第五章 朝帰り
おれと先生が起きたとき時計は午前十一時を示していた。
先生が時計とおれの顔を見くらべた。先生はいつの間にかショーツとブラジャーを身につけていた。おれはトランクス一枚だった。寝ているあいだに先生がはかせてくれたらしい。
「きょうが日曜日でよかったです」
ふと気がついておれは青くなった。無断外泊をしたのは初めてだ。おふくろが心配してないか気になった。まさか警察に捜索ねがいを出してないだろうな? そこまでしてなくても交通事故にあったとか思ってやしないだろうか?
おれは電源を切ったスマホにスイッチをいれた。おふくろから着信が何件かはいっていた。おれはおふくろに電話をつないだ。ごめんと謝った。おふくろは何も言わなかった。怒っているらしい。
先生が通話を切ったおれの肩をたたいた。
「わたしきょうはこれから用があります。伊沢くんも早く帰ったほうがいいです」
服を着た先生は学校にいるときの先生だった。冷たくて人間ぎらいの貌にもどっていた。先生の服はラフなものさえドブネズミ色だった。
先生がおれを玄関から押し出した。おれは先生に別れのキスをしようとした。先生の手がおれの口に当てられた。
「今朝はだめです。ごめんなさい」
おれの眼前で玄関の戸がしめられた。おれは『なんなんだよぉ?』とぼやきながらエレベーターに足を運んだ。
家に帰るとおふくろがジロッとおれをにらんだ。おふくろの鼻がくんくんとうごめいた。
でもおふくろはなにも言わなかった。おれも無言で二階に登った。親父はまだ中国からもどってなかった。
さっきのそっけない態度の先生と昨夜の情熱的な先生のどちらが本物の先生か? おれは悩みながらシャワーをあびた。
おふくろがバンッとテーブルに音を立てておれの皿を乱暴に置いた。さあ食え。そんな感じだった。
おれは首をすくめながら食べた。煮物は先生の作った肉ジャガと微妙に味のバランスがちがった。
おれは教科書をカバンに詰めながら考えた。おれ本当に先生としたのかなと。
すぎてみると夢を見た感じだった。先生の感触は憶えている。キスの快感も舌先に残っていた。しかし先生の肉体はまったく思い出せない。白かったとしか憶えてない。以前に見たアダルトビデオの記憶を夢に見たのだろうか?
おれは自分の部屋という日常にもどった。すると先生との一夜が信じられなくなった。学校での氷の美少女が炎の情熱女になるはずがなかった。おれは夢を見たのだろう。そう思った。でも幸せな夢だった。初体験があんなに気持ちいいと思わなかった。
スズネとハルアキもああいう想いを味わっているのだろうか? そんなことさえ思った。いつもだとハルアキに組み伏されるスズネを連想するだけで胸が痛んだ。股間も勃ちあがった。なのにきょうはおだやかな気持ちだ。スズネも先生みたいに泣き笑いをするのだろうか? ハルアキも力のかぎりスズネを満足させるのだろうか?
