彼らは震える手で、なけなしの金銭を古びた社の前に並べられた賽銭箱へと恭しく捧げていた。
そして、その誰もが、吸い込まれるような奇妙な笑みを浮かべている。
「…ありがとうございます。これで、救われる…。」
一人の老婆が、血の気の失せた顔で笑いながら地面に額を擦り付けている。
感謝する対象などどこにも見当たらないその場所で、彼らは恍惚とした表情を浮かべ、自らの命を削るような喜捨を繰り返す。
社の傍らには、粗末な袈裟をまとった痩せぎすの僧侶が一人、その光景を無感情に座して眺めていた。
やがて町人たちが力なく去っていくと、僧侶はゆっくりと立ち上がる。
そして賽銭箱の中の銭を、まるで塵でも扱うかのように無造作に掻き集め、懐へと放り込んだ。
「あんなにも貧しいのに…なぜあんなふうに笑えるのかしら?」
凛が、冷ややかな声で呟く。
その瞳には、かつて江戸で見た「中毒者」と同じ、底の抜けたような空虚な光が映っていた。
この都を覆っているのは雅やかな美しさではない。
人々の心を内側から腐らせ、家畜に変える「毒」だ。
二人は軽く顔を見合わせると、言葉を交わすまでもなくその僧侶の背中を追った。
僧侶は人目を避けるように路地裏の影へと消え、竹林の奥深く、高い塀に囲まれた邸宅の門をくぐる。
―――喜眼寺。
そこにはそう記された看板が掲げられている。
◆◆◆
『慈眼の五入道』
京を蝕む五つの地獄。
自らを無天皇と称する首領「油麻呂」を中心とした五人の入道法師からなる元始末屋。
人の感情をキーワードに人々の心を巧みに操り全てを搾取する。
始末屋だった頃の基盤もあり、上層部の幹部信者に手練れも多い。
四人の入道法師はそれぞれ拠点(寺院)を持っており、日々強引な手段で信者を増やしている。
油麻呂の動向が激化したことを受け、幕府らその偵察として伊多田鬼屋を秘密裏に派遣したのだった。
―――【喜】喜眼寺
狂乱の薬害。
「笑えば救われる」と説き、信者に特殊な薬草を混ぜた「喜楽香」を焚かせ、常に軽度のトランス状態に置く。
信者たちは、親が死んでも家を焼かれても、ヘラヘラと笑いながら踊り続ける廃人となる。
その恍惚とした表情のまま、なけなしの財産をすべて「お布施」として喜眼法師に献上させ、最終的には「笑いながら死ぬ」ことが最高の功徳だと教えて命まで奪う。
―――【怒】怒眼寺
憎悪の暴力装置。
貧困や差別に対する不満を煽り、「その怒りこそが力だ」と説いて町人を過激化させる。
寺の中に私兵集団を組織し、対立する商店や気に入らない役人を「仏敵」と称して襲撃させる。
信者の怒りをコントロールし、油麻呂にとって邪魔な勢力を排除するための「暴徒」として使い捨てる。
―――【哀】哀眼寺
絶望の債務地獄。
病気や不幸に見舞われた者に近づき、「お前の罪を肩代わりしてやる」と称して高利貸しを行う。
返済ができなくなると「哀しみの修行」と称して、娘を女衒に売り、息子を五入道の工作員として徴用する。
信者が絶望して泣き叫ぶほど「魂が浄化される」と説き、一家離散に追い込んでその土地や家屋を組織のものにする。
―――【楽】楽眼寺
淫靡なる腐敗。
「現世の快楽こそが極楽」と説き、京の貴族や豪商を招いては酒池肉林の宴を催す。
宴の中で薬物や男色、禁じられた遊びを提供し、その弱みを握ることで有力者たちを組織の傀儡にする。
表向きは権力者、裏では楽眼法師に頭の上がらない協力者へと変え、京の市政を内部から腐らせている。
―――【無】総本山・無眼寺
沈黙の首領。
五入道を統べる油麻呂が鎮座する、一切の感情を排した冷徹な中枢。
上記の四寺から集まった莫大な資金と情報はすべてここに集約される。
油麻呂は自らを「無天皇」と称し、人々の感情を弄ぶことで、この国の頂点を塗り替えようと静かに牙を研いでいる。
◇◇◇
京の北、常に霧が立ち込める「無眼寺」の奥の院。
そこは、日の光さえも拒絶するような静寂が支配していた。
高座に座す男―――油麻呂は、手元の鏡に映る己の顔を、愛おしそうに指でなぞった。
その顔は、御所の帳の奥に座す「天皇」と、鏡合わせのように瓜二つであった。
「…見えるか?この気品、この眼差し。私と奴の間に、何の差があるというのだ!」
油麻呂の低く、陶酔しきった声が闇に響く。
彼の足元には、京の都を精巧に再現した巨大なジオラマが広がり、その各所には五つの寺院を示す駒が置かれていた。
「喜、楽、哀、怒……。民草は愚かだ。感情という名の鎖に繋がれ、寺に銭を運び救いを乞う。だが、私が彼らに与えるのは救済ではない。『無』だ。」
油麻呂は、ジオラマの中心―――御所の位置にある駒を、乱暴に握りつぶした。
「感情を使い果たした民は、やがて何も感じぬ抜け殻となる。そこへ、私が本物に成り代わって降臨するのだ。帝は、民の痛みもこの街の臭いも知らぬ。だが私は、この京の闇をすべて飲み込んできた。」
彼は立ち上がり、大きく両腕を広げた。
その背後には、異形の僧侶たちが影のように跪いている。
「慈眼の五入道は、私の手足に過ぎぬ。喜ばせ、楽しませ、悲しませ、怒らせ…最後にすべてを吸い尽くした後に残る、完璧な『無』。その静寂こそが、私の治める新しい日本の姿よ!」
油麻呂は、鏡の中の自分に向かって、不気味なほど優雅に微笑んだ。
「私は死なぬ。私は消えぬ。私は、この国の概念そのものとなるのだから!!」
暗闇の中で、油麻呂の笑い声だけが響き渡っていた。
◆◆◆
「…なるほど。喜怒哀楽、そして無。ここが『慈眼の五入道』の本拠の一つ、というわけですね。」
清十郎の口元に、いつもの穏やかな笑みが浮かんだ。
だが、その瞳の奥には、すでに獲物を定めた捕食者の冷たい輝きが宿っている。
「私、ああいう『汚い笑い方』大嫌いなの。」
凛が、優雅に扇子を広げ自らの口元を隠した。
その奥で、彼女の瞳が獲物を狩る女狐のように妖しく光る。
「…奉行所からの命令は『偵察』だったわよね?」
「ええ。ですが、凛さんの『感性』も、時には最優先事項ですよ。不快なものは早く排除するに限ります。」
清十郎は微笑んだ。
京の街に、伊多田鬼屋の狩りが始まる。




