第九章 疑心暗鬼
先生とおれの関係はそんなぐあいに進行した。
先生にストーカーをする前おれは先生と身体を重ねると先生と溶けあった気がした。先生とひとつの生き物になったようだった。
先生は終わるとかならずはにかんだ顔をした。服をひとつ身につけるごとに女教師の顔にもどるらしかった。ドブネズミ色のスーツをピシッと着こんだときは学校で見かける先生になっていた。先生の貌から笑みが消えて氷の能面が貼りついていた。
帰るときの先生は教師の顔を作っておふくろに頭をさげた。おふくろは苦笑いをして先生の背中を見送った。
おれは玄関まで先生のあとにつづいた。靴をはく先生がおれに顔だけふり向けた。
「玄関から出ないでください」
「どうして?」
「答えたくありません。でも出ないでください。おねがいです」
おれは玄関の戸をあけたまま先生の背中が見えなくなるまで目で追いつづけた。先生は一度もふり返らず町角に消えるのが常だった。おれだけが未練げに先生の残影を捜していた。
先生が帰るとおれはからっぽになった。がっくりと肩を落として二階への階段を登った。おふくろはそんなおれを横目でちらっとだけ見た。おふくろはなにも言わなかった。おれも無言で自室にもどった。
先生はおれに身をまかせるときいつも香水をつけた。最初の夜につけた薔薇の香水だ。おれは先生自身の匂いを嗅げなかった。先生はおれがどんなにたのんでも香水をつけるのをやめなかった。先生が帰ったおれの部屋にはその香水の匂いだけが残った。
おれにはおふくろほどの嗅覚がない。先生自身の体臭を嗅ぎわけられなかった。市販の香水の匂いとしかわからない。先生が帰ったおれに残されたものは市販の香水の濃い匂いだけだ。先生の匂いはどこにもない。
おれは先生を自分のものにした実感がなかった。先生とは何度も身体を重ねた。だがその体験は夢のようにおれの記憶としてはあいまいだった。あとで思いだそうとしてもあの部分も乳房もおれは憶えてなかった。先生がどんな色の下着だったのかさえ記憶にない。きっとおれは起きながら夢を見ていたのだろう。頭がぽうっとのぼせて無我夢中だったにちがいない。数学の難問を解いているときも同じ現象が起きた。気がつけば時間だけがすぎている。答えは出ていた。なのに途中でどんな計算をしたのか憶えてなかった。ただひたすら没頭していただけだ。熱中しすぎて脳の加速スイッチがはいるのだろう。その間の意識は飛んでいるのが常だ。
先生との時間もそれと同じだった。先生が部屋にはいったときの記憶は鮮明だ。先生とキスをするともういけない。おれは夢中になりすぎて頭がのぼせる。わけがわからないまま時間がすぎる。ちょうどビデオの録画が一時停止になる感じだ。おれが落ち着くのは先生が服を着終えたころだった。服を身につけた先生を見てまたおれの記憶の録画が開始される。
つまりおれは肝心の憶えておきたい部分の記憶が不鮮明だった。先生と身も心もひとつに溶けたという記憶だけがあった。だがあとで楽しむ鮮明な記憶はどこにも残ってなかった。先生が帰るとおれは先生を自分のものにしたとは思えなくなる。夢の中に現われる幻の女と関係をつづけている錯覚をおれは抱いた。
先生が帰ったおれの部屋には市販の香水の匂いしかない。おふくろの鼻なら男女の匂いを嗅ぎ取っただろう。おれの鼻では先生自身の匂いは嗅げなかった。
先生がおれにくれたものは数多くあった。だがおれは先生がよくわからない。先生がなにを考えているのか。先生がなにを欲しがっているのか。おれはそれを知りたかった。そして先生本人がいつもおれの横に欲しい。
おれは泣きそうになりながら数学の教科書を開いた。先生はおれに数学を教えるという名目で来ていた。だが一度も先生はおれの部屋で数学の教科書を開かなかった。先生が開いたのは自分の股だけだ。なんの課外授業にきているのやら。
勉強机のライトを消したおれはベッドに身を投げてクンクンと匂いを嗅ぐ。やはり先生自身の匂いはしない。先生も汗をかいたはずなのにわからなかった。市販の薔薇の匂いがするだけだ。おふくろ並みの嗅覚が欲しい。そう思いながらおれは眠りに吸いこまれた。
それがストーキング前のおれだった。そのすぐあとおれは自室でやきもきするのがたまらなくなった。動いてなければ自分自身がバラバラになりそうだった。いても立ってもいられない衝動がおれを突きあげた。おれが先生をストーキングしたのは先生といつもいっしょにいたかったせいかもしれない。先生をずっと見ていたかった。おれだけの先生でいて欲しかった。