おれはウフフと笑みが自然にこぼれてとまらなかった。どうして十二年間も恋こがれたスズネがハルアキと関係している想像でおれは笑みがあふれるのか? おれにはわからなかった。
おれは鼻歌まじりに数学の教科書を開いた。きのうまでと数式の見え方が変わっていた。
きのうの夕方は数字を見ただけで吐き気をもよおした。そのせいで教科書を閉じた。きょうは数字にキスをしたい気分だった。
おれは問題を解きはじめた。おもしろいように問いの意図が理解できた。
夢中で解いていると玄関のインターホンが鳴った。おふくろが出たらしい。玄関ドアの開く音が聞こえた。階下からおふくろがおれを呼んだ。
「マサト。雲財寺先生がお見えよ。数学の出張授業ですって」
えっとおれは階段をおりた。玄関に先生が立っていた。ドブネズミ色のビジネススーツ姿だ。いつもの学校でのかっこうだった。
おふくろが先生の手をつかんで懇願した。
「先生。うちのマサトをおねがいしますよ。こないだのテストは零点だったんでしょう? 人なみの点を取れるようにビシバシ仕込んでやってください」
言いながらおふくろが鼻をくんくんと鳴らした。
「わかりましたお義母さま。わたし教頭先生からも言われてます。マサトくんをぶじ卒業させるようにとです。わたしにまかせてくださいお義母さま」
先生が自分の胸をたたいた。推定七十七センチの貧乳の谷間をだ。
先生がおれの背を押しておれたちは二階にあがった。おれの部屋にはいると先生がベッドにお尻から着地した。まるで自分の部屋にもどったみたいなくつろぎ方だった。
先生がきょろきょろとおれの部屋を見回した。
「ふうん。男の子らしい部屋ですね」
おれは先生に詰め寄った。
「なにしに来たんだよ先生?」
「なにって数学の補習ですよもちろん。わたしと伊沢くんにそれ以外ありますか?」
おれは首をかしげた。昨夜から今朝にかけて先生としたと思った。でもそれはまじで夢だったのかなと。おれはわからなくなった。たしかに先生としたはずだ。でも先生の顔を見ているとおれとしたなんて色はどこにもない。学校にいる先生としか思えない。しかし氷の美少女にしてはすこしくだけている気もした。
まあいいかとおれは机に近寄った。
「ちょうどやってたところなんだ。ここんとこがよくわからない。この式はどこから出てきた式なわけ?」
おれは教科書を先生に突きだした。先生が教科書を取りあげた。
「ここはですね」
先生が教科書のページに人さし指をあてた。おれは先生の手元をのぞきこんだ。先生が教科書を床に落とした。先生の手がおれの後頭部にまわされた。先生がおれの顔を自分の顔に抱き寄せた。先生の短い舌がおれの口にはいりこんだ。先生がキスをしながらおれをベッドに押し倒した。先生がおれにかぶさりながらおれのくちびるを舐めまわした。短い舌のくせによく動く舌だった。
おれは臨戦態勢がととのった。先生のスカートの下に指をいれた。先生がおれから口を離した。
「あんっ! だめですっ! お義母さまを呼びますよっ! おかあさーんっ! マサトくんがわたしを襲いますぅ!」
おれはビクンッと先生から離れた。
「先生! 声が大きい! この家は安普請なんだ! 本当におふくろに聞こえるぞ!」
心配したとおりの事態が起きた。おふくろがドタドタと階段を駆けあがってきた。
ガラガラッと乱暴に引き戸が開いた。戸の外に鬼の形相をしたおふくろが立っていた。
「マサト! あんたって男は!」
あちゃあとおれは顔をゆがめた。先生が頭をかいた。ふざけすぎました。ごめんなさい。そんな表情だった。
おふくろの目はおれのズボンの前に釘づけだ。おれのズボンはいわゆるテントが張っていた。サマーキャンプなら三人が眠れる規模だ。言いのがれのきく状況ではなかった。
おふくろは口をへの字にしておれと先生をにらみつけた。すこし考えたおふくろが戸の外から指で先生をまねいた。先生が不思議そうな顔で部屋をでた。
おれは残念だった。先生としたのはやっぱり夢ではないらしい。わざわざ先生がおれの部屋にきてくれたわけだ。また先生とひとつになれる。そんな期待を抱かせるキスだった。でもおふくろに見つかってはどうしようもない。先生はこのまま帰るだろう。おれはおとなしく勉強でもしよう。
そう思っておれはベッドを離れた。でもふと気になった。おふくろが先生を叱ってないかとだ。ひっそりと引き戸にしのび寄って廊下で話すおふくろと先生をのぞき見た。
おふくろは怖い顔で先生に迫っていた。先生は逃げ腰だ。
「ねえ先生。あなたうちのマサトを食ったでしょ?」
先生がうろたえた。
「えっ? いえ。そんなことはありません。わたしそういう行為はしてませんよ」
