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 第三章 『性』少年の主張

 おれと先生の対立が決定的になったのは中間テストのあとだ。中間テストは五月の二十日だった。おれは数学で零点を取った。さっそく先生に数学準備室に呼びだされた。

 数学準備室は先生がひとりで使っていた。もうひとりいるはずの数学教師は登校拒否中だ。授業時間にマニキュアを塗っている女生徒を注意したら全校の女生徒から総スカンを食った。おまけに校長と音楽教師の苗塚までが彼を責めた。校長は女権論者だ。男と女が平等にあつかわれない件には過敏な反応を示す。彼が女生徒にだけ注意したという点が校長にとって重要だった。授業中にマニキュアを塗る男子生徒に注意しないのがけしからんとだ。

 とうぜんかもしれないが授業時間にマニキュアを塗る男子生徒はいなかった。校長はデブのブタ女だ。イケメンが表紙をかざる女性雑誌を毎日愛読していた。そんな女性雑誌に載る男は男のくせに爪にマニキュアをしている。わが校の男子生徒もそうだと校長は信じていた。

 要するにうちの校長は校内のことがなにひとつわかってなかった。生徒を見ずしてなんのための校長か? そうおれは思う。わが県の教育委員会はおかしすぎる。校長なんて廃止にすればいいのではないか? 教頭だけいればじゅうぶんではないだろうか?

 とにかく校長と教頭という存在がおれには不可解だった。どうしてあんな役立たずを置いておくのだろうとだ。校長と教頭のする仕事は責任のがれだけだった。問題を起こした生徒や教師を断罪する。指導はしない。更生もさせない。ただ処罰あるのみだった。

 おれの思惑に関係なく先生がおれに説教をはじめた。

「伊沢くん。あなただけですよ。わたしのテストで零点なのは」

 おれはうんざりしながら口を開いた。

「はあ。そうなんですか」

 先生が短い舌でまくし立てた。

「そうですよ。伊沢くんって英語と理科は学年で一番じゃないですか。どうして数学だけ苦手なんです? 国語と社会も八十点代でしたよ? 数学は体質的に受けつけないのですか?」

 おれはふくれっつらを隠さなかった。おれは数学が苦手ではない。数学の担当教師がきらいなだけだ。中学のとき英語の教師は女性だった。サッカー部の顧問で可愛い人だった。胸は巨乳ではなかった。だが豊乳と呼んでさしつかえなかった。おれは彼女の関心を引こうとサッカー部にはいった。そして英語もがんばった。理科の教師も女性だった。こちらは本物の巨乳だ。有名大学を出たての教師だった。おれは理科も必死で勉強した。でも数学は無視だった。担当の教師が男でいやなやつだったせいだ。

 しかしふたりの女性教師はおれが中学三年のときに寿退職をした。どちらも同僚の教師と結婚をした。おれは告白する時間さえ与えられなかった。

 おれはがっかりした。ただそのせいでおれは高校になっても英語と理科は得意科目だ。数学もたぶんやればできると思う。数学を努力しないのは担当教師が気にくわないせいだ。

 おれは目の前で説教をたれる女をにらんだ。つまりこうだ。

『おれが数学で零点を取ったのはおれのせいじゃねえ。この女がきらいなせいだ。こいつが明るくて巨乳ならおれは数学で百点を取る自信があるぜ』とだった。

 おれは巨乳で明るい女が好きだ。スズネはいつもほがらかだった。夏の太陽のような女だ。暗い色の服を着たことは一度もない。ドブネズミ色なんて女の服の色ではない。

 おれはそうふてくされた。うざいんじゃ冷凍マグロみさえめと。

 おれが黙ったままなので先生がほこ先を変えた。

「まあいいです。とにかく期末テストでは四十点以上を取ってください。でないと補習で夏休みがつぶれますよ。わかりましたね?」

「はーい」

「返事はみじかくです伊沢くん」

「はいはいはい」

「はいは一回でけっこうです」

「ふああい」

「ちゃんと返事をしてください」

「けっ」

 んなことできるかとおれは顔を横に向けた。

 先生がおれに近寄った。おれの顔を両手ではさんだ。無理やりおれの顔を自分に向けさせた。

「伊沢くん。話してる人から顔をそむけてはいけません。礼儀違反です」

 おれはおどろいた。この女は他人に近寄られると逃げる女だ。自分からなら男にさわっても平気なのだろうか?

