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第一話_古都の徒花

箱根の山を越え、幾日もの街道を歩いた二人の目に、古都・京の街並みが飛び込んできた。

朱色の鳥居が連なる伏見稲荷の千本鳥居をくぐり抜けた先に広がるのは、江戸の喧騒とは異なる、雅やかな美しさだった。


「わぁ…見て清君、紅葉が真っ盛りよ!綺麗だわ…。」


凛が目を輝かせ、まるで初めて見る景色のように歓声を上げた。

京はちょうど紅葉の季節。

山々は錦に染まり、風流な寺社の庭園は息をのむほどに色鮮やかだ。

江戸から来た裕福な商家の子女とその従者、という体で京に潜入した二人。

その美男美女の組み合わせは、どこへ行っても人々の目を引いた。


「おや!奥さん、旦那さん、旅の疲れは出とらんかね?よかったら、この八ツ橋でも召し上がってくだされ。」


八ツ橋屋の店先では、人の好さそうな主人が凛の美しさに目を奪われ、山盛りの試食を差し出す。

清十郎が懐から銭を出そうとすると、「とんでもない! お二人さんのようにお似合いの客人に、福が来ないわけがない。ご縁だと思って受け取っておくれ」と、遠慮なくサービスしてくれた。


「私ったら、旅先だとどうも気が緩んじゃうみたい♪」


凛は八ツ橋を頬張りながら、清十郎に悪戯っぽい視線を送る。

清十郎もまた、そんな凛の様子を穏やかな微笑みで見守った。

まるで絵に描いたような仲睦まじい旅人カップル。

その様子は、京の人々には微笑ましく映る。

八ツ橋を片手に、清水寺の舞台から京の街を一望する。

錦に染まる山々、そしてその麓に広がる歴史の街。

どこを見ても絵になる光景のはずだった。


だが、凛の笑みが、ふと影に溶けるように消えた。

清水の舞台から少し離れた、陽の当たらない路地裏。

煌びやかな表通りとは対照的な、湿った闇が淀む場所で、一人の少年が必死に叫んでいた。


「返せよ!母ちゃんを返せ!連れてったのはあんた達だろ!」


泥に汚れた七つか八つの少年が、買い出しの荷物を抱えた下品な風体の男に掴みかかっていた。

男は疎ましそうに舌打ちをする。


「うるせぇガキだ。あの女は自分の意志で『極楽』へ行ったんだよ。邪魔だ、どきやがれ!」


男が太い腕を振り上げ、少年を殴り飛ばそうとした瞬間。

その腕が、鉄の万力にでも挟まれたかのように空中で止まった。


「っ!?なんだてめぇは!」


いつの間にか少年の背後に立っていた清十郎が、男の手首を無造作に掴んでいた。

相変わらず穏やかな笑みが浮かんでいるが、掴んだ指先からは、骨が軋むほどのみしりという音が響く。


「…あがっ、がぁあああ!」


「公共の場で騒ぎ立てるのは感心しませんね。この子が言う『母ちゃん』は、どこにいるんですか?」


「し、知るかよ!放せ、折れるっ!」


清十郎がさらに指を締め上げると、男は脂汗を流しながら絶叫した。


「わ、わかった!奥の竹林にある竹生堂だ!あそこに連れてったんだよ!」


手を放すと、男は転がるようにして逃げ出した。

「覚えてやがれ! 後悔させてやるからな!」と負け惜しみを叫びながら、路地の奥へと消えていく。


「さっそく…仕事の気配ですね、凛さん。」


清十郎が耳元で小さく呟く。

凛は泥だらけの少年の下へ近づき膝を折った。


「ねぇ、話してくれる?」


優しく問いかける凛。

少年はビクリと肩を揺らし、消え入りそうな声で答えた。


「母ちゃんが…ずっと帰ってこないんだ。」


一部始終を聞いた凛は立ち上がると、清十郎に視線をやる。


「清君、ちょっとだけ寄り道をしましょうか。」


◇◇◇


竹生堂。

その入り口には、先ほどの男が待ち構えていた。

凛、清十郎、そして少年の三人を見つけると、仲間の男数人を引き連れ、鼻の穴を膨らませて下卑た笑いを浮かべる。


「ひひっ、のこのこと来やがったな!さっきの礼をしてやるよ。その女も一緒に極楽へ、」


男が掴みかかろうとした瞬間、清十郎の体が影のように滑った。

抜刀の音すらない。

男は言葉の途中で動きを止め、自分の喉元を押さえた。

指の間から、止めどなく鮮血が溢れ出す。


「さきほどは街中でしたからね。…ここでは遠慮する必要もありません。」


死神のような涼やかな声。

男は絶望に目を見開いたまま、崩れ落ちて物言わぬ肉の塊となった。

残りの男たちも、自らの死を理解する暇さえ与えられず、一斉に石床へと沈んでいった。


◇◇◇


お堂の、仄暗い一室。

そこは、吐き気を催すような伽羅の香りと退廃した空気が混じり合う、獣の檻のような場所だった。