「うそおっしゃい! マサトはお昼に帰ってきたわ。いままで無断外泊はしたことがないのよ。昨夜あなたから電話があったわね? そのあとマサトは家を飛びだした。そして帰って来なかった。さあ白状なさい。マサトを食ったわよね?」
「いいえ。わたしは先生です。マサトくんは生徒ですよ。わたしたちはそんな関係じゃありません。事実無根です。お義母さまの誤解ですよ」
「とぼけてもだめ! 帰ってきたマサトから香水の匂いがしたの。薔薇の香りだったわ。いつもいっしょに遊ぶスズネちゃんのコロンとはちがったのよ。大人びた匂いだった。いまのあなたと同じ匂いだわ。ひと晩中マサトと抱きあってた。そうでしょう先生?」
「いいえ。いいえ。いいえ。そんなことはありません。わたしの香水は市販品ですよ。使ってる人はいっぱいいます」
「ううん。ちがう。香水はね。つけた人の体臭と混ざるの。そして独特の匂いに変わるのよ。あなたのかすかな体臭を混ぜた香りがマサトから匂ったわ。その匂いはあなたしか出せない。だから犯人はあなたよ先生。そろそろ自白なさい。あたしはあなたを責めようと思ってるんじゃないわ」
先生が負けを認めた顔をした。先生が頭をさげた。
「はーい。ごめんなさいです。たしかにわたしマサトくんを完食しました。とってもおいしかったです。美味でした。それでわたしにどうつぐなえと?」
「マサトに勉強を教えてやってね。でも男って悪い膿みを抜かないと落ち着けないのよ。あなたもいい歳をしてるからわかるでしょう? 手とか口で処理してから勉強をさせなさいね。あたしも夫に強姦同然に襲われたものよ。いったんそうなると男ってとまらないの。だから手早く処理すべきよ。『だめよだめだめ』なんてじらしてると犯されるわ。マサトはそんなふうにできた子なの。きょうは危険日だからだめって言ってるのに無理やり」
「はあ。そうなんですか。ではできちゃった婚ですね?」
「そういうこと。先生は避妊をちゃんとしなさいね。でないとマサトみたいな子ができるわよ」
「わたしは避妊薬を飲んでます。でもマサトくんみたいな子なら欲しいですよ」
「まあ避妊薬? 用意周到ねえ。それって最初からうちのマサトを?」
「いいえ。いつ男のかたとそうなってもいいようにです。マサトくんとそうなる予定はありませんでした。でもわたし」
先生がおふくろの耳に口を寄せた。おれには先生がなにを言ったのか聞こえなかった。
「四月のはじめからマサトくんにひと目惚れでした。マサトくんとしてみたいと思ってたんです」
おふくろが苦笑いを浮かべた。
「先生。それあたしの息子なんですけど? そんなあからさまに告白されても『していいです』とは言えないわよ?」
「あら。ごめんなさいお義母さま。だけどわたし」
「もういいわ。お好きになさって。しかしねえ。先生なら引く手あまたでしょう? どうしてうちのマサトなんかと?」
「わたし男の人は苦手なんです」
「ああ。なるほど。あなた女も苦手でしょ?」
「ええ。女性は数学的にものを考えませんからね。けどマサトくんにだけは自然に近づけるんです」
「ふうん。そうなの。まあいまの若い人になにを言ってもしかたがなさそう。マサトをよろしくね先生。ちゃんと成績をあげてくださいよ」
「おまかせください! このわたしがついてます!」
おふくろがますます苦い顔になった。肩を落としたおふくろが階段を降りた。この女は本当に数学の先生か? そんな顔だった。
反対に先生は喜色をうかべておれの部屋に足を進めた。おれは机に腰をすえて素知らぬ顔で教科書に目を落とした。
近づいてくる先生に訊いてみた。
「おふくろはなんて?」
先生は隠さなかった。
「わたしたちの関係がバレました。それで手か口で処理してやれと」
おれはブッと噴き出した。そのときはじめて理解した。先生って天然だと。
先生がおれにひざまずいた。おれのズボンをゆるめた。おれのものはまだテント中だった。先生の指がおれをそそった。先生の口の端に舌がのぞいた。先生が短い舌を精一杯のばしておれのそこに寄せた。おれはすぐに限界がきた。
「あっ! 出るっ!」
先生がパッとおれから離れた。
「だめです! 出しちゃいけません!」
おれはあぜんとした。おれにひざまずく先生を見おろした。
「ええーっ? ここまでやっといてだめなのかよぉ?」
「はい。だめです」
先生がおれの前に立ちあがった。先生の手がおれのシャツをぬがせた。
先生がおれをベッドにみちびいた。
先生がおれをあおむけに寝かせた。すべてぬいだ先生がおれの上にきた。
「おい先生。それは禁止だっておふくろが言ってなかったか?」
アンッと先生がおれを飲みこんだ。先生が頬をおれの頬にこすりつけた。
「伊沢くんは悪い子ですね。盗み聞きをしてたのですか? でもお義母さまは『ヌいてやれ』とおっしゃっただけですよ? 『交わるな』とはひとこともおっしゃいませんでした」
