第十八章 キスしてくれるとうれしいな
そのあとおれはスズネをわきに引いた。
「どうして蘭野が先生を襲おうとした件を知ってるんだ?」
「実はね。先生をストーカーしてたのはマサトだけじゃなかったの」
「なんだそりゃ?」
「一年生の男の子が数学準備室のとなりの部屋の壁に盗聴マイクを仕掛けてたのよ」
「それで蘭野と先生のやり取りが?」
「ええ。マサトが先生の手を引いて学校を離れたのを見たのもその子なの。あたしはその子をつきとめて釘を刺したわけよ。迷惑なうわさを流すんじゃないってね。そのときはまだマサトと先生の関係を知らなかったからさ。蘭野に襲われた先生をマサトが義理で手を引いて連れ出しただけだと思ったのよ。次にマサトを尾行してると蘭野がちょろちょろと顔をはさむのね。先生が蘭野に犯されてもかわいそうだからさ。ハルアキに蘭野の尾行をおねがいしたわ。蘭野が先生に手をだすようなら阻止してってね。そしたらさ。蘭野が帰りの電車でOLのスカートの中を盗撮してたって報告するのね。盗撮犯の教頭をのさばらせるわけにはいかないからさ。ハルアキに朝から教頭に貼りついてもらったわけよ。だったらなんと盗撮どころか痴漢の常習者と判明したのね。なので蘭野の痴漢行為を撮ったのはあたしじゃないの。ハルアキなのよ。でも蘭野の被害者たちを説得して被害届をださせるのに手間取ったから逮捕がきょうになっちゃったわけ」
「なるほど。そうだったのか。ありがとうスズネ」
「じゃお礼をちょうだい」
言い終わる前にスズネがおれのくちびるをうばった。おれはスズネに感謝をこめてキスをした。
次におれは数学準備室であした配る宿題のプリントを用意する先生を手伝った。
「あのさ先生。さっきの科学雑誌の論文ってね。マンションの壁に書いてた数式?」
「そうですよ。でもあれは検証してただけです。穴がないかとですね。論文そのものは二年前に送りました。掲載する前にさまざまな角度からまちがってないかを調べる必要がありますからね」
「時間がかかるんだ?」
「ええ。かなりかかります。簡単な式ではありませんから」
「ところでさ先生。歌をうたう気はない?」
「歌ですか? どうしてまた?」
先生の舌たらずの歌は特徴があって一度聞いたら忘れられない。レストランで歌ったおれたち四人の輪唱の中で先生の声がひときわ異彩を放っていた。おかげで歌だけが楽曲ファイルとしてネット上に出回りはじめた。もともとが過去に大ヒットした名曲だ。カヴァーバージョンとしてまたたく間に評判になった。先生が本格的にCDを吹きこむべきだという書きこみも多く見られた。
「おれさ。先生の歌をCD化したいんだ。売るつもりはないよ。おれがひとりで楽しみたいの」
先生が困った顔でおれを見た。
「わたし舌がみじかいんです。ですからロック歌手にはなれません」
「なんだいそれ? 英語が発音できないの?」
「いいえ。ロック歌手って歌詞のあいまに長い舌をレロレロと伸ばすでしょう? わたしあれができません。だからロック歌手は無理なんです」
「おいおい。そんなことをしないロック歌手もいるぞ? どんな音楽番組を見てるんだよ?」
「工科大のライブラリーで見ましたよ? 顔にコウモリを描いた男の人がマイクをつかんで舌を伸ばしてました。かっこよかったです」
おれは肩をすくめた。やっぱりこのひと変だと。
おれはさっき苗塚とハルアキとスズネに相談した。秋には文化祭がある。そのステージで歌ってみないかとだ。