「母ちゃん!帰ろう、ねぇ!」


少年が駆け寄った先では、母親が数人の男たちに囲まれ、その膝の上で卑屈な笑みを浮かべていた。

男たちは下卑た笑い声を上げ、脂ぎった指で女の髪を弄んでいる。


「…あぁ、うるさいわね!今いいところなのよ!このお寺にいれば、私はずっと幸せでいられるの!!」


我が子を冷たく突き放す母親。

その瞳は完全に濁り、人間としての魂はとうに「楽」の毒に溶けて消えていた。

予想外の拒絶に、少年は声も上げられず目を見開いたまま震える涙を湛えた。


「あん?なにもんだぁ?」


男たちの一人が、少年以外の来訪者に気づき、凛と清十郎を見やる。

その下卑た顔が、獲物を見つけた飢えた獣のように歪んだ。


「うへへ、こいつぁ上玉じゃあねぇか。さぁ、突っ立ってないで我らと共に、」


言い終える前に、男の首が石床を転がった。


「おしゃべりが過ぎますね。少し静かにしてください。」


死神のような涼やかな声と共に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。

次の刹那、女を囲んでいた他の男たちの喉元から、一斉に鮮血が噴き出す。

清十郎の抜刀と納刀は、男たちが自らの死を理解する暇さえ与えなかった。

ドサリ、と重苦しい音を立てて崩れ落ちる男たちの骸。


「ひっ、あああ…っ!!」


清十郎は、失禁して震え上がる女を一瞥すると、いつも通りの爽やかな笑顔を向けた。


「安心してください。僕は女性を殺さない主義ですので。」


そう言って彼は女の前から静かに下がり、壁に背を預けて目を伏せる。

代わりに一歩前へ出たのは、燃えるような紅葉よりも鮮やかな美女――凛だった。

恐怖で顔を歪めていた母親だったが、目の前に立った凛の、あまりにも完璧な美しさを目にした瞬間、その瞳に「嫉妬」という名の醜い炎が宿った。


「なによその顔…。あんたみたいな綺麗な女に、私の何がわかるっていうのよ!泥水をすすって生きてきた私を笑いに来たの!?」


罵声を浴びせる女を無視し、凛は立ち尽くす少年の肩にそっと手を置いた。


「ねぇ坊や。この人、あんたの知ってる人?」


少年の唇が小刻みに震える。

彼は目の前の「モノ」を凝視し、やがて絞り出すように答えた。


「…かあちゃんじゃない。知らない…人。」


か細い少年の声は、女の醜い罵声にかき消された。

だが、凛はその言葉を聞いて、満足げに小さく笑みを浮かべた。

そして懐から、薄氷のような細い小刀を抜き放つ。


「その顔。私が一番嫌いな『醜さ』をしてる。」


予備動作の一つもなく、凛の体が女の懐へと滑り込む。

そして、その細い首筋に冷たい刃を添える。

迷いも、慈悲もなかった。

罵声を上げた醜い顔のまま、女は物言わぬ肉の塊へと変わり、その絶叫は永遠に封じられた。


◇◇◇


静まり返った部屋。

少年は目の前に横たわる『母親だったモノ』を、ただ無言で見つめていた。

悲しみも憎しみも、すべてを通り越した「虚無」がそこにはあった。


何事もなかったかのように着物の袖を整える凛が、少年の前に膝をつく。

そして、突き放すような、けれど確かな温もりを込めた声で告げた。


「よく耐えたね。」


その言葉が、少年の心の堤防を崩した。

少年の瞳から滝のような涙が溢れ出し、お堂の静寂を切り裂くような慟哭が響き渡った。


◇◇◇


少し落ち着きを取り戻した少年に、凛は重みのある財布を無造作に押し付ける。


「好きに使いなさい。一人で生きていくには、涙よりもお金の方が役に立つわ。」


何かを言いたげな少年の唇を、凛は人差し指でそっと塞いだ。


「もう会うことはないと思うけど、必死で生きてみることね。あとは…アナタ次第よ。」


それは子供への慰めではない。

過酷な現実を生き抜く「一人の男」へ贈る、彼女なりの敬意だった。


少年が呆然とする中、凛は一度も振り返ることなくお堂を後にする。

壁にもたれていた清十郎がゆっくりと目を開け、何も語らずその背を追った。


◇◇◇


「凛さん。財布ごと渡すなんて、意外と太っ腹ですね。」


「…勘違いしないで。ただ、荷物が重いのが嫌だっただけよ。」


凛は不機嫌そうに扇子を広げた。

お堂の外には、先ほどの凄惨な光景が嘘のような、美しき古都の風景が広がっている。


京の始末屋『慈眼じがん五入道ごにゅうどう』が暗躍する、雅やかさの裏に毒を孕んだ都。

二人の姿は、やがて燃えるような紅葉の闇へと溶け、跡形もなく消え去った。


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