 先生の顔がおれの至近距離に近づいた。おれは鼻をくんくんさせた。

 先生は匂いがなかった。コロンも香水もつけてないらしい。化粧もしてないから化粧品の匂いもなかった。

 おれのおふくろは犬なみに鼻がきく。そのせいでわが家に匂いのきつい品はない。せっけんですら無香料だ。おふくろの遺伝子のせいかおれも鼻はいいほうだった。音楽の苗塚なんか三メートル先に来ただけであまったるいムスク系のいやらしい匂いをプンプン感じる。

 おれは匂いのない女が初めてだった。スズネですら若者向けのライトコロンをつけていた。いまどきの女子高生で化粧品やオーデコロンの匂いのない女はいない。先生は女子高生より女らしくないようだ。季節は五月の終わりだった。汗の季節なのに先生は汗臭くもなかった。体臭そのものがないらしい。

 鼻を動かすおれに先生が気づいた。

「あのう。わたし汗臭いですか?」

 おれは肩をすくめた。

「いや。先生はまったく匂いがねえよ。なんで化粧をしねえんだ?」

「だってわたしお化粧をするほど美人ではありません。するだけむだでしょう? でも洗顔とお肌の手入れはしてますよ。人前に出る仕事ですからね。あら? ちがいましたね。わたしのお化粧が問題ではなかったんです。伊沢くんの成績が問題なのでした。とにかく次の期末テストは四十点を取ってください。いいですね?」

 数学が零点のおれにいきなり四十点を取れ。それはむちゃだろう? そう思うのが普通だ。でもそれには理由があった。通常の高校の数学はむずかしい。特にこの女は天才だ。こいつがまともに出題をすれば零点が続出するはずだった。そこで校長が先生に指示をした。中学生でも四十点を取れるテストにしろと。つまり四十点分の問題は小学生と中学生用の問題だった。のこりの六十点が高校生向けだ。その六十点のうち十点を抜群にむずかしい問いに配分してあった。きっとその最難問がこの女の本当に望む数学なのだろう。

 つまり高校の数学を勉強してないおれでも四十点は取れるテストだったわけだ。そのため零点を取ったのが学年でおれひとりだった。

 ではなぜおれは零点だったか? そこにも理由があった。この女は最難問をテストの冒頭にすえた。おれはその難問を解こうと努力した。おれはこの女がきらいだ。数学なんかする気はない。でもパズルは好きだった。パズルはむずかしければむずかしいほど燃える。おれが英語と理科で学年一の成績だったのも解ける問いをつい解いたにすぎない。この高校には若い女性教師がいなかった。いや。ひとりだけいた。でもそいつはおれのこのみではなかった。二十六歳の雲財寺美冴だ。つまり目の前にいる女だった。『うざいんじゃ冷凍マグロみさえ』はおれに勉強をする気にさせる女性教師ではなかった。

 そんなわけでおれは先生が気にいらないのを一時保留にした。問題そのものが気にいったわけだ。坊主が憎くても袈裟けさは憎くならなかった。おれは最初の一問にすべての時間をついやした。勉強をしてなかったせいで結局は解けなかった。だが心地のいいテストだった。零点だが満足のいく零点だったわけだ。全力をつくした完全燃焼感があった。

 しかしだ。一問が気に入っただけで先生その人は大きらいだ。おれは次の期末テストもまじめに取り組む気が皆無だった。

 けどだ。夏休みなしは困る。可愛くて巨乳の女性教師となら補習はおおいにけっこうだ。むしろ進んで補習に参加したい。でもこの女と夏休みいっぱいが補習? それはうんざりのきわみだ。氷の美少女だから涼しくていい? そうかもしれない。だがうちにはちゃんとエアコンがある。氷は食べるだけで充分だ。氷漬けの美少女をながめる趣味はない。おれはピチピチと跳ねる笑顔の可愛い女がこのみだ。笑わない女は女と呼びたくない。

 おれはしかたがなく先生を見た。わずかな妥協案を提示してみた。

「先生。試験問題の並べ方を変えてくれよ」

「だめです。でもなぜですか?」

「いちばん簡単なのを初めに持ってきてよ」

「いやです。そんなことをすると最後の問いを考えてくれなくなるじゃないですか。わたしが最も楽しんで作る問いですのに」

「けどさ。おれ最初から解かないと気持ちが悪いんだもん。最初にあんなむずかしい問題を置いとくから次の問いにたどりつけなかったんだぜ。おれが零点を取ったのは先生のせいだ」

「ちがいます。伊沢くんのせいです。わたしは悪くありません」

「いーや。先生のせいだ」

「ちがうもん。わたしわるくないもん」

 ツンと口をとがらせてから先生は気づいたらしい。きゃっとちいさく声をあげた。小学生のような舌たらずの声だった。

「いまのは聞かなかったことにしてください。ついむきになりました。わたし先生をするのは今年が初めてなんです。つまり伊沢くんはわたしの初めての零点取得者ですよ。したがってあしたから放課後は補習です。いいですね?」

「いやだ。おれに補習なんか必要ねえ」

「だめです。教頭先生から命令されました。零点を取った生徒は強制補習です。教員委員会から叱られるそうです。いやでもやってもらいますよ」

 おれは顔をそむけた。

「だっておれ悪くねえもん。カンニングするより零点のほうがましだもん」

 こないだの中間テストではカンニングをした者がかなり摘発された。隠し持ったスマホで計算をした生徒たちだ。彼や彼女は補習ではなく停学処分になった。ふたたびカンニングが発覚すると退学だと予告されていた。