先生が承諾してくれたので苗塚がピアノを弾いて四人で輪唱をした。なかなかの出来だった。おれはためしにと思ってインターネットに投稿した。ネットではまだ先生フィーバーがつづいていた。そのせいでまたたく間に上々の評判が寄せられた。かつては四人組のコーラスグループが数多くいた。いまではあまりいない。そのため新鮮に受け取られたらしい。たったいまも先生の声は人々のパソコンやスマホで再生されつづけているはずだ。おれは胸を張った。おれの先生だぞと。うれしかった。先生は数学とお酒とおれだけではない。歌だっていけるじゃないかと。
翌日の終業式はとどこおりなく終わった。苗塚がいなかっただけだ。でも苗塚は音楽教師で担任を持ってない。宿題もださないから誰にも影響はなかった。校長は素知らぬ顔でいつもどおりの退屈なあいさつをした。校長が規則規則と言わなくなるかはこれからの話だろう。
蘭野の逮捕で高校の前はマスコミのカメラが砲列を作っていた。おれと先生は購買部の商品搬入車にかくされて裏口から学校を追いだされた。
おれと先生が家に帰るとおふくろがおれたちを指でまねいた。
「ちょっとちょっとマサト。ビデオに録画したから見てごらんなさい」
おれはギクッとした。
「おいおふくろ。まさかおれたちのデーゲームをか?」
おふくろがおれの肩をたたいた。
「バカね。朝のワイドショーよ。あんたと先生がでてるの。校長室で撮影したみたいよ」
ふと考えておふくろがつけ足した。
「そうねえ。それもいいかも。いまなら高く売れるでしょうねえ。こないだから取材の電話が山ほどかかってるわよ? 話題のふたりのエッチビデオならひと財産できるかもしれないわねえ」
笑いながらおふくろがおれと先生を居間に押した。
ビデオを見ておどろいた。吉枕は校長の場面をカットしてなかった。最後のおれとのやり取りまで放送しやがった。おれは頭にきた。これだから大人ってやつは。
おれはさっそくテレビ局に抗議の電話をかけようと決めた。そのおれを先生がとめた。おれは先生に食ってかかった。
「なんでとめるんだよ先生?」
「吉枕さんが正しいと思います」
「うそ? これじゃ校長は学校を辞めさせられるぞ? 先生は校長に学校を辞めてもらいたいの? あの校長がいるといや?」
「校長先生とは肌があいません。それはたしかです。でも辞めてほしくはないですね」
「じゃどうして?」
「これ吉枕さんが釘を刺したんじゃないでしょうか?」
「釘を刺した? 誰に?」
「校長と教育委員会にです。最後に伊沢くんが『単純なことなかれ主義がきらい』だと言ったでしょう? もし教育委員会や世間が校長を責めればどうなります? 『単純なことなかれ主義』で校長を辞めさせるのかとなりませんか? 吉枕さんが伊沢くんの言葉まで放送したことで教育委員会は校長を処分するわけにいかなくなったと思います。校長は校長で伊沢くんとわたしを処分できません。伊沢くんとわたしを処分すれば教育委員会が校長を辞めさせるでしょう。校則に従って辞めさせた校長を内規に従って処分できますからね」
「ああわかった。世間が校長と教育委員会を見張るようにし向けたわけね? 『単純なことなかれ主義』で処分をしたら非難が集まるように?」
「ええ。きっとそうでしょう。いまは世間の圧力がとても強い時代です。へたな動きは身の破滅ですよ」
「なるほどねえ。マスコミ人ってやつはやだねえ。痛いとこ痛いとこを突くわけだ」
「でもわたしはうれしいです」
「なんで?」
「わたし多くの人に伊沢くんを旦那さまですって紹介できましたから」
おれは眉をひそめた。ひょっとしてそれって先生が逮捕される理由にならないか? 十六歳を食っちゃったら県の青少年育成条例に引っかからない? 二十六歳の男が十六歳の女子高生を食えば確実に逮捕だぞ? 女ならいいのか?