「でもよ先生。下におふくろがいてこの家は安普請だぞ? 二階でドタバタやったら家全体がゆれるぜ?」
「では静かにやってください」
「あんたの声が一番うるさいと思うぞ?」
「わたしは二十六歳ですから」
「関係ねえじゃんか。どうしてもやるわけ?」
「もうやってます。いままっ最中です。すでに五回の裏を終えました。試合成立です。なにが起きてもノーゲームはありません。得点がはいらないと延長戦もありえます。ヌかないと勉強になりません」
「おれ別に手でも口でもよかったんだけど?」
「勉強ができませんから」
「あのう。ひょっとして先生がしたくて教えられないわけ?」
「ノ。ノーコメントです」
先生が顔を赤らめた。おれはうれしくなって下から先生にキスをした。先生が上からおれのキスに応えた。小ぶりなお尻を上下させながらだ。
「ところでさ先生。本日の用事ってなんだったの?」
おれは思い出して訊いた。きょうは用があるとおれは先生の部屋を追いだされた。なのに先生はおれの部屋にきている。どういうことだろうと。
「実はですね。黒いのが出たでしょう? それで発煙筒式の殺虫剤を焚くことに決めたのです。大家さんや隣近所にも連絡しました。火事ではないから安心してくださいとです」
「はあ。それが?」
「それでですね。あれって煙が充満してるあいだは部屋にはいれないのです。わたし行く場所がなくなりました。わたしには友だちも彼氏もいません。実家は電車で一時間行った県庁所在地に建ってます。でも帰りたくありません」
「それでおれの部屋に?」
「はい。昨夜もわたし困りました。たよりになる人が誰もいません。たったひとりだけ頼ってみたい人はいたんです。でもその人はわたしがきらいでした。いつもわたしを目のかたきにしてたんです。だけどわたし勇気をふりしぼって電話をしてみました。きてくれるはずがない。そんな覚悟を決めながらです。電話をしながら泣きそうでした」
「しかしそのお人よしはノコノコと雨の中をやってきた?」
「ええ。本当に感謝してます。ごめんなさいね伊沢くん」
「そのごめんなさいはどういう意味?」
「いろいろです」
「いろいろ?」
「はい。いっぱいあって言いつくせません。だから訊かないでください」
「じゃさ。いちばん大きなやつをひとつ教えてよ。なにがごめんなさいなわけ?」
「伊沢くんの初体験の相手がわたしだったことです。こんな女でごめんなさい」
「いや。おれ先生が相手でよかったと思ってるんだけど?」
「本当ですか? 大好きな初恋の人とするのではなかったのですか?」
うっとおれは言葉に詰まった。
「どうしてそれを知ってるんだよ?」
「わたし二十六歳です。女ですから」
「答えになってないぞそれ」
「いいえ。ちゃんと答えになってます。女が聞けば誰でもわかりますよ。でもわたし以外の女性に訊かないでくださいね」
「ますます意味がわかんねえ。なにを言いたいのさ?」
「あんっ! そろそろ終わりってことです。九回の表で決着がつきそうですね。やんっ! わたしそこが好きですよ! わたしにください伊沢くん! ああーんっ! 早くぅ!」
おれはわけがわからないままおれ自身を解放した。先生が涙と黒髪をふりまきながらおれをむさぼった。
はっきり言っておれは先生が信じられない。家全体をゆらすほど先生はおれを楽しんだ。むろんおれもだ。でも先生のほうが好き放題にやった。静かになんて注意はどこへやらだ。この振動で二階のおれたちがなにをしているかわからない母親がいたら母親をやめるべきだ。わたしたちはやってますと大声で宣言しているのと同じだった。
だがだ。おれはまだあまかった。そのおふくろがまさか部屋の外でのぞいているとは想像もしなかった。のぞかれていると知ったらおれは萎えただろう。おれは小心者だ。でも先生はきっと平気にちがいない。おふくろがいるのを知りながらひとつになれるしだ。おふくろに関係をあばかれても普段の顔だったのだから。
先生の荒い息がおさまった。先生がおれの上から降りた。おれの狭いベッドに横になった。
「じゃわたし寝ます。伊沢くんは勉強しといてくださいね。期末テストで四十点以上を取るのですよ。ではまたあとでお会いいたしましょう」
「おい!」
なんて勝手な言いぐさだ。おれはそう先生に文句を言おうとした。でも先生はもう寝入っていた。すーすーと可愛い寝息を立てて夢の中に逃げこんだ。夢の中までおれは先生を追えなかった。
おれは全裸の先生にふとんをかけてベッドをおりた。先生はきのう寝てないのではないか? うつらうつらとはしたものの熟睡をしてないのだろう。ひと晩中先生はおれを見ていたのではないだろうか?