 先生がくちびるを突き出した。

「それは同感です。わたしにはカンニングをする人の気持ちがわかりません。自分は自分でしょう? ちがいますか? 自分以上にも自分未満にも着飾ったって仕方がありません。わたしはその点で伊沢くんが好きですよ。いさぎよく零点ですものね」

「どうも」

 おれは口をとがらせる先生のくちもとに惹かれた。あのくちびるを舐めるとあまいかなと。おれが舐めたい唇はスズネのだったはずなのにだ。『伊沢くんが好き』とほめられて気持ちがすこしかたむいたのかもしれない。

 しかしだ。その日からおれの受難がはじまった。先生はおれをひたすらこき使った。おれが口答えをすると舌たらずの発声でこう言った。

「わたしのテストで零点を取る生徒はわたしの奴隷です。くやしかったら次のテストで四十点以上を取ってください。それまで伊沢くんはわたしのしもべですからね」とだ。

 おれは補習だけではなく数学準備室の掃除もやらされた。一瞬だけ先生を見直したおれは自分を叱り飛ばした。やっぱりこいつきらいだと。『うざいんじゃ冷凍マグロみさえめ』とだった。

 おかげでおれの放課後ライフは消滅した。レンタルコミック店でマンガを借りるのがこのところの楽しみだったのにだ。

 だがひとつだけ利点があった。先生にこき使われているあいだハルアキとスズネを忘れられたからだ。おれは『このクソ女ぁ』と先生を呪いつづけた。おかげでおれの頭の中は先生一色になった。ここまで腹の立つ女に会ったことがなかった。インターネットでワラ人形と五寸釘を購入しようかと本気で思ったくらいだ。

 そんなおれたちが補習をしていると教頭の蘭野がたびたび数学準備室の戸をたたいた。放課後に補習をやっている部屋を見てまわっているらしい。

「おう。やっとるか伊沢? そいつはものになりそうかい雲財寺くん? その男はおとなしそうだが問題児だぞ。そこまで極端な成績を取った者は過去におらん。他の教科は八十点以上なのに数学だけが低空飛行だ。そいつの数学ぎらいは治せんかもしれん。数学が二年間赤点なら卒業はできんぞ。雲財寺くんは優秀な数学者だ。なんとかしてやってくれよ雲財寺くん」

 先生が蘭野教頭に頭をさげた。

「はい。がんばってみます」

 先生は蘭野が近づくと身を引いた。おれはひとつ気づいた。この先生は人間がきらいではない。人間が怖いらしいと。

 蘭野がうなずきながら次の部屋に向かった。

 先生がおれを見た。かすかに笑った気がした。でも気のせいかもしれない。先生の笑顔を見た者はまだいなかった。苦笑しただけかもしれない。笑ったとしてもほんの一瞬だった。先生の貌にはまたいつもの氷の能面が貼りついていた。

「わたし男のかたはだめなんです」

「けど先生。女はもっとだめだろ?」

「ええ。女性は数学的ではありませんから。でも伊沢くんは数学的です。零点の次は零点かプラスです。マイナスにはなりません」

「でもいまおれの評価はマイナスじゃねえの?」

「たしかにそうです。どうしてまじめにやってくれないのですか? 伊沢くんはふざけてばかりです。理科で八十点を取れたら数学でだって取れるでしょう? なぜです? どうしてやる気にならないのですか?」

 それはあんたのせいだよ。あんたがきらいだからやる気にならねえんだ。

 おれは心の中でそうつぶやいた。あんたが可愛い巨乳女ならどんなことでもしてやるさ。空を飛べと言われればきっと空を飛んでやる。そんなふうにだ。

 おれは意地になっていた。こんなにこき使われてやる気になれるかとだ。この女のテストで四十点を取るのは簡単だった。でもおれは次も零点を取る腹でいた。このクソ女の思いどおりになってたまるかとだった。

 もうひとつの理由は四十点分の問題が簡単すぎたせいだ。いまさら中学生の問題を解く気になれない。どうせなら最難問を解きたかった。だがそれをしようとすれば猛勉強をする必要があった。おれはそこまでする気はなかった。巨乳でもないツンツン女のためになんで猛勉強を? とつい思うせいだ。巨乳女教師のためならおれは一ヶ月でも徹夜をしただろう。おれは掛け値なしの巨乳好きだ。爆乳ならもっといい。豊乳でも我慢する。

 ちなみにアダルトビデオの乳の呼び名はこう段階化するのが常だ。貧乳。豊乳。巨乳。爆乳。超爆乳だ。どれがいちばん大きいかは読めば一目瞭然だろう。おれが女と認めるのは豊乳以上だ。貧乳は女ではなかった。男だ。おれは同性愛者ではない。男におれの股間は反応しない。つまり『うざいんじゃ冷凍マグロみさえ』はおれにとって男だった。男のために数学など勉強できるか。それが『性』少年であるおれの主張だ。某国営放送の青少年番組にはとうてい出演できない主張だが。

 しかし夏休み中この女と顔をつきあわせるのもいやだった。

 おれは悩んだ。四十点を取るか零点を取るか。ハムレットの心境だ。なすべきか。なさざるべきか。それが問題だった。


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