おれがそういぶかっているとその答えも放送された。大学の法律学者のコメントだった。正式に婚約しているから逮捕は無意味だ。援助交際でも不純異性交遊でもないから青少年育成条例の趣旨に反しないと。むしろ別れたときに契約不履行で訴訟沙汰になるかもしれない。そう解説していた。
おれはホッと胸をなでおろした。さああしたから夏休みだ。先生とデート三昧だぜ。そんなぐあいにおれはうきうきした。でもふと気になることが頭をよぎった。
「そういやさ。先生ってどうして男にさわられると鳥肌が立つの? なにか理由があるわけ?」
先生が顔を曇らせた。
「わたし小学二年生のとき誘拐されそうになったんです」
「ゆ? 誘拐?」
「はい。車に乗った男の人に道を聞かれました。わたしは説明してあげたんです。でも車に同乗して道案内をしてくれないかって誘われたんです。わたしはなんだか気味が悪くなってあとずさりをしました。するとわたしを追いかけてくるんです。わたし必死で逃げました。だけどしつように追ってきました。わたし怖かったです」
「それでどうなったの?」
「角をまがると前を歩いてた女の人が見えました。わたし大声で助けを求めたんです。するとその女の人も男に気づいて大声をあげました。『痴漢よぉ!』とです。男はその声におどろいて逃げました。警察がきたとき男も車も消えてました。わたしすっごく怖かったです。その男はのちに逮捕されました。わたしとは別の小学生を誘拐して自室に五年以上も監禁してたんです。判決は懲役二十年か無期懲役だったと思います。わたしもあのときつかまってたら監禁されてたでしょう」
おれは奥歯をかみしめた。そこまでひどい男だと死刑にすべきだと。先生がそんな目にあわなくてよかった。心の底からそう思った。
「それで先生は男がだめなのか。そういう事情ならしょうがないよな」
先生がおれに笑いかけた。誘うみたいな顔だった。
「でもわたし伊沢くんにならいいですよ。何十年監禁されても楽しそうです。死ぬまでわたしを飼ってください」
おれは肩をすくめた。飼われるのはおれだと。おれにこのマイペースな人が飼いきれるわけがない。最初はおれが飼い主でもすぐ逆転するに決まっていた。おれはきっと先生にひざまずいてエサをねだるだろう。おれは先生の可愛い飼い犬になれるだろうか? すでに先生に奉仕する愛玩犬にされている気はするが。
「じゃさ先生。女の人が苦手なのはどうして?」
「それに明確な理由はないんです。わたしはこのとおりの女でしょう? 女性受けはよくありません。最新の話題とかにもついて行けませんしね。ですからすこしずつです。いじめられたり仲間はずれにされたりはしょっちゅうでした。でもひとつ印象的な記憶もありますよ」
「どんなの?」
「わたしラブレターをしばしばもらいました。でもどの男のかたもピンと来ませんでした。近寄りもできませんしね。高校生のときです。やはりラブレターをもらっておことわりの手紙を机にいれといたんです。直接はわたせませんからね。するとあとでその人のガールフレンドがわたしにこう言ったんです。『冷血女が可愛い服を着てんじゃないわよ! 男おことわりって服を着なさいよね!』とです。そのときわたし思いました。『ああ。わたし明るい服を着てはいけないんだ』とですね。わたしたちの高校はみんな私服でした」
先生がドブネズミ色の服を着るようになったのはそのためか。
「なんて女だ! おれがぶんなぐってやる!」
「その女性と男のかたは伊沢くんとスズネさんみたいな関係だったんです。伊沢くんにスズネさんがなぐれますか?」
おれは顔をしかめた。
「なるほど」
先生がうれしげにふふふと笑った。
「けど日本にもどったこの三月に彼女から手紙がきましたよ。『あのときはごめん』と書いてありました。五月に彼女はその男のかたと結婚しましてね。わたしも結婚式に呼ばれました。もうすぐ子どもが産まれるそうです。できちゃった結婚ですね」