おれは先生の言ったことを考えた。発煙筒式の殺虫剤の件だ。考えながら服を着た。おれは先生のバッグをさぐった。マンションのカギを見つけた。
おれは部屋をでて階段をくだった。おふくろは台所で夕食の下ごしらえをしていた。
おふくろがおれに背中を向けたまま声をだした。
「先生は?」
「おれのベッドでぐっすり寝てる」
「あんたは勉強をしないでどこに行くの?」
「ちょっくらコンドームを買いに」
ふり向いたおふくろはひたいに血管が浮いていた。
「マサト! 中に出しちゃってから避妊しても遅いわよ! 前もって用意しときなさい! 先生は薬を飲んでるって言ってたけどさ! 男が準備するのがエチケットってものよ!」
おれは気づいて顔をしかめた。おふくろのやつ一部始終をのぞいていたらしいと。なんて親だ。いや。安普請の家で母親が階下にいるのにいたすやつが悪いのか?
コンドームを買いに行くと言ったのは嘘だ。おふくろをからかいたかっただけだった。
おれは自転車で先生のマンションに走った。こんな話を聞いた憶えがあった。ゴキブリは一匹見かけると実際はその三十倍いると。先生も一匹だけではないと思って発煙筒式の殺虫剤を焚いたのだろう。ではいま先生のマンションはどうなっている? 隠れていたゴキブリが煙にいぶされて部屋のあちこちで死んでないか? そんな部屋に先生が帰ればどうなる?
おれは先生のバッグから拝借したカギでマンションにはいった。一階のオートロックもそのカギで開く構造だった。
先生の部屋ではおれの予想どおりの光景が展開していた。台所の流しを起点にところどころでゴキブリが死んでいた。
おれは死骸をひとつずつゴミ袋に拾った。一匹のこらず始末した。
帰ろうとしてふと思いついた。先生のタンスから先生のいつも着ているスーツの上下を取り出した。下着の上下もカバンに詰めた。
おれは途中にあったコンビニのゴミ箱にゴキブリたちの死骸を捨てた。二度と先生を苦しめないでくれよと願いながらだ。でないとおれがまた呼びだされる。
おれの部屋にもどるとベッドにすわった先生がおれに指を突きつけた。すでに服を着ていた。おれは残念だった。先生は服を着てないほうが百倍美しい。
「どこに行ってたんです! わたしひとりを置いて行くなんてひどいじゃないですか!」
おれは頭をかいた。
「先生のマンションに盗みに行ったんだ」
先生が眉を寄せた。
「わたしの使用済み下着をですか?」
「へ? なにそれ?」
「洗濯機の上のかごに入れてあったでしょう? 気づかなかったのですか?」
「んなものに気づくかよ。おれは下着ドロじゃねえ」
「じゃなにを盗んだんです? 預金通帳ですか? 現金は置いてなかったでしょう?」
「先生の着替えを取ってきただけだよ。盗みに行ったってのはシャレだ。本気にするんじゃねえ」
「そうなのですか。安心しました。でもすこし残念です」
「残念? なにが残念なんだ?」
「ノ。ノーコメントです」
「あのう。ひょっとして下着を盗んでほしかった?」
「え? いえ。そんなことはありません。あの下着は困ります」
「あの下着は困る? じゃいまはいてる下着ならいいの?」
「はい。これならいいです。血がついてませんから」
おれはすこし考えた。
「血がついてない? それって初体験の血?」
「ええ。そうだと思います。だからあの下着は盗まないでください。いまはいてるのなら盗んでもいいですから」
「あのね先生。いまはいてる下着ってさ。おれの精液がついてない? おれの精液つきの下着はなあ」
「でもマンションの下着にだってついてると思いますよ? 伊沢くんはわたしの中にいっぱい出しましたもの」
「ついてたってかまわねえ! 先生の血のほうが大事だ! 先生! あの下着をおれにちょうだい!」
「伊沢くんは変態です。あげません。こっそり盗まれるなら我慢します。でもわたしからはあげられません」
「じゃおれもう一度行ってくる」
先生がおれのシャツをつかみとめた。クルリと背中を向けたおれのシャツをだ。
「だめです。わたしをひとりにしないでください。わたし伊沢くんがいなくなったと思いました。わたしを放さないでください。おねがいします」
先生がうしろからおれの背中に抱きついた。先生の手がおれの顔をうしろにねじまげた。先生のくちびるが迫ってきた。
先生がくるおしく舌をからめておれをベッドに引き倒した。階下では親父が帰宅していた。おふくろは晩めしのしあげ中だ。