先生がおれの手をにぎった。おれは先生の手をにぎり返した。
そのとき電話が鳴った。おふくろが電話にでた。おふくろが相手と話しはじめた。
おれは先生の手を引いて自室へあがろうとした。そこに背後からおふくろの声がかかった。
「マサト。パパから電話よ」
「パパ?」
「そう。あんたのパパと言えばわかるって」
おれは首をかしげながら受話器を手にした。相手は紘州パパだった。先生がおれに頬を寄せて受話器に聞き耳を立てた。
『小僧。プレジデントホテルが損害賠償を求めてきたぞ。賠償額は三千万円じゃ。払えない場合は威力業務妨害罪で訴えると言っておる。どうする? 払えるか? わしは貧乏学者じゃから三千万円などないぞ』
おれは青くなった。三千万円なんて払えるわけがない。この家ですら一千万円だ。その一千万円でさえ親父が二十年ローンで払っている。先生も深刻な顔でおれを見た。
受話器の向こうで紘州パパが笑いはじめた。
『どうじゃ小僧。ちっとはキモが冷えたか? 次から無軌道はほどほどにするがよいぞ』
おれはホッとした。
「なんだ。冗談だったの。パパさんも人が悪い」
『冗談ではない。損害賠償が三千万円というのは本当じゃ』
「えっ? そ。そんなあ」
『青くなる必要はないぞ。条件があるんじゃ』
「条件?」
『さよう。いまプレジデントホテルは宿泊客が押し寄せとる。プレジデントホテルの結婚式場は「日本一幸せになれる結婚式場」として予約が殺到中じゃよ。その話題性にあてこんでおまえと美冴に広告塔になってもらいたいわけじゃ』
「広告塔?」
『そうじゃ。おまえと美冴でパンフレットとビデオを作りたいと言っとる』
「なるほど。ことわれば警察に訴えるって?」
『そうは言っとるがの。本気で訴える気などありゃせんさ。そんなことをすりゃイメージダウンじゃ。「日本一幸せになれる結婚式場」から「世界一不幸になる結婚式場」へ転落するからのう』
「ふむふむ。それもそうだ。じゃおれどうすればいいの?」
『無視してもかまわんよ。しかし男としてのけじめをつける気ならパンフレットとビデオ作りに協力すべきじゃろうな』
「わかった。やるよおれ。でもさ。パンフレットとビデオってどんなことをするわけ? まさかエッチビデオじゃないんでしょ?」
『それはあるまい。そもそもおまえは十六歳じゃ。十六歳の出るエッチビデオを作れば確実に逮捕じゃよ。小僧おまえアダルトビデオなど見てはおらんじゃろうな? アダルトビデオは十八歳未満禁止じゃぞ?』
おれはうろたえた。相手はお堅い大学教授だったっけ。
「あ。いや。おれ。その。そ。そんなことは。き。きっと。ないんじゃないかな。と」
『まあよい。見すごしてやろう。じゃが結婚式場のビデオじゃからキスくらいはあると思っとかねばならんな。花嫁衣装とタキシードでキスを交わす場面は必須じゃろう。ふふふふふ』
紘州パパが受話器の向こうで笑いはじめた。
「あれ? パパさんごきげんだね? 昼間っから酔っぱらってるの?」
『バカ者! アリスと再婚を決めて美冴のノーベル物理学賞受賞もほぼまちがいなしじゃぞ? 目の中にいれても痛くないひとり娘がノーベル賞じゃ。浮かれん父親がおるか』
「うそ? そんなに可愛い娘ならどうしてあんな男に? 不治井はサディストだって話じゃないか?」
『ふふふ。男女の関係は他人に理解できん。美冴はおまえが相手ならムチでぶたれようと笑顔じゃろうさ。わしは不治井がサディストとは知らなんだ。しかしサディストと言っても殺人鬼ではないわ。妻が夫の性的指向に合わせるのは当然じゃ。美冴はおまえの変態性愛に応えておるわけじゃろう?』
「ま。まあね」
『同じ変態なら十六歳の変態より社会人の変態がのぞましいに決まっておる。おまえには十二年も惚れつづけた幼なじみがおった。その女もおまえに惚れておる。いつおまえがその女と相思相愛と気づくかは時間の問題じゃった。そうなれば二十六歳のおばさんよりピチピチの女子高生を取るじゃろうさ。誰が考えてもそうじゃ。十二年も思いつづけたふたりじゃからな。まさかその女がおまえとくっつかんなどとは考えもせんかったわ。ましてタッグを組んで花嫁を強奪にくるとはな。よき幼なじみを持ったのう小僧』