先生がおれに馬乗りになっておれのシャツをぬがせはじめた。
「まずいよ先生。親父も帰ってるんだぜ」
「だってわたし。さびしかったんです」
先生がおれのトランクスに指をしのばせた。先生の舌がおれの乳首を舐めた。おれもたまらなくなって先生の背中に手をまわした。先生をぎゅっと抱き寄せると先生がアンッと鼻声を洩らした。
おれも先生もとまれなかった。なるようになれだ。
先生が全裸になってあまえる目でおれを見た。
「わたし上になるのが好きみたいです。それでいいですか伊沢くん? わたしの上に乗りたいとかうしろからとか思ってませんか?」
「思ってないよ。先生の好きなようにして。おれはそれでいいからさ」
「ありがとうございます」
おれと先生がつながっていると廊下に人の気配がした。耳をすますと親父の声が聞こえた。
「マサトも大人になったんだなあ。でもあれ年上だぞ? 先生だろ? いいのか?」
おふくろが答えた。
「十歳上だそうよ。けどね。男と女の関係になったら年上も先生もあるものですか。それにいまはアツアツでなにを言っても聞きませんよ」
「なるほど。でも常識のない人みたいだぞ? 初めてきた家でそこの息子とおっ始めるわけだからな。しかも全裸だ。ふつうは下着だけぬいでマサトの上に乗らないか? あれじゃ丸見えだ」
「女はスッポンポンのほうが気持ちいいんですよ。全身の肌で男を味わえますからね。肌と肌が密着する感覚がたまらないんです」
「そんなものかい?」
「そんなものです。下着だけぬがせてやるなんて邪道ですよ」
「ううむ。耳が痛いぞそれ」
「今度から気をつかってくださいよ。でもあれで数学の先生ですって。天才だそうですよ」
「天才ねえ? とてもそうは見えないな。情熱的な人ではありそうだがね」
おふくろがああんっと鼻声を洩らすのをおれは聞いた。おふくろと親父はおれと先生に刺激されたらしい。おれはおふくろがすっかり母になったと思っていた。しかしまだ女を残していたようだ。おれに弟か妹ができるんじゃないだろうな? そんなことを考えながらおれは先生と至福の階段を登りつめた。
その一時間後だ。おれはテーブルについていた。テーブルのこちらがわにはおれと先生だ。対面には親父とおふくろだった。おれたち家族は互いの顔を見なかった。いや。見られなかった。気まずすぎてだ。おれは先生とやっちゃって親父とおふくろもきっとやった。おれも親父もおふくろもその事実にかんづいていた。おれが親父とおふくろの行為に気づいているとだ。
先生はおれが運んだ服に着替えていた。下着からスーツまでだ。家に来たときとちがう服で食卓についていた。おふくろのはからいでシャワーまであびて湯あがりの頬だった。
先生が親父の顔をまじまじと見てため息を吐いた。
おふくろが先生に顔を向けた。
「どうしました先生?」
「いえ。この真面目そうなお義父さまが強姦同然にマサトくんを作ったのとか思うと信じられなくて。男はみんなオオカミなのですね。ねえお義母さま。お義父さまのそれは太かったですか?」
親父とおふくろがぎょっと目を見開いた。つづいて恥ずかしそうにうつむいた。先生も親父とおふくろがのぞいていたのに気づいていたらしい。おふくろはつい先ほどいま先生がたずねた件をたしかめたはずだった。親父とおふくろの頬はまっ赤に染まっていた。
おれは先生の脇腹をつついた。
「先生。遠慮がなさすぎ」
「そうなんですか? ごめんなさいです」
先生が頭をさげて食事がはじまった。わきあいあいとまではいかなかった。すこしぎこちなかった。でもそこそこ笑いは出た。親父は中国出張の話をした。先生はアメリカでの大学生活を語った。舌たらずの話し方だったが案外おもしろかった。学校でもその話をすればいいのにとおれは思った。先生はきっと自分の舌が短いのを気にしているのだろう。それで雑談をしないらしい。聞き取れない。そう生徒から指摘されるのを恐れているにちがいない。
食事の終わりには親父とおふくろの先生を見る目が変わっていた。食事前には淫乱小娘という目で見ていた。食事後は天才数学者という目だった。おれは自分のことでもないのに胸を張った。先生はただのスケベじゃないんだぞと。どすけべえな天才数学者だ。そう思ってがくぜんとした。もっと悪い気がした。どすけべえな天才数学者と淫乱小娘? どちらの世間体がいいんだ?