「ああ。おれの自慢の姉貴なんだ」
『おお。そういえばじゃ。その姉貴と彼氏にも出演依頼をしとったな』
「スズネとハルアキにも? なんで?」
『わしは知らんよ。じゃがシャーロックホームズ直伝の一本背負いを録画するんじゃないのかね? 強奪劇の再演をしたいのかもしれん。まあつづきはプレジデントホテルの広報課に聞くがよい。くわしく教えてくれるじゃろう。わしとアリスの再婚式もプレジデントホテルで近く催すことにした。おまえと美冴も便乗して式をあげるがよいぞ』
「はあ? おれは十六歳だから結婚はできない。そう言ったのはパパさんだよ?」
『おろか者! 満十八歳にならねば戸籍上の婚姻ができんだけじゃ。「結婚式を開催してはいかん」という法律はないぞ』
「あ。それもそうか」
『結婚式を先にあげて婚姻届けはおまえが満十八歳になればだせばよかろう。もしくは婚約式ということにして十八歳になればもう一度結婚式を持てばよい。そのほうが美冴はよろこぶかもしれん。結婚式が二度できるわけじゃからな』
おれの顔の横で先生がうんうんとうなずいた。結婚式を二回したいらしい。
「でもおれ結婚式代なんてないよ?」
『その結婚式も広告ビデオの一部じゃ。出演料もだすと言っとった。美冴は教師じゃからアルバイトは禁止じゃ。そのためおまえにアルバイト料をだすとな。おまえらふたりの結婚式はぜひプレジデントホテルでと言っとったぞ。諸費用のいっさいが無料じゃと。そのかわり結婚式の放送権や著作権はプレジデントホテルに属するそうじゃ』
「なるほど」
『そんなわけじゃ。わしらは再婚旅行でタヒチに行く。おまえとその両親も連れてってやる。パスポートを用意しておけ』
「いいの? パパさんは貧乏学者でしょ?」
『たわけ! 三千万円はなくとも旅行費用はあるぞ! わしは立派な社会人じゃ! 親のすねかじりのおまえとはちがう!』
「はあ。たしかにそのとおりです。でもアリスママと水いらずじゃなくていいの?」
『いまさらじゃ。再婚じゃからな。それより家族全員の親睦旅行もよかろうさ。来年にはもっと家族が増えるかもしれんがのう。まあ旅行の用意をしておくがよい。不治井は睾丸の打撲じゃったが因果をふくめてアメリカに送り出した。安心するがよい小僧。おまえが逮捕されるおそれはもうないぞ。しかしじゃ』
「しかし? しかしなに?」
『不治井は顔にサッカーボールがあたったはずじゃ。なのに睾丸の打撲とはこれいかに? そこがわしにはわからん。十九階の床は平坦じゃった。不治井はあおむけに倒れた。睾丸を打つなど考えられん』
おれは苦笑した。ビデオカメラはおれと先生に焦点をあてていた。おれからすこし離れたスズネが不治井のタマを踏みつけたのをレンズは取らえてなかった。それで紘州パパは知らない。不治井はのびていたから本人もわからないはずだ。
「でもさパパさん。どうしてタヒチ? 思い出の地なの?」
『いや。アリスの生物学者としてのテーマは「人類とはなにか」じゃ。娘がノーベル物理学賞なら母親はノーベル生理学賞じゃとはりきっとる。アリスは原点にもどって考えたいのじゃろう』
「あ。それ聞いたことある。『われわれはどこから来たのか? われわれはなにか? われわれはどこへ行くのか?』ってやつだ」
『そのとおり。ポール・ゴーギャンじゃ。小僧はまんざらバカでもないようじゃな。そのゴーギャンの問いに答えをだせばアリスもノーベル賞を取れるじゃろう。わしは凡人じゃがアリスと美冴は天才じゃ。しかし天才はあつかいがむずかしい。小僧くれぐれも美冴をたのんだぞ。理解しがたいとは思うがの』
おれは肩をすくめた。まったくだった。
「わかった。がんばるよパパさん」
『お互い女は理解できんのう。天才が理解できんのではなく女が理解できんのかもしれん。苦労するぞ息子よ』