食事がすむとおれは先生を自転車の荷台に乗せてマンションまで送った。横ずわりになった先生がおれをぎゅっと抱きしめた。おれは先生の重みをおなかとペダルに感じながら浮かれて自転車を走らせた。雨はやんでいた。曇り空だった。
マンションに着くと先生がマンションの一階でおれを押し返した。
「ありがとう伊沢くん。ここでいいです。おやすみなさい。またあした学校で会いましょう。勉強はしといてくださいね」
おれは先生の部屋に行きたかった。今夜は泊まるつもりはなかった。しかし先生のベッドで先生を愛したかった。先生もおれを求める目をしていた。時刻はまだ午後九時だ。眠るには早すぎる時刻だった。
先生がおれを置き去りにマンション内に消えた。おれは首をかしげながら夜道を帰った。どうにも先生の考えがおれにはわからなかった。女も男といっしょで打ち止めがあるのだろうか? 昼間に二回したから満足なのだろうか?
おれはすっきりしない気分で自室にもどった。まあいいか。そう思って勉強をはじめた。
だが集中できなかった。先生の声や短い舌をつい思い出した。思い出すともうだめだ。
おれはベッドに寝てトランクスをさげた。さっきこのベッドで先生と愛し合った。そう思うだけでたまらなかった。おれは先生の裸を思い出そうとした。でも憶えてなかった。
なぜ憶えてないのかはわからない。アダルトビデオは他人の行為を見る。おれが先生としたのは自分の行為だ。先生とひとつになっている時おれが見ているのはおもに先生の貌だった。つまり先生の身体はほとんど見てない。先生の貌でさえ目をつぶってキスをしたせいであまり憶えてなかった。さらに先生に接近しすぎていた。おれが見たのは先生の顔の部分部分だ。瞳のアップやくちびるの拡大映像だった。そこに乱れる先生のあまい吐息だ。おれは当事者だった。そのためよく憶えてないようだ。先生という大渦に飲まれて翻弄されるカメラつきの観測ブイがおれだった。あとで再生しようとしてもすぐ水面下に引きこまれて海面のようすが記録されてないらしい。アダルトビデオやエロ本は第三者の目で見るから憶えているのかもしれなかった。
おれはそう考えてベッドの下に手をのばした。隠してあるエロ本から先生に似た女がいないか捜そうとだ。
おれのエロ本の上に見慣れないものが置いてあった。指でつまんで引き出した。たたんだショーツだった。スカイブルーでレースつきだ。先生の使用済み下着だった。きょう最初にはいていた品だ。広げてみると先生のものとおれのものがついていた。
先生のプレゼントらしい。ごていねいにメモまで添えてあった。『伊沢くんのエッチ!』そう書かれていた。
おれはうれしかった。先生の心づかいを無にしないためおれはその下着で欲望を処理した。というか収まりがつかなかった。おれは先生の名を呼びながら盛大に噴きあげた。
放出したあとで気がついた。先生にエロ本を隠しているのがバレたと。
おれは幸福な気持ちで数学の教科書を開いた。