おれを息子と呼んだのが照れくさいのかガチャンと紘州パパが電話を切った。先生がうふふと笑った。
ふり返るとおふくろが腰を横にふってタヒチ踊りをおどっていた。しかしおふくろそれはハワイアンダンスだぞ? おれはそう胸の奥で突っこんだ。ほっておけばリンボーダンスまでしかねない。おふくろがいちばん浮かれていた。
「タヒチだ。タヒチよ。ランランラン。パスポートを取らなくちゃね。水着も買わなくちゃ。ミサエいっしょに水着を買いにいきましょうね。ああ。こうしちゃいられない。あたし役所にいってくるわ。マサトとミサエはお留守番をおねがいね。ミサエはパスポートを持ってるんでしょ?」
「はいお義母さま。二月までアメリカにいましたから」
「じゃあたしパスポートの申請に行ってくるわね」
おふくろが居間で印鑑を探して出ていった。
おれは先生を連れて自室にはいった。
おれの着替えが終わったときだ。デートに行こうと誘いかけたおれを先生が見た。
「そう言えばです。わたし忘れてました」
「なにを?」
「伊沢くんに数学を教えるのをです。たしかに伊沢くんの期末テストは百点でした。よくがんばりましたね。えらいです。でも伊沢くんは一年生の数学と体育と美術が赤点です。さぼりにさぼったそうですね。体育と美術の先生は『伊沢に追試だと? とんでもない! 絶対にしてやるもんか!』と腹を立ててましたよ。今年も体育と美術をさぼってるんでしょう? しかも両先生のウロコを逆なでするみたいなふざけた態度で? そのままだと伊沢くんは卒業できません。幸い数学の担当はわたしです。追試をしてさしあげますね。だから夏休み返上できょうから一年生の数学の特訓です」
「ええーっ? おれ夏休みなしなのぉ? そんなのねえよぉ!」
「それなら最初から一年生の数学もまじめにやっといてください」
先生が笑いながらおれのズボンに手をかけた。ベルトをゆるめてトランクスを落とした。
「おい先生。なんの特訓だよ? その手はどこにかかってるんだ?」
「いえ。わたしもう二十六歳です。早く子どもを産まないとまずいと思うのです。こないだのお義母さまの話ではわたしも母親になれそうでした。こんなわたしでも母親になっていいのではないかと思いました。そうと決まれば早く欲しいわけです。この手はそういう手ですよ」
「おいおい姉ちゃん。おれの数学はどうなったのさ?」
「人生には数学より大切なことがあります。そうでしょう?」
「あんたが言うな。シャレになってないぞ?」
「そうですか? でもわたし伊沢くんの子どもが欲しいんです。ください」
「おれは十七歳で父親かよ?」
「わたしはいま二十六歳です。ママは十六歳でわたしを産みましたよ?」
「しかしねえ。娘か息子か知らないけどさ。おれが父親として若すぎるといぶかるんじゃないかい? おれ自分の子になんて言えばいいんだ?」
「ママに訊いてみましょうか?」
「いいよ別に。そこまでする必要はないさ。しょうがない。先生の好きなようにすれば? おれがんばって十七歳で父親になってみるよ」
多少の不安がないでもない。この人が母親になれば子どもはどう思うだろう? おれみたいにふりまわされないか? こんな母親はいやだ。そう思わないだろうか? おれがこの人の息子なら確実にそう口をとがらせるぞ? 始末に困る母親になるのではないか?
「けっこうですね。ではキスをしてください。熱い熱いキスを。わたしにだけ」
先生の瞳とくちびるがおれを求めていた。おれは先生を抱きしめた。先生がうっとりと目を閉じた。おれは先生の口に口を近づけた。
その瞬間ふと思った。キスがうれしいのはおれか先生かどちらだろう? ひとつだけわかっていることがある。先生がキスをしてくれるとおれはうれしい。先生もそうなのだろうか? おれを待つ先生の閉じたまぶたはこう語っていた。キスしてくれるとうれしいな。そんな期待に満ちた表情で先生はおれのくちびるを待ち受けていた。
〈了〉